ある日の聖堂の出来事。

ある日の聖堂の出来事。

秋の風が心地よく感じる晴れたある日。
紫の暖簾のお店「聖堂ひじりどう」の前に、一人の老婆が立っていた。
見事な白髪を後ろでまとめ、控えめな模様の着物はスッキリとしていて細身の体を飾っていた。
老婆は店構えをしばらく眺めた後、紫ののれんを静かに潜った。

「いらっしゃいませ………貴女は…」
 溢れる骨董品たちに囲まれるようにして、本を読んでいた店主は、老婆の顔を見てほんのわずか目を見開いた。長い髪を後ろで結った、目元の優しげな、柔和な雰囲気の着物姿の男は、ここの店主。
 老婆が入口に立っていると、にこやかに立ち上がり近づいた。
「これは、お久しぶりですね。お元気でしたか?」
 店主は、老婆のすっかり年を取って、曲がってしまった背中にそっと手を添える。老婆は小さくお辞儀をして長身の男を見上げた。
「はい。ご無沙汰しておりました。貴方も、お元気そうですね」
「私はいつでも元気ですよ。久しぶりに会えて嬉しいです」
 店主はゆっくりと老婆を店の中の招き入れ、椅子に促した。老婆はぐるりと店内を見渡して、
「ここは相変わらずですね」
 と懐かしむように呟いた。皺の深い顔をにこにことほころばせる。その顔を、店主もにこやかに眺めながら老婆のためにお茶を入れる。
「貴女のお茶が飲みたくて来たんですよ」
「それはありがとうございます。冗談でもそう言って頂けたら嬉しいですね」
 茶葉のいい香りが老婆の鼻をくすぐる。満足げに大きくそれを吸い込んだ彼女を見て店主は微笑んだ。
「来られるなら連絡して下さればよかったのに…お迎えに上がることくらいさせてください」
「私を年寄り扱いしてますね?」
 店主の言葉に、笑いながら老婆は睨む。
「そういう訳ではありません。私は女性には優しいんですよ。ご存知なかったでしょうか」
 店主も笑いながら老婆にお茶を差し出した。温かいお茶を一口飲み、老婆は口元を綻ばせた。
 皺だらけの手で湯呑を包む。その様子は穏やかで優しげな彼女の性格が滲み出ているようだ。
「貴方が優しいことは、十分知っています。それと、意外と冷たくて容赦ないことも」
「おや。それは心外です」
「何がですか?」
「私が厳しくするのは、相手にしっかりして欲しいと思うからです。愛情のある厳しさですよ」
 にっこりと笑って話す店主に、老婆は目を丸くして、それから口元を隠して笑った。
「貴方は本当に…変わりませんね」
 クスクスと笑う老婆の様子に店主も笑む。古い友人同士の二人には会えなかった時間など関係ない。そんな雰囲気があった。
「今日はお礼を言いに来ました」
「お礼?」
 老婆は湯呑をテーブルに置いて、店主を見つめる。深い皺に囲まれたその瞳には、店主に対する大きな感謝の気持ちであふれていた。
「あの日。貴方に会わなければ、私は戦後の動乱の中で死んでいたと思います。あの時代を女一人で生きるには、私はあまりにも弱すぎました。助けていただいたお礼を言いたくて来たんです」

