比翼の鳥
第38話 少女の決意
真っ先に、文字通りに飛んできたルナが、俺の前に降り立ち、手を伸ばそうとして、俺の障壁に気付き、その手を引っ込める。
《 ツバサ、大丈夫? 》
そう、心配そうに文字が宙に踊る。そんな、真っ直ぐなルナの言葉に、俺は思わず笑みを浮かべた。
もっと言うべき事、言いたい事は沢山あるだろうに。それでも、彼女はまず、俺の身を案じてくれる。
見ればルナの周りには、風が渦巻いていた。
それは、彼女と後から続く皆を優しく包み込んで、容赦なく吹き付ける砂から身を守っている。
それでも、完全には遮断できていないのだろう。強烈な日差しを浴び、光り輝く銀の髪には、少量の砂がこびり付いていた。
大変だったろうに……。
それでも彼女は、俺の元へ一直線に駆けつけてくれた。後から続いている皆もそうだ。
特に、リリーやティガ親子は、住み慣れた土地や仲間を天秤にかけ、それでも俺の元へと駆けつけてくれた。
そう簡単に出来る事ではない。俺にだって、いざとなったら出来るかどうか……。
だから、改めて俺は思う。
皆の気持ちに報いたい。
報えなかったレイリさんの分まで、彼女達に何かを返したい。受け取った分、いや、それ以上にだ。
俺は、障壁を解いた。
まるで今まで抑えられていた鬱憤でも晴らすかのように、吹き付けてきた砂の洗礼を受ける。
乾いた空気が、俺の口蓋から水分を奪おうと、入り込んでくる。
不快だ。だが、その不快さが、俺を癒す。
彼女達と同じ場所に立ったという幻想のような自己満足が、俺の罪悪感を一瞬和らげる。
俺はルナの前へと進み、静かに抱きしめた。
彼女は俺の心を見透かしたように、そっと俺の背中を抱く。
そして、「大丈夫」とでも言うように、ゆっくりと俺の背中をさすってくれた。
いつもとは逆の構図。だが、今の俺にはありがたかった。
正直、泣きそうなほど……だ。
何故なら、レイリさんに対して放ってしまった言葉の余韻が、俺の心をかき乱していたからだ。
今まで、好意を寄せてくれた人に、別れの言葉を吐いたのだ。しかも、一方的に。
別に俺自身は、彼女に対して嫌悪など無い。だが、言ってしまった。突き放してしまった。
自分で選んだとは言え、それなりに図太くなった俺でも、これは応えたのだ。
いや、より正確には、じわりじわりと、心に染みるように、今更痛みが出てきた……と言うべきだろうか。
自分への問いかけと、心底から湧き上がる否定の言葉。
こうする事が正しいと確信しながら、尚も迷いを見せる俺の心を、ルナは敏感に感じ取ったのだろう。
彼女の体温を全身で感じるうちに、俺は徐々に高ぶり縮れた心が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。
この細く柔らかな体の何処に、こんな不思議な力があるのだろう?
そう思えるほどに落ち着いた俺は、ルナを抱きしめていた腕から力を抜いた。
冷静にこの状況を客観視すると……途端に恥ずかしくなったのもある。
だから、俺は照れ隠しも兼ねて、ルナに声を掛けた。
「いつもと……逆だな。けど、ありがとう。落ち着いたよ。」
だが、そんな俺の言葉を聞いた彼女は、逆に俺の体を締めるように、その腕に力を入れてくる。
何ゆえ……。
そう思い、俺の胸にがっしりとしがみ付いているルナの顔色を伺おうとすると……少しむくれて上目遣いのルナさんと目が合った。
その目は存分に語っていた。「もうちょっと。」と。
俺は苦笑すると、ルナの頭にぽんと手を載せ言う。
「皆が着くまでな。」
それを聞いたルナは、俺の胸に自分の頭を埋め込むつもりではないか思ってしまうほど、俺にしがみ付き、頬ずりを始める。
ちょ、ルナさん……くたびれた中年の胸には、脂肪しかありませんよ?
だが、ルナは「んふふふふー。」と幻聴が聞こえて来そうなほど、締りの無い笑みで俺にしがみ付いていた。
そんな顔を見て、ああ、いつも通りだな、と何処か懐かしさすら覚えながら観念した。
俺は、そんなルナの髪から砂を払い、頭を撫でながら、皆が到着するのを待つのであった。
あの後、皆と合流した俺は、障壁を張り、地面も軟性の障壁で二重に覆った部屋のような空間を即席で作った。
遮光・空調も完璧。砂が障壁に当たり、激しく音を立てていたので、遮音もして、ついでにステルスで隠蔽もした。
完全に即席の秘密基地状態となった場で、今は皆、思い思いの場所に座り、寛いでいる。
本当の地面との間に軟性の結界が挟みこんであるので、下は砂なのだが、絨毯のように柔らかな床になっていた。
その感触が楽しいのか、クウガとアギトはヒビキの周りで、飛んだり跳ねたりしている。
ちなみに、そのヒビキは、何故か胡坐をかいて座っている俺の膝の上に、どっしりと乗っているわけで、密かに暑いのだが……。
そして、そんなヒビキを、リリーが半分涙目で睨んでいるのだが、ヒビキは意にも介していない。
それ所か……時々、チラリと、リリーに視線を向け、フンッと言うように、視線を逸らしたりして……そんなリリーをルナが、慰めているわけである。
うん……いつも通りで、むしろほっとする。
ついでに、ヒビキの上には、此花と咲耶が座っており、更に俺の右脇と左脇から、完全に抱き着いて離れない。
そんないつも通りの寛ぎモードなのだが、ここは砂漠のど真ん中である。
いつまでもこうして、平和に過ごしているわけにも行かない訳で……俺はまず、礼を述べる形で口火を切った。
「皆、こんな所まで来てくれて、本当にありがとう。まぁ、今更だが……皆、本当に良かったのか? ここから先は森とは別の世界だよ?」
頭を下げ、そう言った俺に、皆頷くと、各々に口を開いた。
