比翼の鳥
第96話 月下の語らい 弐
あれから、5日が経過し、町の様子は落ち着きを取り戻しつつあった。
とりあえず、あの後、ライトさんのブティックを出た俺達は、宿へと戻った。
リリーには刺激が強かったのか、ルナに付き添われながら、フラフラと歩いていたのが印象的だったな。
対照的に、ヒビキが普通だった。と言うか、なんだかスッキリしていた。
やはり、あれか。ヒビキがおかしかったのも、あれを見たせいなんだろうな。
変な方向に興奮のスイッチが入った結果が、あのハイテンションだったと思えば、納得も行く。
その後、宿へと戻った俺達を、酔っ払った冒険者達が迎え、調子に乗った奴らが一部暴走し、ルナにちょっかいをかけてくる所までは、俺の想定内だったが……まさか、ルナが凍れる笑み一発で、場を沈めるとは思わなかった。
うん、あれは、正に、最終兵器だった。その字のごとく、場が凍ると言うのを体現した瞬間であったよ。
実は、一つの山が終わった後と言う事もあり、更には変態の行為の影響もあって、場合によっては、その、ちょっといい雰囲気だったら、色々と踏み込んでみようと、どこか浮ついた部分もあったりしたのだが……それを機に一発で冷めてしまった。
なんだろうか。その時の、ルナの表情が、とても鬼気迫るものを感じさせたのが、主な要因だ。
今まではそんな事、無かったのに。どうしたのだろうか?
俺のそんな心配をよそに、結局の所、その後は何も起こらず、その日が終わった。
だが、その日が終わったが、確実に変化が起きていたのだ。
「姐さん! 変態2号兄貴! お疲れさまっす!」
いつもの通り、親父さんの手伝いをする為、ルナとリリーを伴って武器屋へ向かって通りを歩いていると、顔見知りの冒険者が俺達に頭を下げて道を開けた。
そう。ルナの酒場の件で、良く分からない、俺の通り名がまた増えた。
うん。もう何も言わない。
周りの奥様達が、その光景を見て、ひそひそと何か話しているが、何も言わない。
子供に、「変態~!」とか、指を指されても、俺は、泣かない。泣かないったら泣かない。
心で泣きつつ、俺は今日も武器屋へと、その歩を進める。
ちなみに、勇者は、すぐに自国へと逃げるように戻ったようだ。
その後、彼がどうなったのか、俺は知らない。相当、トラウマを抱え込んだようだから、当分は大人しくしているのではないだろうか?
まぁ、暫くは会わないだろう。割と、本気でそう願いたい。出来れば、一生。
ライトさんは、先日、漸く姿を見せた。倒れてから4日ぶりである。
少し調べたが、どうやら、呪縛も解け、後遺症もなさそうに見えたから良かった。
クリームさんの肌が今日もつやつやだった事で、何が起こっているのかを把握した俺は、とりあえず笑顔で、「爆ぜろ」と言っておいたが、そんな事も聞きやしない。
「しかし、リリーさんは、こんなにも美しい方だったんですね。」
その言葉に、リリーは少し戸惑い、クリームさんは、耳をぴくぴくと震わせている。
そこまでは、良かった。うん。
「で、どうですか? リリーさんの股も、なかな……ごぁ!?」
変な音と共に、フルスイングで横に吹っ飛ぶライトさん。
見ると、クリームさんが、こん棒のような物を手にしながら、肩で息をしていた。
どうやら、呪縛が解けても、根本的な所は何も変わってないようで、何よりです。
っていうか、頭から軽く血が流れていますけど、良いのかね? ついでに、変な痙攣の仕方してますけど。
だが、被害者であるはずのライトさんの表情を見ると幸せそうだから、良いのだろうか?
うん。愛の形は色々あるから、良いんだろうな。そういう事にした。
武器屋についてからは、いつもの通り、俺は親方の手伝いで、ルナとリリーは、倉庫の整理だ。
倉庫の整理とか、結構な数をこなしているはずなのだが、今日も、満杯だった。どういう事?
