比翼の鳥

風慎

第13話 蜃気楼(13)

この部屋の中にいると、時間の流れが分からなくなる。

相変わらず天井に瞬く星は、静かに淡い光を注いでいた。
音も、風すらも無いこの空間は、外部からの刺激と言う物の無い、ある意味で、無味乾燥な場所だが、またある意味で、自分と言う存在を嫌が応にも、思い知らされる場所でもあった。

心臓が奏でる熱い鼓動を感じる。
体中を流れる血液の循環を、音で、感覚で理解する。
肺が取り込む空気の重さが、自分の命を繋いでいると、実感する。

それは、まさしく、自分が今ここに存在していると言う証であり、本来ならば、それ以外は何もないと言うのが、この部屋の姿であったはずだ。

しかし、今は、寄り添い触れ合った腕の先から、異なるリズムが伝わって来る。
それが、隣に座る存在を殊更ことさらに強調し、そして、意識させた。

だが、お互いの存在をこれ程までに意識しつつも、彼女は勿論の事、俺も黙したまま、口を開かない。
傍から見ると、奇妙でしかないそんな光景が、最初から今迄、ずっと続いている。
そう、俺はあれ以来、一言も発さず、ただ、横で、体育座りをして塞ぎ込む彼女に、文字通り、寄り添っていただけだった。

彼女は今、自分の殻に閉じこもっている。
そんな状態の人に、外から幾ら声をかけたって、殆ど意味を成さないだろう。
いや、場合によっては、それは、本人にとって、攻撃にすら感じられるかもしれないのだ。

俺も、昔、病んで引きこもっていた時期があったから、良く分かる。

閉じこもっていた頃、全てが俺を害する物の様に思えて仕方なかった。
だからこそ、外界から与えられる全ての物が、うっとおしく感じられたんだ。

ふざけんなよ。もう勘弁してくれよ。何が悪かったんだよ。ごめんなさい。俺は悪くない。

そんな一瞬で反転し、別の物に変わる負の感情が、俺を支配し、体の中を絶叫しながら駆け抜けていた。
自分の醜い感情自体を見るのも嫌で、けど、外から与えられる全ての害悪も、見たくなくて、耳を塞ぎ、目を閉じ、必死に、自分を守ろうとしていた。

そんな状況でかけられた言葉が、正しく伝わる訳が無いんだよな。
当時の俺にとって、親の労りの言葉、友人からのメール、窓の外を通りぬけるサイレン、登校する児童のはしゃぎ声……どれもが等しく、と言う名のに変換されて届くだけだった。

言葉とは、相手に正しく届いてこそ、意味がある。
相手に正しく受け取る意思が無いのなら、どんなに素敵な言葉も、徒労にしかならない。
間違って届いた言葉は、誤解を生むし、受け取られなかった言葉は、発した本人へと返り、虚しさや、恨みなど、負の感情を生む事すらある。
そして、今、俺の言葉は、彼女に正しく届く事は無いと断言できる。
殻に閉じこもっている彼女に、その意思は無いのだから。

故に、俺は、今は言葉を使わない。
代わりに使うのは、俺と言う存在自身だ。

人は、自分と言う存在を意識する事は、意外と少ない。
だって、存在の中心が自分なんだから、何かをする時、いちいち、自分と言うものを確認したりはしない。
だが、代わりに、他者の存在に対しては、強烈に意識をする。

それは、他者の存在を通して、自分自身の位置を知る事が、人間にとって必須だからだ。

例えるならば、地図の様なものだろうか。
自分の居場所が分からない時、地図を見て、最初に確認するのは、何だろうか?
地名? お店の名前? それとも、路地の形?
何にせよ、真っ先に探すのは、何か目印になるような、特徴的で、分かり易い物だと思う。
そこから、自分の位置を割り出そうとするのでは無いだろうか? 

他の者と、自分を比較して、自分の立ち位置を間接的に理解する。
自分を知るには、他者の存在が必要不可欠だ。
だから、人間は、無意識に他者の存在を意識せざるを得ない。
それは、自分自身の存在を確定させる為に、必要だからだ。

じゃあ、自分から他者の存在を否定した、過去の引きこもった俺の様な奴は、どうなっていったのだろう。

俺の場合は、最初は、自分の中の負の感情を持て余しつつ、それでも、心の片隅では、安堵感すら感じていたさ。
誰にも邪魔されない、自分だけの世界。今まで苦しめて来た奴らの影が無い世界。
もう、誰にも傷つけられない、自分だけの場所。

だけどね、心の底から、時折、浮かび上がって来る気持ちがあるんだよ。
本当は心の底で、自分でも分からない位小さな声で、呟いているんだよ。

もう嫌だ。助けてくれ。許して欲しい。

けど、他人を自分の心から排除しようとしたのに、そんな言葉、自分の中に認める訳にはいかないさ。
冷静に考えてみれば、あまりにも虫が良すぎるよな。自分で好んで、自分の世界にこもったのに、他者を当てにするような言葉、言えるはずないから。
だから、あらゆる形を使って、強がろうとしたよ。

当時の俺の場合は、自分に暗示をかけて、ごまかした。
もう、一人でこのまま死んでも良い。誰にも迷惑かからないし、って。
むしろ、俺は、屑だから、ひっそりとこのまま朽ちて行った方が良いとすら、本気で考えていたよ。
だって、俺、皆に迷惑かけたくないし、一人でも平気だから。望んでないから。だから、大丈夫。

今の俺なら、鼻で笑ってしまう様な、陳腐な論理武装だ。
今なら分かる。もう、初っ端から破綻しているけど、当時の俺はそれで、ごまかせていると思っていた。

因みに、俺はそうはならなかったけど、人によっては、他者に対して、攻撃的に振る舞う人もいるらしい。

けど、それだって、裏を返せば、全部、そういった弱い自分を認めない為の虚勢でしかない。
弱い自分を認めたくない。他者に振り回され、害される自分を許容できない。
だから、自分を守る為に、必要以上に攻撃的になるんだろう。
弱い自分は嫌だもんな。弱くなかったら、こんな事にはなってなかったもんな。
俺も、そう思ったことあるから、何となく分かるよ。

だけど、さ。

本当は違うだろ?
それは自分が望んでいる、幸せの形じゃないだろう?
解った振りして、諦めた振りをして、自分を慰めているだけだろう?