「ツバサさんの傍に居たいんです。今はまだ足手まといかもしれませんが……。きっと……強くなって見せますから。だから私も一緒に連れて行って下さい!」
リリーがいつに無く、真剣な口調でそう言った。
《 ルナは、ツバサが行く所に、一緒に行くよ? 》
当然だよね? そんな言葉が後ろに付きそうなほど、自然にルナが文字を躍らせる。
「この咲耶、微力ながら父上のお力になるため、はせ参じ申した。」
「咲耶、硬いわよ? お父様の傍に居たかったんです! これが全てでしょ?」
「む、しかし……。」
「しかしも、案山子も無いわよ! お父様の傍に居たくないの?」
「いや、それは、その……いたい……です。」
「でしょ! 私もお傍にいたいですわ! ね? お父様。」
「あ、ああ。二人とも、あまり一緒にいられなかったから、お父さん嬉しいよ。」
呆気にとられつつ、俺はそう答えた。
なんだろうか? 暫く見ないうちに、此花がプチディーネちゃん化している。
親は無くとも子は育つ……と言うが、精霊もそういうものなのだろうか。
俺が此花の将来に若干の不安を抱いていると、ヒビキが短く声を上げた。
その声の様子から、並々ならぬ思いを感じる。
「えっと、『私達親子も、ツバサ様のためならば、この命惜しくもありません。それに、森の外を見るまたとない機会です。私もこの子達も、ツバサ様のお役に立てるよう、全力で事に当たります。』 だ、そうですわ。」
此花が例のごとく通訳してくれた言葉を聞きながら、俺は頬を緩める。
全く、相変わらずこの獣様は、人以上に人らしい。
「ヒビキ……。気持ちは嬉しいけど、そこまで重く受け止めないでくれ。貴女も家族の一員なんだ。だから、ちゃんと無事に、一緒に森に帰ろう。な?」
俺の言葉に、一声返したヒビキ声には、若干の不満と、感謝の気持ちが感じられた。
それを確認して、俺は気を引き締めると、皆に話しかける。
「まぁ、とりあえず、皆に言いたいのは、決して無理をしないで欲しいと言うことなんだ。何より、ここから先は、人族の世界だ。恐らく……俺とルナを除いた他の皆は、苦労をかける事になると思う。」
俺の言葉を聞いて、皆が真剣な表情になった。
そう、ここから先は、人族の世界だ。今までとは訳が違う。
更に、これまで聞いた話を総合すれば、特に問題なのは……。
「特に、リリー。」
俺はリリーを見つめる。俺の真剣な表情に、一瞬、気圧されたように耳をへにょーんと力なく垂れさせたが、直ぐに真剣な表情で俺を見つめ返してきた。耳は、そのままへたれているが……。
「人族の間では、獣人族の扱いは劣悪なようだ。多分、奴隷のような生活を送っているだろう。」
これは、今までの話を総合して導いた物だ。だが、恐らく間違いない。
勇者の例もあって確信へと変わったが、この世界の人族社会には、奴隷制度がある。
今井さんが、あのような仕打ちを受けていたくらいだ。もっと酷い扱いを受ける者達も多いだろう。
そして、その最下層に位置すると思われる獣人族が、どれだけ苛烈な扱いを受けるか、想像もつかない。
「だから、リリー。君は、暫くの間、ティガ親子や此花や咲耶と、一緒に行動して欲しい。俺とルナは、まず人族の町に潜入して情報を集める事にする。こういった拠点を作るから、そこで暫く待っていて欲しいんだ。」
そう、恐らくこれが一番、リスクが少ない方法だろう。
本音で言えば、俺一人で行動したいぐらいだが、俺に何かあったとき、どうにもならない。
特に、俺に何かあってルナ様が激昂したら、人族と全面戦争になりかねん……。
むぅ……想像しただけで震えが……。いや、ルナさん、そんな不満げな目で見られても駄目ですよ? 貴女にも自覚はあるでしょ?
そんな俺の別の心配を他所に、リリーは意外な一言を放った。
「いいえ……お断りします。私も、ツバサさんと一緒に行きます。」
一瞬にして、その場が静まり返る。
それ程までに、意外だった。
俺だけじゃない。ルナも、此花も、咲耶も、ヒビキですら……リリーが何を言ったのか判らない、と言う表情をしている。
いち早く俺は我に返ると、言葉を返した。
「い、いや、リリー。それはあまりにも危険なんだ。獣人族と言うだけで、何をされるかわからない。ある意味、精霊である此花や咲耶、獣であるヒビキ達の方が、安全である可能性が高い位なんだよ。だから……。」
「嫌です。私は、ツバサさんのお傍に居たいんです。だから、何処までも着いていきます。」
「リリーさん……。」
「リリー殿……。」
此花と咲耶の呟きが、ポツリと声を零す。
ああ、これは本気だ。皆がそうわかってしまう程、リリーの声には力があった。
「お母さん、ツバサさんの闘っている姿を見て、こう言ったんです。『あれは次元が違う。別の何かだ』って。」
俺はその言葉に、頭を殴られたような衝撃を受ける。
そ、そうだよな。そりゃ、あれだけ、無節操に暴れれば……いや、だが……。
それでも俺は、心を揺らしながらも、リリーを見つめ、言葉をかけようとした。
だが、その前に、リリーは更に口を開く。
「お母さん、震えていました……。あれだけ、ツバサさんの事、本当に好きで……子供だって欲しいって。何かあると、自分が子供みたいに、嬉しそうにはしゃいでいたのに。そんなお母さんが、怖いって……ツバサさんが恐ろしいって。私、それがショックでした。」
リリーは、笑顔で……泣いていた。
本当に綺麗な笑顔で、目から涙を溢れさせている彼女に、
「リリー、それは良いんだ。仕方ないんだ。」
そう言うことしかできなかった。
俺のありきたりな、力の無い言葉に、リリーは、微笑みながら、返す。