そして、倉庫から聞こえる轟音とリリーの悲鳴は、今日も変わらずだ。いつもの日常が戻ってきたことを感じさせる。
結局、親方も竜の襲撃の際、特に被害も無かったようで、今日も変わらず元気だった。無口なのは変わらないが。
……そう思っていたら、終わり際に、珍しく声をかけられる。
「おう、お前…………いや、何でもない。」
滅多に声をかけてこない親方が、更に珍しく歯切れが悪いので、余計に気になった。
だから、俺は、少し強めに問い直してみる。
「気になるのですが、何でしょうか?」
そんな俺の言葉に、親方は暫くの間考え込むと、口を開いたが、内容が完全に斜め上だった。
「お前ぇ……ポプラの事、どう思う?」
「はい?」
思わず、素で聞き返してしまうほど、俺にとっては予想外の問いだったのだ。
え? スライムのあのポプラさんの事だよな? どう? どうとは、どういう事?
そんな感じでかなり混乱していたが、何となく不機嫌そうな親方の表情を見て、俺はすぐに、言葉を続ける。
「え、えーっと、ポプラさん? あのスライムのポプラさんですよね? んー、可愛いんじゃないでしょうか? ほら、ピンクでプルプルだし。ちゃんと、話せば解ってくれる、懐の深さも良いですよ……ね?」
だんだん話を続けるのが苦しくなって来た俺の答えを黙って聞いていた親方だったが、一通り聞いて満足したのか、「そうか。」とだけ残し、去っていった。
なんなんだったのだろうか?
そう思うも、俺の問いに答える者は無く、代わりにリリーの悲鳴と、重い何かが落ちる音が響くだけだった。
その後、半分死に体のリリーを伴って、俺達は宿へと戻る。
今日もお勤め、ご苦労さま! うん、やはりこうやって、いつもの様に過ごせるって素晴らしい!
「うう、ルナちゃんの意地悪ぅ! 鬼ぃ! ううう、お肉美味しぃ……。」
食事の際、涙を流しながら、ルナへの不平と、肉への賛辞を同時に口にするリリーの様子を見て、俺は苦笑する。
毎度の事なので、他の皆は聞き流しているが、不満をぶつけられているはずのルナは、少し上の空だ。黙々と、食事を咀嚼している。
ん? 珍しいな。どうしたのだろうか? そう思うも、ルナは俺へと視線を向け、首を振ると、リリーへと何か文字で伝えにかかった。
「うう、そうだけど……。」
何か叱咤激励されているように見えるが、まぁ、乙女の話に割り込むほど、無謀ではない。
あれは、地雷原へと足を踏み入れる様なものだからな。
それに、リリーの根性ならきっと、大丈夫だろう。俺の出る幕じゃない。
「……そうだよね。こんな事で、めげてる場合じゃないよね。ごめんね、ルナちゃん。私、頑張る! あ、お肉、もう一皿欲しいです。」
だ、大丈夫? だよな。頑張れ、リリー。
そんな様子を見て、ヒビキが鼻を鳴らし、我が子達も、便乗した結果、皿が10枚に増えた。
大丈夫……だよな? 俺は、汗を垂らしながら、その光景を見守る事しか出来なかったのだった。
そんな風に、いつも通り、つつがなく一日が終わろうとしていたのだが、
《 ツバサ。ちょっと良いかな? 》
そんな風に、珍しく、ルナからお誘いがあった。
おや、珍しい? そう思うも、何かが心に引っかかる。何だ?
気にはなるものの、実際には特に用事も無い。本当に寝るだけだし。
だから、とりあえず、違和感は棚に置いて、俺は頷くと、言葉を返した。
「ああ、いいよ。じゃあ、また屋上に行こうか?」
《 うん。じゃあ、先に行ってるね。 》
そう虚空に文字を躍らせるルナの表情は、笑顔だ。
だが、何故だろうか? 俺は、彼女の様子に何か、違和感を覚えていた。
そう。今思えば、違和感だらけだった。
ゆっくりと、一歩一歩、手すりにつかまり、踏みしめるように階段を上がっていく彼女の後姿。
……それを不思議に思うべきだったのだ。
だが、その時の俺は、そんな些細な事に、気づくことはできなかったのだった。
皆に、先に寝ている様に伝えると、俺は宿の階段を上がる。
今回は、ちゃんと普通に対応したから、ヒビキもやけ酒とかしないはずだ。
……しないよな?