俺は、ふと、腕から伝わる温もりに、意識を向ける。

……い。

そこには、俺とは違う存在が確かにあって、それは、何故だか、涙が出てしまいそうなほど、安心できる気がして。
けど、そんな他人の存在が、どうしても、腹立たしい気持ちもあって、けど、そんな温もりに、抗えない程、自分は飢えていて。

……しい。

自分に真の意味で向き合った時、奥底から響いてくるそれは、恐らくは、心の本当の叫び。
幾ら自分をごまかそうとしても、誰の心にも、根っこの部分にある、人として抗えない本能のようなもの。

……寂しい。

そう。人は、他の存在を無意識に求める。
どんなに強がっても、騒いでも、泣いても、抗っても、それは恐らくは、根っこの部分では同じ事。

探さないで下さい。そう書き残して家出する、思春期の子供のような。
お前に俺の何が分かるんだよ! そう吐き捨てて、本当の心をごまかす、若者のような。
どうせ何をやっても無駄なんだろうけどさ。そうため息をついて、諦めたふりをする中年のように。

全てが、本心の裏返しで、本当は、心の底では、淡く期待しているんだよ。
自分とは違う存在から、認められるって事をさ。

体勢を変え少し楽な姿勢を取ると、その際、横で貝のように口を閉ざす彼女を意識して、視線を向けた。
俺が見つめているのは、気配で何となく解っているのだろう。
一瞬、体を震わすと、その視線から逃げるように、体に力を入れて、縮こまろうとした。
しかし、同時に、俺と触れている部分から、自分の体を離そうとはしない。
その行動の矛盾が、彼女の本当の気持ちを、如実に物語っていて、俺は苦笑する。

俺は、その隠し切れない気持ちを察し、頭を優しくポンポンと、叩くように撫でる。
一瞬、体を強張らせた彼女だったが、それ以外の反応は、しなかった。いや、我慢してしようとしなかったという所だろうか。耳が真っ赤ですよ? 揚羽あげはさん。

まぁ、大丈夫だ。とことん付き合うぞ。俺は、ここにいるからさ。
そんな思いを込めつつ、俺は優しく、彼女の頭を一定間隔で、リズム良く撫で続ける。
そして、その腕を払われることは、無かったのだった。



ここが生理現象のない世界で、本当に良かった。
トイレの為に、席を離れる必要もない。
食事の為に、動く必要もない。

既に俺の手は彼女の頭には無いが、心持ち、体の硬さは取れたように思える。

あれから、どの位経ったか分からないが、俺は辛抱強く、彼女が心を開くまで、寄り添い続けた。
本当であれば、それは、苦行でさえあるのだろうが、不思議とこの暗い部屋は、俺の考えを纏めるには、最適な環境だったようで、色々な思考を巡らせるには、とても良い結果をもたらした。

封印されていると思われる記憶。
整合性の取れない世界と思考。
揚羽の行動と、その意味。

全てが俺の中で、ある一つの結果を指し示していた。
そして、後は、俺の中で描かれた結果が、どこまで本当に近いものなのか。
もしくは、更に思いも付かない背景を持って、俺を襲うことになるのか。

それを知っているのは、横で口を閉ざし続ける、彼女である。

だが、俺は無理やり聞き出すつもりは、端から無かった。
あくまで、ここに来たのは、彼女に伝えたい事があったから。
その過程で、その答えにたどり着くことが出来たら、僥倖である。その程度の、認識でしか無い。
だから、今の俺には、彼女に寄り添い、待つことしかできない。

彼女の心の扉が開くまで。
そして、彼女が心の底から、ちっぽけな勇気を汲み出せるようになるまで。

俺は、この時間の停滞した空間で、そう、改めて決意し、隣で縮こまる彼女を見守り続けたのだった。



「……ねぇ。」

時間の感覚が間延びし、思考も間延びしていた俺の耳に、微かに届いた彼女の声は、今にも消え入りそうな程、不確かなものだった。
その彼女の呟きを、俺は聞き逃さず、視線を寄越すと、すぐに返事をする。

「うん?」

とは言え、ごく自然に、今まで通りだ。
相変わらず、彼女の頭は膝に埋まったままだが、意識が俺に向いているのは、何となくわかった。

そう、やっと彼女の扉が開いた。

その事が今は、何より嬉しかった。
それから、暫く、彼女の口が言葉を紡ぐことはなかった。しかし、焦ることはない。
間延びした時間が、俺と彼女を包む。

だが、その間にも、彼女の中では、色々な思考が駆け巡り、優先順位が目まぐるしく入れ替わっているのは、想像に難く無かった。
だから、俺は、彼女を落ち着かせるために、またも頭に手を置く。
今度は、撫でないで載せたままだ。

「ゆっくりで良いよ。時間は幾らでもあるさ。」

俺の言葉に反応することもなく、彼女は動かない。
だが、言葉は届いていると実感できた。何より、彼女は俺の手を払わない。
拒絶されていないなら、それでいいさ。後は、時間が解決してくれる。

俺はそうして、彼女の言葉を待つ。
暗闇は、尚も俺たちを等しく包み込んでいたのだった。

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