「仕方なくないですよ。私、馬鹿だから、子供だから、お母さんの気持ちが、判らないだけかも知れないです……。もっと色々な事を経験して、そうしたら、判るかもしれないです。……けど、私、戦っているツバサさんを見たとき、思ったんです。」
リリーは、目に涙を湛えながら、それでも、耳を天へとそそり立たせ、尻尾を大きく一振りすると、それ程大きくは無い声で言う。
「私、ツバサさんの隣に立ちたい。この人を一生支えたいって。」
障壁が一瞬、振動した。
リリーのその言葉に、一転の曇りも無かった。
リリーは、透き通るほど、純粋な心をそのままに、言葉に乗せてぶつけて来たのだ。
そして、俺はその言葉を受け、心を揺さぶられたのだった。
何て純粋。何て、真っ直ぐ。そして、なんて……。
そう思った瞬間、ヒビキが不機嫌そうに唸る。
途端に今まで張っていたリリーの覇気は霧散し、耳と尻尾がへにょりと枝垂れた。
ああ、うん。リリー……何だか、色々惜しいが、それでもリリーらしくて、俺は嬉しいよ。
一瞬、垣間見えた彼女の思いは、間違いなく本物だった。
リリーは、本気で俺の隣に立とうとしている。判ってしまった。彼女は本当にそう思っている。
森の皆から、常識外れと言われ、王として畏怖される程度に埒外の、俺の隣にだ。
レイリさんが、あっさりと心を折ってしまった、あの力を見て、それでも、である。
その思いが俺には、ただ、嬉しかった。
しかし、そう思っていた俺の膝から、突然、ヒビキが弾丸の様に、リリーへと襲い掛かる。
「はう!?」
不意を突かれた格好になったのだろう。リリーの悲鳴が聞こえた。
そして、見るとヒビキが仰向けになったリリーを組み敷いている。
馬乗りになったヒビキは、リリーを完全に押さえ込むと、唸るように鳴いた。
だが、それを、聞いた此花と咲耶は、戸惑っている。
「ヒビキ、どうした? 此花、咲耶、ヒビキは何だって?」
声の調子からして、苛立っているのはわかるんだが……。
リリーは必死に、ヒビキの拘束から逃れようとしているが、元々の体格差もあってか、もがくに留まる。
「えっと……それが。」
「少々、あの……むぅ。」
そんな風に、言葉を詰まらせる、此花と咲耶。
その態度に苛立ったように、ヒビキは再度、低く鳴いた。
うーん。何となくだが、ヒビキが何を言っているのか判る気がする。
俺は、ヒビキが思っているであろう事を考える。
彼女は、何故か俺以上に大人だ。そして、賢い。
……うん、任せてみよう。
俺はそう決めると、口を開く。
「此花、咲耶。ヒビキの言っている事を、正確に、リリーに伝えてくれ。」
「いや、しかし……。」
「ちょっと、リリーさんが……その。」
そんな俺の言葉に、二人とも、難色を示す。
「大丈夫。ちゃんとお父さんがフォローするから。但し、一言一句、正確に頼むな。」
俺がそういうと、渋々と言う感じで、二人は翻訳し始めた。
「えっと、『随分、大きな口を叩きますね。何の力も無い小娘の分際で。』……だそうです。」
その訳を聞いた瞬間、リリーはヒビキを睨む。
その様子を見て、ヒビキはつまらなさそうに、鼻を鳴らし、次いで鳴く。
いや、あんた、本当に、人じゃないの? 中に誰かいるんじゃないの? そう思ってしまうほど、立派に悪役面である。
「えー……『こうやって、私如きに組み伏せられても、跳ね返せないほど弱いのに、どうやってツバサ様の隣に立つつもりですか? そう言うのを我侭って言うんですよ? お嬢ちゃん。』……との事です。」
これにはカチンと来たらしく、リリーは耳と尻尾を逆立てて、暴れながら言う。
「そんな事無いです! 絶対に、絶対に……貴女なんかに……負けないもん!」
突然力の増したリリーに、一瞬、ピクリと眉をひそめるも、ヒビキは悠々と、更にそれを上回る力で抑え込む。
一瞬、障壁が振動した。
そうして、呆れたように、一声鳴く。
「えっと、『そうやって、威勢を吐くだけなら子供でも出来ますね。けれど、現実はご覧の通り。貴女は弱い。これは覆せない事実ですよ?』……だそうですわ。」
「そんな事……無いです! 私は、絶対に……ツバサさんのお傍に……いるんです! 絶対に!」
集中が極限まで高まっているのか、リリーの魔力が変質し始める。
それに伴い、リリーの腕がまたもヒビキの抑えを跳ね返し始めた。
しかし、ヒビキは尚も詰まらなさそうに鼻を鳴らすと、少し大きめの声で吼えた。
その瞬間、風がヒビキを取り巻き、またしてもリリーを床へとあっさり押し付ける。
リリーは必死に抵抗しているようだが、腕どころか指すら、ピクリとも動かせないようだ。
「えー……、『言うだけなら、願うだけなら誰でも出来るのですよ。けど、願っても、思いだけでも、貴女は私に勝てない。世界は、貴女の都合に合わせて動いてはくれないのですよ。判りましたか? お嬢ちゃん。』……との事です。」
リリーは尚も集中し、魔力を高めているようだが、それでもヒビキを跳ね返すには至らない。
しかし、こうやって見ると、差は歴然だ。
ヒビキの魔力制御能力、そして、質、量共に、リリーを圧倒している。
俺が昔、共闘したときのヒビキとはまるで別人……いや、別虎? である。
それだけ、彼女は努力したのだろう。
リリーは額に汗を貼り付けながら、完全に押さえ込まれていても……それでも諦めず、気丈に言い返す。
「そんな事……! ……知っている! 判っているよ! けど、それでも、私は、着いていくの! 行きたいの!」
そんな傍から見ると駄々としか見えかねない言葉でも、リリーの言葉は真剣そのものだった。
そうか。リリーは……そこまで。
思う所があり、俺がリリーに声を掛けようとした時、またしても、ヒビキが吼える。
障壁がビリビリと揺れ、そして、鈍い音と共に、衝撃が走る。