一瞬、心配になるも、俺はあえてその感情に蓋をし、今からの事に思考を向ける。
しかし、久々だな。ルナと二人っきりで話すのも。
ふと、脳裏に浮かぶのはあの竜の戦いの最中、もよおした、ルナへの劣情。
また、あの感情に支配されるのだろうか?
だが、それを俺は嫌とは思わなかった。むしろ、当然とすら感じている。
そう、不自然なまでにそれを受け入れている。そうなってしまっている。
果たして、それは誰の思いだったのだろうか?
一瞬、俺はそんな事を考えるも、半ば強引に、その思考を振り切り、屋上へと顔を出す。
宿の屋上。そこは真っ赤な世界だった。
天頂には赤い月が昇り、世界を淡くその色に染めていた。
よく見ると西の空には、沈みかけている青い月。
以前にも同じ光景を見たが、その時とは、月の色が違っている。
それが、何とも無しに時の流れを感じさせ、俺は、暫し感慨にふけった。
ルナの姿を探す。見ると、屋上の中心に彼女は立っていた。
こちらに背を向け、真っ赤な月を見上げるように。
風が吹く。
彼女の髪が、月の光を受け、鈍く赤く光り、音も無く、たなびいていた。
だが、そんな彼女の背中を見て、俺は思ってしまった。
なんて、悲しそうなんだろうと。そして、同時に、思う。何故? と。
そんな俺の思いを読んだのか、ルナが振り返る。
その口元には、笑み。その目には、涙。
彼女のその姿を見た時に、俺は、どうしようもなく悲しさがこみあげて来た。
なんだ? なんだ、これは!?
どうして、そんなに辛そうに、微笑むんだ?
俺は我を忘れて、一歩ずつ、彼女に近づく。
ルナはそんな悲しみに満ちた笑みを浮かべたまま、俺を迎える。
「どう、したんだ? ルナ。なんで、そんな、顔をしている?」
目の前まで来て、俺はそう口にするのがやっとだった。
彼女が何故、そんな表情を浮かべているのか、全く理解できない。
彼女が何故、そんな表情を浮かべなくてはならないのか、理解したくない。
……そう。俺のせいだ。
何故だか、それだけは、確信めいたものがあった。
何故だか、それが、どうしようもなく、悲しかった。
ルナが俺の頬へと、手を添える。
目を閉じ、俺の顔を自分の元へと引き寄せる。
俺が彼女の元へと至るその軌道は、ある一つの予感を抱かせる。
嫌だ……。何故かそう思うも、俺の体は言う事をきかなかった。
そうして、俺は何も抵抗らしい抵抗もできぬまま、彼女と唇を重ねる。
『シンクロ率:91% 比翼システム――起動可能です。――起動します。』
そして、俺の望まない扉は、開いてしまったのだった。
とりあえず、あの後、ライトさんのブティックを出た俺達は、宿へと戻った。
リリーには刺激が強かったのか、ルナに付き添われながら、フラフラと歩いていたのが印象的だったな。
対照的に、ヒビキが普通だった。と言うか、なんだかスッキリしていた。
やはり、あれか。ヒビキがおかしかったのも、あれを見たせいなんだろうな。
変な方向に興奮のスイッチが入った結果が、あのハイテンションだったと思えば、納得も行く。
その後、宿へと戻った俺達を、酔っ払った冒険者達が迎え、調子に乗った奴らが一部暴走し、ルナにちょっかいをかけてくる所までは、俺の想定内だったが……まさか、ルナが凍れる笑み一発で、場を沈めるとは思わなかった。
うん、あれは、正に、最終兵器だった。その字のごとく、場が凍ると言うのを体現した瞬間であったよ。
実は、一つの山が終わった後と言う事もあり、更には変態の行為の影響もあって、場合によっては、その、ちょっといい雰囲気だったら、色々と踏み込んでみようと、どこか浮ついた部分もあったりしたのだが……それを機に一発で冷めてしまった。
なんだろうか。その時の、ルナの表情が、とても鬼気迫るものを感じさせたのが、主な要因だ。
今まではそんな事、無かったのに。どうしたのだろうか?