 あの日。

 老婆が言うあの日も、今日のように風が吹いていた。ただあの時は春の風だ。その温かな風だけが妙に心地よかった焼野原が、店主の脳裏をよぎる。
 乳飲み子を抱えた若い女性が、フラフラと歩いていた。全身が薄汚れた、でも顔立ちは美しい女性。
 必死に守り抜いたその小さな存在を、彼女は抱きしめて、おぼつかない足取りで、どこに向かうともなく歩いていたのを、店主は何となく見ていた。そして、遠目ながら気づいた。
 その腕の中の存在には魂がないことを。
 血にまみれたその小さな、かつての命の器。汚れた布にくるまれ、大切そうに抱かれているのが悲しかった
 女性は前を見ることもなく俯き加減のまま歩き、そのまま店主の元に向かってきた。そしてのめり込むように店主にぶつかると、生気のない瞳で店主を見上げた。
 血と泥と埃と涙に汚れた彼女の顔は、既に生きる気力もなく、抜け殻になっている。店主はその瞳に笑いかけ、優しい声をかけた。
「お腹は空いていませんか?」
 女性はなんの反応も示さない。ただ暗い瞳で店主を見上げるだけだった。しかしちゃんと見ているわけではない。見えていないという方が正しい。そのまま、店主は自分が歩いてきた道を、彼女を連れて引き返す。女性は黙って後をついてきた。 
 どこをどう歩いたのかは分からない。気づけば、紫の暖簾の店の前に女性は立っていた。
 先ほどまでの焼野原が嘘のような、穏やかな風に揺れるその暖簾。店主はゆっくりと振り返り、女性に笑いかけた。
「私のお店です。遠慮なさらず入って下さい」 
 店主は彼女の背中に手を回すと、店の中に招き入れ座り心地の良い椅子に腰をかけさせた。そして温かいお湯で濡らした手ぬぐいで女性の髪を拭った。一拭きで手ぬぐいは真っ黒になってしまう。店主は何枚も手ぬぐいを使い女性の髪や顔、足、焼けてぼろぼろになった服の隙間から、細くて長い腕を滑り込ませ背中を拭いていく。
 女性はやはり何も言わず何も見ず、反応もない。くすんだガラス玉のような瞳がただ空を見つめていた。
 やがて店主が、女性の腕に抱かれている小さなものに触れようとした時、
「触らないでくださいっ!!!」
 悲鳴のような声で女性が言葉を放った。店主はその様子を黙って見つめる。
 先ほどまで何も示さなかった女性の瞳に、絶望と恐怖と悲しみと怒り。底知れない程の真っ黒な負の感情が沸々と湧きあがり、揺らめいていた。
「この子に…触らないでください。この子は、私のものです。私の子です…この子を…この子を…」 
 ガタガタと大きく体を震えさせ、女性は言葉を続けようとする。しかし思考が働いていないことも見て取れた。店主は無理に触ろうとはせず、女性の前にひざまずき、その痩せた膝に手を置いた。
「貴女のお子さんですよ、その子は。私は何も貴女からその子を取り上げようと思っているのではありません。ただ、供養して差し上げたいのです」
「く…よう…?」
「はい。このまま貴女の腕にいれば、この子は次の命を与えらえなくなります。人は必ず、生まれ変わって来るのです。次の命を神様から授けていただけるように…この子を供養して差しあげませんか」
「供養…この子をですか……この子は死んでなんか…」
 震える指で、今ではすっかり冷たくなってしまった、乳飲み子の頬に触れた女性は、店主が拭って綺麗になった頬に幾筋もの涙を流した。
「残念ながら、この子はもうこの世にはいません。ですが、必ずまた生まれ変わってきます。でもその前に弔いをしてあげなければ、それも叶いません。私が、供養をして差し上げてもよろしいですか?」
 店主は諭すように、優しい声音で女性に語りかける。女性の目から涙が堰を切ったように溢れ、頬を伝い、腕の中の骸に落ちていく。
「私も…この子の…所に行きたい」
 絞り出す女性の声に、店主はふるふると首を振った。
「それはできません。貴女はまだ生きなければならない。この戦火を生きたということは、貴女はまだ死ねないということです。たくさんの命が亡くなりました。でも、貴女はまだ生きている。それが何よりの証拠です」
「じゃあ、私の命と換えてください」
「それもできません。私は供養はできても命を操ることはできないのです。貴女にとっては辛い経験になりましたね…ですが、この先はきっといいことがありますから。それは私が保証します。もうすぐこのバカげた戦争も終わります。そうすれば、平和で落ち着いた日々が戻ってきますよ」
 女性が店主の顔を初めて見た。震える瞳で見つめられ、店主はその優しげな瞳に、慈愛を湛えて見つめ返した。
 何も心配いらない。
 心に直接語りかけられた気がして、女性は店主に問いかける。
「貴女は…何なんですか…?」
「私は、ただの骨董屋の店主ですよ」
 女性の問いかけに、店主はにっこり笑って答えた。



「あれから、貴方の言うとおり、私には幸せすぎるほどの人生が舞い込んできました。良い縁に恵まれて再婚して、子供にも恵まれ、穏やかで楽しい日々でした。今ではひ孫が8人もいるんですよ」
「そうですか…それはよかったです。私も予言が当たったのでホッとしています」
「本当ですよ。これで外れていたら、私は貴方を恨んでいたかもしれません」
 老婆のからかう言い方に、店主は肩をすくめて笑った。
「女性の恨みは怖いですからねぇ。恨まれなかったことに感謝しないといけませんね」
 お互い静かに笑って時間が過ぎる。特別何かを話したりはしない。ただ、向かい合ってお茶を飲みながらポツリポツリと言葉を交わす。
 店の暖簾が、夕日に照らさせる頃、老婆はスッと立ち上がる。
「そろそろ…失礼しなければいけなくなりました」
「…そうですか」
 店主も立ち上がり、その小さな立ち姿を見つめる。
「本当にありがとうございました」
 体を折り曲げて、深々と頭を下げる老婆の肩に、店主は細くて長い手を添えた。
「こちらこそ、訪ねて来て頂いてありがとうございます」
 しばし、見つめ合う。
 人生の皺を刻み込んだ彼女の顔は、最初に会ったあの時と何ら変わらないように見える。顔立ちの綺麗さも、あの日泣いていた瞳も、その後の笑顔の人生も、すべてを受け止めてきた小さな体と表情は綺麗だった。
「良い、人生でしたか?」
 店主の言葉に、老婆は小さく頷いて、花のような笑顔を見せた。
「はい、とても」
「そうですか」
 店主も満足げに頷いて目元を細めた。
 店主の目の前で、老婆の姿がうっすらと霞み、音もなく消えて行った。
「…お疲れ様でした。また、会えることが出来れば、私は嬉しいですよ」
 店主は老婆の座っていた椅子を眺めて、その顔に柔らかい笑みを浮かべた。


 





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