ヒビキは少し、いや、かなり苛立っているようだ。
「えっと……『力も無く、それでものこのこと、ただ、ツバサ様の後ろに着いて行って、ツバサ様に守っていただいて、それで隣に立つ? お姫様ごっこなら、他でやって下さい。そして、ツバサ様の手を煩わせないで!』……だそうですわ。」
その言葉に、リリーは悔しさの余りだろう。涙を流しながら、それでもヒビキから視線を逸らさず言う。
「そうですよ。ヒビキさんが言うように、今の私では、ツバサさんのお役には立てないかもしれないです。けど、それでも、私は……私は、この想いにだけは嘘はつきたくないの! 今の私が、出来る事は、ツバサさんの傍にいる事だけだもん! どんなに嫌われても、弱くても、着いていく事だけは譲れないの! ここだけは、絶対に!」
障壁が鈍く振動する中、俺は考える。
最初、俺はリリーの真意を量りかねていた。
レイリさんと別れる事になり、その分、自分が……と言う意識に支配されているのではないかと、危惧していたのだ。
だから、俺は、ヒビキとのやり取りを通して、真意を見極めるつもりだった。
そして、判ってしまった。
リリーはどこまでも純粋に、本気で、俺の隣に立とうとしている。
そこには打算も、他人の意見も、状況も何もかも関係ない。
純粋に、欲求にしたがって、彼女はそこへ至ろうと、ただもがいている。
普通の人は、思い描く未来へ、ある程度の道筋を立てるものだ。
どうしたら、そうなれるか。
そうなるには、何が必要か。
そうして、階段を踏みしめ、一段ずつ上るように、人は目標に向かって進む。
これが普通である。
だが、ごく稀にいるのだ。
その過程も、手段も、全てをすっ飛ばして、がむしゃらに突き進み、そこへと至る人が。
文字通り、全てを投げ打つ事の出来る人がいるのである。
それは、明らかに普通ではない。
ここまで強い想いを秘めていたとは……これは、もしかすると……。
ヒビキがチラリと俺を見た。
その顔は正に、渋面であり、「この馬鹿、どうします?」と書かれている。
俺は苦笑すると、
「ヒビキ、そこまでだ。お前の負けだよ。」
そう、声を掛ける。
凄く嫌そうな顔でヒビキは抗議の声を上げるも、大人しくリリーの拘束を解いて、俺の膝の上へと少し乱暴に戻ってきた。
俺はヒビキの体を優しく撫で、少しでも機嫌を直してもらえるよう、努力する。
見ると、ルナがリリーに駆け寄り、治療魔法を掛けていた。
無茶な力の入れ方をして、筋でも痛めたのだろう。
そんなリリーは、涙目になりながら、ルナに色々と言っている。
「リリー。君の想いは、良くわかった。そうまで決意しているなら、俺も別の方法を考えるよ。」
そういう俺の言葉に、リリーは耳を起立させると、一瞬呆けたように、俺に目を向けた。
「本当に……ですか?」
障壁が大きく振動する中、俺は頷くと、
「ああ、あそこまで言われたら、考えざるを得ないしね。これで、無理に言うこと聞かせても、後で勝手に行動される方が、大変な事になりそうだし。俺だって、そこまでしようとは思ってないよ。」
そう説明した。
まぁ、あくまで、一番リスクが少ないと思われるやり方を提示したに過ぎないからな。
別に、他の方法が無いわけでもない。
リリーがそこまで着いて来たいというなら、その方法を模索するほうが、結果的にリスクを下げる事になるだろう。
感激したように、しきりに頭を下げ、礼を述べるリリーを見て癒されながら、俺が思索していると、またも、障壁が大きく揺れる。
「あ、あれ? ところで、ツバサさん。なんでここ、こんなに揺れるんですか? 先程から、何回か揺れていましたよね?」
そんな事を質問するリリーを、ヒビキはチラリと見ると、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あー、まぁ、ほら。リリーは感知できないし……背中越しだったしなぁ。」
俺が曖昧に言うと、此花も咲耶も、そしてルナも苦笑した。
「え? ええ? な、何ですか? 皆で! 私だけ仲間はずれは酷いですよぉ!」
「あー、うん。けど、世の中、知らないほうが良い事も沢山有ると思うんだ、ね?」
俺は頬をかきながら、そう言うも、リリーは納得しない様子だった。
そんな様子を見たルナが、リリーの方を叩き、そして、リリーの足元を指差す。
「へ? ルナちゃん、何? 何もな……。」
その瞬間、足元の砂が、一瞬にして無くなり、代わりにびっしりと並んだ刃が足元に現われ、障壁に阻まれて、障壁全体を揺らす。
その光景をもろに見たリリーは、一瞬にして顔から血の気を無くす。
そんな中、俺は、出来るだけリリーにショックを与えないように、
「あー……うん、リリーが床に押し付けられてから、何でか下からこう、その生き物が、障壁に突撃してるんだよね。多分、この砂漠に住む生き物なんだろうけど……いやー、なかなか興味深いよね。砂の中泳ぐとかさ。」
そう説明した。そんな俺の言葉に、リリーは
「つ、ツバサさん……これってもしかして、わ、わわ、私が狙われてません?」
と、祈るようにこちらに問いかけてきた。
俺は頬をかき苦笑しながら、頷くに止める。
その時、また、リリーの足元に牙がびっしりと生え……障壁が少し大きく揺れた。
こりゃ、完全に餌認定されているな……明らかにリリーを狙ってるわ。
恐らくワーム型の生き物なんだろうが……よほどリリーが美味しく見えるようで、しきりに先程からアタックを敢行していたのだ。
ヒビキに押し倒されていた時も、リリーの背中越しの光景はなかなかにスリリングだった。
リリーの悲鳴を聴きながら、そんな回想をする俺の膝の上で、ヒビキは、不機嫌そうに不貞寝するのだった。