俺のそんな心配をよそに、結局の所、その後は何も起こらず、その日が終わった。
だが、その日が終わったが、確実に変化が起きていたのだ。
「姐さん! 変態2号兄貴! お疲れさまっす!」
いつもの通り、親父さんの手伝いをする為、ルナとリリーを伴って武器屋へ向かって通りを歩いていると、顔見知りの冒険者が俺達に頭を下げて道を開けた。
そう。ルナの酒場の件で、良く分からない、俺の通り名がまた増えた。
うん。もう何も言わない。
周りの奥様達が、その光景を見て、ひそひそと何か話しているが、何も言わない。
子供に、「変態~!」とか、指を指されても、俺は、泣かない。泣かないったら泣かない。
心で泣きつつ、俺は今日も武器屋へと、その歩を進める。
ちなみに、勇者は、すぐに自国へと逃げるように戻ったようだ。
その後、彼がどうなったのか、俺は知らない。相当、トラウマを抱え込んだようだから、当分は大人しくしているのではないだろうか?
まぁ、暫くは会わないだろう。割と、本気でそう願いたい。出来れば、一生。
ライトさんは、先日、漸く姿を見せた。倒れてから4日ぶりである。
少し調べたが、どうやら、呪縛も解け、後遺症もなさそうに見えたから良かった。
クリームさんの肌が今日もつやつやだった事で、何が起こっているのかを把握した俺は、とりあえず笑顔で、「爆ぜろ」と言っておいたが、そんな事も聞きやしない。
「しかし、リリーさんは、こんなにも美しい方だったんですね。」
その言葉に、リリーは少し戸惑い、クリームさんは、耳をぴくぴくと震わせている。
そこまでは、良かった。うん。
「で、どうですか? リリーさんの股も、なかな……ごぁ!?」
変な音と共に、フルスイングで横に吹っ飛ぶライトさん。
見ると、クリームさんが、こん棒のような物を手にしながら、肩で息をしていた。
どうやら、呪縛が解けても、根本的な所は何も変わってないようで、何よりです。
っていうか、頭から軽く血が流れていますけど、良いのかね? ついでに、変な痙攣の仕方してますけど。
だが、被害者であるはずのライトさんの表情を見ると幸せそうだから、良いのだろうか?
うん。愛の形は色々あるから、良いんだろうな。そういう事にした。
武器屋についてからは、いつもの通り、俺は親方の手伝いで、ルナとリリーは、倉庫の整理だ。
倉庫の整理とか、結構な数をこなしているはずなのだが、今日も、満杯だった。どういう事?
そして、倉庫から聞こえる轟音とリリーの悲鳴は、今日も変わらずだ。いつもの日常が戻ってきたことを感じさせる。
結局、親方も竜の襲撃の際、特に被害も無かったようで、今日も変わらず元気だった。無口なのは変わらないが。
……そう思っていたら、終わり際に、珍しく声をかけられる。
「おう、お前…………いや、何でもない。」
滅多に声をかけてこない親方が、更に珍しく歯切れが悪いので、余計に気になった。
だから、俺は、少し強めに問い直してみる。
「気になるのですが、何でしょうか?」
そんな俺の言葉に、親方は暫くの間考え込むと、口を開いたが、内容が完全に斜め上だった。
「お前ぇ……ポプラの事、どう思う?」
「はい?」
思わず、素で聞き返してしまうほど、俺にとっては予想外の問いだったのだ。
え? スライムのあのポプラさんの事だよな? どう? どうとは、どういう事?
そんな感じでかなり混乱していたが、何となく不機嫌そうな親方の表情を見て、俺はすぐに、言葉を続ける。
「え、えーっと、ポプラさん? あのスライムのポプラさんですよね? んー、可愛いんじゃないでしょうか? ほら、ピンクでプルプルだし。ちゃんと、話せば解ってくれる、懐の深さも良いですよ……ね?」
だんだん話を続けるのが苦しくなって来た俺の答えを黙って聞いていた親方だったが、一通り聞いて満足したのか、「そうか。」とだけ残し、去っていった。
なんなんだったのだろうか?
そう思うも、俺の問いに答える者は無く、代わりにリリーの悲鳴と、重い何かが落ちる音が響くだけだった。
その後、半分死に体のリリーを伴って、俺達は宿へと戻る。
今日もお勤め、ご苦労さま! うん、やはりこうやって、いつもの様に過ごせるって素晴らしい!