《 ツバサ、大丈夫? 》
そう、心配そうに文字が宙に踊る。そんな、真っ直ぐなルナの言葉に、俺は思わず笑みを浮かべた。
もっと言うべき事、言いたい事は沢山あるだろうに。それでも、彼女はまず、俺の身を案じてくれる。
見ればルナの周りには、風が渦巻いていた。
それは、彼女と後から続く皆を優しく包み込んで、容赦なく吹き付ける砂から身を守っている。
それでも、完全には遮断できていないのだろう。強烈な日差しを浴び、光り輝く銀の髪には、少量の砂がこびり付いていた。
大変だったろうに……。
それでも彼女は、俺の元へ一直線に駆けつけてくれた。後から続いている皆もそうだ。
特に、リリーやティガ親子は、住み慣れた土地や仲間を天秤にかけ、それでも俺の元へと駆けつけてくれた。
そう簡単に出来る事ではない。俺にだって、いざとなったら出来るかどうか……。
だから、改めて俺は思う。
皆の気持ちに報いたい。
報えなかったレイリさんの分まで、彼女達に何かを返したい。受け取った分、いや、それ以上にだ。
俺は、障壁を解いた。
まるで今まで抑えられていた鬱憤でも晴らすかのように、吹き付けてきた砂の洗礼を受ける。
乾いた空気が、俺の口蓋から水分を奪おうと、入り込んでくる。
不快だ。だが、その不快さが、俺を癒す。
彼女達と同じ場所に立ったという幻想のような自己満足が、俺の罪悪感を一瞬和らげる。
俺はルナの前へと進み、静かに抱きしめた。
彼女は俺の心を見透かしたように、そっと俺の背中を抱く。
そして、「大丈夫」とでも言うように、ゆっくりと俺の背中をさすってくれた。
いつもとは逆の構図。だが、今の俺にはありがたかった。
正直、泣きそうなほど……だ。
何故なら、レイリさんに対して放ってしまった言葉の余韻が、俺の心をかき乱していたからだ。
今まで、好意を寄せてくれた人に、別れの言葉を吐いたのだ。しかも、一方的に。
別に俺自身は、彼女に対して嫌悪など無い。だが、言ってしまった。突き放してしまった。
自分で選んだとは言え、それなりに図太くなった俺でも、これは応えたのだ。
いや、より正確には、じわりじわりと、心に染みるように、今更痛みが出てきた……と言うべきだろうか。
自分への問いかけと、心底から湧き上がる否定の言葉。
こうする事が正しいと確信しながら、尚も迷いを見せる俺の心を、ルナは敏感に感じ取ったのだろう。
彼女の体温を全身で感じるうちに、俺は徐々に高ぶり縮れた心が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。
この細く柔らかな体の何処に、こんな不思議な力があるのだろう?
そう思えるほどに落ち着いた俺は、ルナを抱きしめていた腕から力を抜いた。
冷静にこの状況を客観視すると……途端に恥ずかしくなったのもある。
だから、俺は照れ隠しも兼ねて、ルナに声を掛けた。
「いつもと……逆だな。けど、ありがとう。落ち着いたよ。」
だが、そんな俺の言葉を聞いた彼女は、逆に俺の体を締めるように、その腕に力を入れてくる。
何ゆえ……。
そう思い、俺の胸にがっしりとしがみ付いているルナの顔色を伺おうとすると……少しむくれて上目遣いのルナさんと目が合った。
その目は存分に語っていた。「もうちょっと。」と。
俺は苦笑すると、ルナの頭にぽんと手を載せ言う。
「皆が着くまでな。」
それを聞いたルナは、俺の胸に自分の頭を埋め込むつもりではないか思ってしまうほど、俺にしがみ付き、頬ずりを始める。
ちょ、ルナさん……くたびれた中年の胸には、脂肪しかありませんよ?
だが、ルナは「んふふふふー。」と幻聴が聞こえて来そうなほど、締りの無い笑みで俺にしがみ付いていた。
そんな顔を見て、ああ、いつも通りだな、と何処か懐かしさすら覚えながら観念した。
俺は、そんなルナの髪から砂を払い、頭を撫でながら、皆が到着するのを待つのであった。
あの後、皆と合流した俺は、障壁を張り、地面も軟性の障壁で二重に覆った部屋のような空間を即席で作った。
遮光・空調も完璧。砂が障壁に当たり、激しく音を立てていたので、遮音もして、ついでにステルスで隠蔽もした。
完全に即席の秘密基地状態となった場で、今は皆、思い思いの場所に座り、寛いでいる。
本当の地面との間に軟性の結界が挟みこんであるので、下は砂なのだが、絨毯のように柔らかな床になっていた。
その感触が楽しいのか、クウガとアギトはヒビキの周りで、飛んだり跳ねたりしている。
ちなみに、そのヒビキは、何故か胡坐をかいて座っている俺の膝の上に、どっしりと乗っているわけで、密かに暑いのだが……。
そして、そんなヒビキを、リリーが半分涙目で睨んでいるのだが、ヒビキは意にも介していない。
それ所か……時々、チラリと、リリーに視線を向け、フンッと言うように、視線を逸らしたりして……そんなリリーをルナが、慰めているわけである。
うん……いつも通りで、むしろほっとする。
ついでに、ヒビキの上には、此花と咲耶が座っており、更に俺の右脇と左脇から、完全に抱き着いて離れない。
そんないつも通りの寛ぎモードなのだが、ここは砂漠のど真ん中である。
いつまでもこうして、平和に過ごしているわけにも行かない訳で……俺はまず、礼を述べる形で口火を切った。
「皆、こんな所まで来てくれて、本当にありがとう。まぁ、今更だが……皆、本当に良かったのか? ここから先は森とは別の世界だよ?」
頭を下げ、そう言った俺に、皆頷くと、各々に口を開いた。
「ツバサさんの傍に居たいんです。今はまだ足手まといかもしれませんが……。きっと……強くなって見せますから。だから私も一緒に連れて行って下さい!」
リリーがいつに無く、真剣な口調でそう言った。
《 ルナは、ツバサが行く所に、一緒に行くよ? 》
当然だよね? そんな言葉が後ろに付きそうなほど、自然にルナが文字を躍らせる。
「この咲耶、微力ながら父上のお力になるため、はせ参じ申した。」
「咲耶、硬いわよ? お父様の傍に居たかったんです! これが全てでしょ?」
「む、しかし……。」
「しかしも、案山子も無いわよ! お父様の傍に居たくないの?」
「いや、それは、その……いたい……です。」
「でしょ! 私もお傍にいたいですわ! ね? お父様。」
「あ、ああ。二人とも、あまり一緒にいられなかったから、お父さん嬉しいよ。」
呆気にとられつつ、俺はそう答えた。
なんだろうか? 暫く見ないうちに、此花がプチディーネちゃん化している。
親は無くとも子は育つ……と言うが、精霊もそういうものなのだろうか。
俺が此花の将来に若干の不安を抱いていると、ヒビキが短く声を上げた。
その声の様子から、並々ならぬ思いを感じる。
「えっと、『私達親子も、ツバサ様のためならば、この命惜しくもありません。それに、森の外を見るまたとない機会です。私もこの子達も、ツバサ様のお役に立てるよう、全力で事に当たります。』 だ、そうですわ。」
此花が例のごとく通訳してくれた言葉を聞きながら、俺は頬を緩める。
全く、相変わらずこの獣様は、人以上に人らしい。
「ヒビキ……。気持ちは嬉しいけど、そこまで重く受け止めないでくれ。貴女も家族の一員なんだ。だから、ちゃんと無事に、一緒に森に帰ろう。な?」
俺の言葉に、一声返したヒビキ声には、若干の不満と、感謝の気持ちが感じられた。
それを確認して、俺は気を引き締めると、皆に話しかける。
「まぁ、とりあえず、皆に言いたいのは、決して無理をしないで欲しいと言うことなんだ。何より、ここから先は、人族の世界だ。恐らく……俺とルナを除いた他の皆は、苦労をかける事になると思う。」
俺の言葉を聞いて、皆が真剣な表情になった。
そう、ここから先は、人族の世界だ。今までとは訳が違う。
更に、これまで聞いた話を総合すれば、特に問題なのは……。
「特に、リリー。」
俺はリリーを見つめる。俺の真剣な表情に、一瞬、気圧されたように耳をへにょーんと力なく垂れさせたが、直ぐに真剣な表情で俺を見つめ返してきた。耳は、そのままへたれているが……。
「人族の間では、獣人族の扱いは劣悪なようだ。多分、奴隷のような生活を送っているだろう。」
これは、今までの話を総合して導いた物だ。だが、恐らく間違いない。
勇者の例もあって確信へと変わったが、この世界の人族社会には、奴隷制度がある。
今井さんが、あのような仕打ちを受けていたくらいだ。もっと酷い扱いを受ける者達も多いだろう。
そして、その最下層に位置すると思われる獣人族が、どれだけ苛烈な扱いを受けるか、想像もつかない。
「だから、リリー。君は、暫くの間、ティガ親子や此花や咲耶と、一緒に行動して欲しい。俺とルナは、まず人族の町に潜入して情報を集める事にする。こういった拠点を作るから、そこで暫く待っていて欲しいんだ。」
そう、恐らくこれが一番、リスクが少ない方法だろう。
本音で言えば、俺一人で行動したいぐらいだが、俺に何かあったとき、どうにもならない。
特に、俺に何かあってルナ様が激昂したら、人族と全面戦争になりかねん……。
むぅ……想像しただけで震えが……。いや、ルナさん、そんな不満げな目で見られても駄目ですよ? 貴女にも自覚はあるでしょ?
そんな俺の別の心配を他所に、リリーは意外な一言を放った。
「いいえ……お断りします。私も、ツバサさんと一緒に行きます。」
一瞬にして、その場が静まり返る。
それ程までに、意外だった。
俺だけじゃない。ルナも、此花も、咲耶も、ヒビキですら……リリーが何を言ったのか判らない、と言う表情をしている。
いち早く俺は我に返ると、言葉を返した。
「い、いや、リリー。それはあまりにも危険なんだ。獣人族と言うだけで、何をされるかわからない。ある意味、精霊である此花や咲耶、獣であるヒビキ達の方が、安全である可能性が高い位なんだよ。だから……。」
「嫌です。私は、ツバサさんのお傍に居たいんです。だから、何処までも着いていきます。」
「リリーさん……。」
「リリー殿……。」
此花と咲耶の呟きが、ポツリと声を零す。
ああ、これは本気だ。皆がそうわかってしまう程、リリーの声には力があった。
「お母さん、ツバサさんの闘っている姿を見て、こう言ったんです。『あれは次元が違う。別の何かだ』って。」
俺はその言葉に、頭を殴られたような衝撃を受ける。
そ、そうだよな。そりゃ、あれだけ、無節操に暴れれば……いや、だが……。
それでも俺は、心を揺らしながらも、リリーを見つめ、言葉をかけようとした。
だが、その前に、リリーは更に口を開く。
「お母さん、震えていました……。あれだけ、ツバサさんの事、本当に好きで……子供だって欲しいって。何かあると、自分が子供みたいに、嬉しそうにはしゃいでいたのに。そんなお母さんが、怖いって……ツバサさんが恐ろしいって。私、それがショックでした。」
リリーは、笑顔で……泣いていた。
本当に綺麗な笑顔で、目から涙を溢れさせている彼女に、
「リリー、それは良いんだ。仕方ないんだ。」
そう言うことしかできなかった。
俺のありきたりな、力の無い言葉に、リリーは、微笑みながら、返す。
「仕方なくないですよ。私、馬鹿だから、子供だから、お母さんの気持ちが、判らないだけかも知れないです……。もっと色々な事を経験して、そうしたら、判るかもしれないです。……けど、私、戦っているツバサさんを見たとき、思ったんです。」
リリーは、目に涙を湛えながら、それでも、耳を天へとそそり立たせ、尻尾を大きく一振りすると、それ程大きくは無い声で言う。
「私、ツバサさんの隣に立ちたい。この人を一生支えたいって。」
障壁が一瞬、振動した。
リリーのその言葉に、一転の曇りも無かった。
リリーは、透き通るほど、純粋な心をそのままに、言葉に乗せてぶつけて来たのだ。
そして、俺はその言葉を受け、心を揺さぶられたのだった。
何て純粋。何て、真っ直ぐ。そして、なんて……。
そう思った瞬間、ヒビキが不機嫌そうに唸る。
途端に今まで張っていたリリーの覇気は霧散し、耳と尻尾がへにょりと枝垂れた。
ああ、うん。リリー……何だか、色々惜しいが、それでもリリーらしくて、俺は嬉しいよ。
一瞬、垣間見えた彼女の思いは、間違いなく本物だった。
リリーは、本気で俺の隣に立とうとしている。判ってしまった。彼女は本当にそう思っている。
森の皆から、常識外れと言われ、王として畏怖される程度に埒外の、俺の隣にだ。
レイリさんが、あっさりと心を折ってしまった、あの力を見て、それでも、である。
その思いが俺には、ただ、嬉しかった。
しかし、そう思っていた俺の膝から、突然、ヒビキが弾丸の様に、リリーへと襲い掛かる。
「はう!?」
不意を突かれた格好になったのだろう。リリーの悲鳴が聞こえた。
そして、見るとヒビキが仰向けになったリリーを組み敷いている。
馬乗りになったヒビキは、リリーを完全に押さえ込むと、唸るように鳴いた。
だが、それを、聞いた此花と咲耶は、戸惑っている。
「ヒビキ、どうした? 此花、咲耶、ヒビキは何だって?」
声の調子からして、苛立っているのはわかるんだが……。
リリーは必死に、ヒビキの拘束から逃れようとしているが、元々の体格差もあってか、もがくに留まる。
「えっと……それが。」
「少々、あの……むぅ。」
そんな風に、言葉を詰まらせる、此花と咲耶。
その態度に苛立ったように、ヒビキは再度、低く鳴いた。
うーん。何となくだが、ヒビキが何を言っているのか判る気がする。
俺は、ヒビキが思っているであろう事を考える。
彼女は、何故か俺以上に大人だ。そして、賢い。
……うん、任せてみよう。
俺はそう決めると、口を開く。
「此花、咲耶。ヒビキの言っている事を、正確に、リリーに伝えてくれ。」
「いや、しかし……。」
「ちょっと、リリーさんが……その。」
そんな俺の言葉に、二人とも、難色を示す。
「大丈夫。ちゃんとお父さんがフォローするから。但し、一言一句、正確に頼むな。」
俺がそういうと、渋々と言う感じで、二人は翻訳し始めた。
「えっと、『随分、大きな口を叩きますね。何の力も無い小娘の分際で。』……だそうです。」
その訳を聞いた瞬間、リリーはヒビキを睨む。
その様子を見て、ヒビキはつまらなさそうに、鼻を鳴らし、次いで鳴く。
いや、あんた、本当に、人じゃないの? 中に誰かいるんじゃないの? そう思ってしまうほど、立派に悪役面である。
「えー……『こうやって、私如きに組み伏せられても、跳ね返せないほど弱いのに、どうやってツバサ様の隣に立つつもりですか? そう言うのを我侭って言うんですよ? お嬢ちゃん。』……との事です。」
これにはカチンと来たらしく、リリーは耳と尻尾を逆立てて、暴れながら言う。
「そんな事無いです! 絶対に、絶対に……貴女なんかに……負けないもん!」
突然力の増したリリーに、一瞬、ピクリと眉をひそめるも、ヒビキは悠々と、更にそれを上回る力で抑え込む。
一瞬、障壁が振動した。
そうして、呆れたように、一声鳴く。
「えっと、『そうやって、威勢を吐くだけなら子供でも出来ますね。けれど、現実はご覧の通り。貴女は弱い。これは覆せない事実ですよ?』……だそうですわ。」
「そんな事……無いです! 私は、絶対に……ツバサさんのお傍に……いるんです! 絶対に!」
集中が極限まで高まっているのか、リリーの魔力が変質し始める。
それに伴い、リリーの腕がまたもヒビキの抑えを跳ね返し始めた。
しかし、ヒビキは尚も詰まらなさそうに鼻を鳴らすと、少し大きめの声で吼えた。
その瞬間、風がヒビキを取り巻き、またしてもリリーを床へとあっさり押し付ける。
リリーは必死に抵抗しているようだが、腕どころか指すら、ピクリとも動かせないようだ。
「えー……、『言うだけなら、願うだけなら誰でも出来るのですよ。けど、願っても、思いだけでも、貴女は私に勝てない。世界は、貴女の都合に合わせて動いてはくれないのですよ。判りましたか? お嬢ちゃん。』……との事です。」
リリーは尚も集中し、魔力を高めているようだが、それでもヒビキを跳ね返すには至らない。
しかし、こうやって見ると、差は歴然だ。
ヒビキの魔力制御能力、そして、質、量共に、リリーを圧倒している。
俺が昔、共闘したときのヒビキとはまるで別人……いや、別虎? である。
それだけ、彼女は努力したのだろう。
リリーは額に汗を貼り付けながら、完全に押さえ込まれていても……それでも諦めず、気丈に言い返す。
「そんな事……! ……知っている! 判っているよ! けど、それでも、私は、着いていくの! 行きたいの!」
そんな傍から見ると駄々としか見えかねない言葉でも、リリーの言葉は真剣そのものだった。
そうか。リリーは……そこまで。
思う所があり、俺がリリーに声を掛けようとした時、またしても、ヒビキが吼える。
障壁がビリビリと揺れ、そして、鈍い音と共に、衝撃が走る。
ヒビキは少し、いや、かなり苛立っているようだ。
「えっと……『力も無く、それでものこのこと、ただ、ツバサ様の後ろに着いて行って、ツバサ様に守っていただいて、それで隣に立つ? お姫様ごっこなら、他でやって下さい。そして、ツバサ様の手を煩わせないで!』……だそうですわ。」
その言葉に、リリーは悔しさの余りだろう。涙を流しながら、それでもヒビキから視線を逸らさず言う。
「そうですよ。ヒビキさんが言うように、今の私では、ツバサさんのお役には立てないかもしれないです。けど、それでも、私は……私は、この想いにだけは嘘はつきたくないの! 今の私が、出来る事は、ツバサさんの傍にいる事だけだもん! どんなに嫌われても、弱くても、着いていく事だけは譲れないの! ここだけは、絶対に!」
障壁が鈍く振動する中、俺は考える。
最初、俺はリリーの真意を量りかねていた。
レイリさんと別れる事になり、その分、自分が……と言う意識に支配されているのではないかと、危惧していたのだ。
だから、俺は、ヒビキとのやり取りを通して、真意を見極めるつもりだった。
そして、判ってしまった。
リリーはどこまでも純粋に、本気で、俺の隣に立とうとしている。
そこには打算も、他人の意見も、状況も何もかも関係ない。
純粋に、欲求にしたがって、彼女はそこへ至ろうと、ただもがいている。
普通の人は、思い描く未来へ、ある程度の道筋を立てるものだ。
どうしたら、そうなれるか。
そうなるには、何が必要か。
そうして、階段を踏みしめ、一段ずつ上るように、人は目標に向かって進む。
これが普通である。
だが、ごく稀にいるのだ。
その過程も、手段も、全てをすっ飛ばして、がむしゃらに突き進み、そこへと至る人が。
文字通り、全てを投げ打つ事の出来る人がいるのである。
それは、明らかに普通ではない。
ここまで強い想いを秘めていたとは……これは、もしかすると……。
ヒビキがチラリと俺を見た。
その顔は正に、渋面であり、「この馬鹿、どうします?」と書かれている。
俺は苦笑すると、
「ヒビキ、そこまでだ。お前の負けだよ。」
そう、声を掛ける。
凄く嫌そうな顔でヒビキは抗議の声を上げるも、大人しくリリーの拘束を解いて、俺の膝の上へと少し乱暴に戻ってきた。
俺はヒビキの体を優しく撫で、少しでも機嫌を直してもらえるよう、努力する。
見ると、ルナがリリーに駆け寄り、治療魔法を掛けていた。
無茶な力の入れ方をして、筋でも痛めたのだろう。
そんなリリーは、涙目になりながら、ルナに色々と言っている。
「リリー。君の想いは、良くわかった。そうまで決意しているなら、俺も別の方法を考えるよ。」
そういう俺の言葉に、リリーは耳を起立させると、一瞬呆けたように、俺に目を向けた。
「本当に……ですか?」
障壁が大きく振動する中、俺は頷くと、
「ああ、あそこまで言われたら、考えざるを得ないしね。これで、無理に言うこと聞かせても、後で勝手に行動される方が、大変な事になりそうだし。俺だって、そこまでしようとは思ってないよ。」
そう説明した。
まぁ、あくまで、一番リスクが少ないと思われるやり方を提示したに過ぎないからな。
別に、他の方法が無いわけでもない。
リリーがそこまで着いて来たいというなら、その方法を模索するほうが、結果的にリスクを下げる事になるだろう。
感激したように、しきりに頭を下げ、礼を述べるリリーを見て癒されながら、俺が思索していると、またも、障壁が大きく揺れる。
「あ、あれ? ところで、ツバサさん。なんでここ、こんなに揺れるんですか? 先程から、何回か揺れていましたよね?」
そんな事を質問するリリーを、ヒビキはチラリと見ると、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あー、まぁ、ほら。リリーは感知できないし……背中越しだったしなぁ。」
俺が曖昧に言うと、此花も咲耶も、そしてルナも苦笑した。
「え? ええ? な、何ですか? 皆で! 私だけ仲間はずれは酷いですよぉ!」
「あー、うん。けど、世の中、知らないほうが良い事も沢山有ると思うんだ、ね?」
俺は頬をかきながら、そう言うも、リリーは納得しない様子だった。
そんな様子を見たルナが、リリーの方を叩き、そして、リリーの足元を指差す。
「へ? ルナちゃん、何? 何もな……。」
その瞬間、足元の砂が、一瞬にして無くなり、代わりにびっしりと並んだ刃が足元に現われ、障壁に阻まれて、障壁全体を揺らす。
その光景をもろに見たリリーは、一瞬にして顔から血の気を無くす。
そんな中、俺は、出来るだけリリーにショックを与えないように、
「あー……うん、リリーが床に押し付けられてから、何でか下からこう、その生き物が、障壁に突撃してるんだよね。多分、この砂漠に住む生き物なんだろうけど……いやー、なかなか興味深いよね。砂の中泳ぐとかさ。」
そう説明した。そんな俺の言葉に、リリーは
「つ、ツバサさん……これってもしかして、わ、わわ、私が狙われてません?」
と、祈るようにこちらに問いかけてきた。
俺は頬をかき苦笑しながら、頷くに止める。
その時、また、リリーの足元に牙がびっしりと生え……障壁が少し大きく揺れた。
こりゃ、完全に餌認定されているな……明らかにリリーを狙ってるわ。
恐らくワーム型の生き物なんだろうが……よほどリリーが美味しく見えるようで、しきりに先程からアタックを敢行していたのだ。
ヒビキに押し倒されていた時も、リリーの背中越しの光景はなかなかにスリリングだった。
リリーの悲鳴を聴きながら、そんな回想をする俺の膝の上で、ヒビキは、不機嫌そうに不貞寝するのだった。
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