「うう、ルナちゃんの意地悪ぅ! 鬼ぃ! ううう、お肉美味しぃ……。」
食事の際、涙を流しながら、ルナへの不平と、肉への賛辞を同時に口にするリリーの様子を見て、俺は苦笑する。
毎度の事なので、他の皆は聞き流しているが、不満をぶつけられているはずのルナは、少し上の空だ。黙々と、食事を咀嚼している。
ん? 珍しいな。どうしたのだろうか? そう思うも、ルナは俺へと視線を向け、首を振ると、リリーへと何か文字で伝えにかかった。
「うう、そうだけど……。」
何か叱咤激励されているように見えるが、まぁ、乙女の話に割り込むほど、無謀ではない。
あれは、地雷原へと足を踏み入れる様なものだからな。
それに、リリーの根性ならきっと、大丈夫だろう。俺の出る幕じゃない。
「……そうだよね。こんな事で、めげてる場合じゃないよね。ごめんね、ルナちゃん。私、頑張る! あ、お肉、もう一皿欲しいです。」
だ、大丈夫? だよな。頑張れ、リリー。
そんな様子を見て、ヒビキが鼻を鳴らし、我が子達も、便乗した結果、皿が10枚に増えた。
大丈夫……だよな? 俺は、汗を垂らしながら、その光景を見守る事しか出来なかったのだった。
そんな風に、いつも通り、つつがなく一日が終わろうとしていたのだが、
《 ツバサ。ちょっと良いかな? 》
そんな風に、珍しく、ルナからお誘いがあった。
おや、珍しい? そう思うも、何かが心に引っかかる。何だ?
気にはなるものの、実際には特に用事も無い。本当に寝るだけだし。
だから、とりあえず、違和感は棚に置いて、俺は頷くと、言葉を返した。
「ああ、いいよ。じゃあ、また屋上に行こうか?」
《 うん。じゃあ、先に行ってるね。 》
そう虚空に文字を躍らせるルナの表情は、笑顔だ。
だが、何故だろうか? 俺は、彼女の様子に何か、違和感を覚えていた。
そう。今思えば、違和感だらけだった。
ゆっくりと、一歩一歩、手すりにつかまり、踏みしめるように階段を上がっていく彼女の後姿。
……それを不思議に思うべきだったのだ。
だが、その時の俺は、そんな些細な事に、気づくことはできなかったのだった。
皆に、先に寝ている様に伝えると、俺は宿の階段を上がる。
今回は、ちゃんと普通に対応したから、ヒビキもやけ酒とかしないはずだ。
……しないよな?
一瞬、心配になるも、俺はあえてその感情に蓋をし、今からの事に思考を向ける。
しかし、久々だな。ルナと二人っきりで話すのも。
ふと、脳裏に浮かぶのはあの竜の戦いの最中、もよおした、ルナへの劣情。
また、あの感情に支配されるのだろうか?
だが、それを俺は嫌とは思わなかった。むしろ、当然とすら感じている。
そう、不自然なまでにそれを受け入れている。そうなってしまっている。
果たして、それは誰の思いだったのだろうか?
一瞬、俺はそんな事を考えるも、半ば強引に、その思考を振り切り、屋上へと顔を出す。
宿の屋上。そこは真っ赤な世界だった。
天頂には赤い月が昇り、世界を淡くその色に染めていた。
よく見ると西の空には、沈みかけている青い月。
以前にも同じ光景を見たが、その時とは、月の色が違っている。
それが、何とも無しに時の流れを感じさせ、俺は、暫し感慨にふけった。
ルナの姿を探す。見ると、屋上の中心に彼女は立っていた。
こちらに背を向け、真っ赤な月を見上げるように。
風が吹く。
彼女の髪が、月の光を受け、鈍く赤く光り、音も無く、たなびいていた。
だが、そんな彼女の背中を見て、俺は思ってしまった。
なんて、悲しそうなんだろうと。そして、同時に、思う。何故? と。
そんな俺の思いを読んだのか、ルナが振り返る。
その口元には、笑み。その目には、涙。
彼女のその姿を見た時に、俺は、どうしようもなく悲しさがこみあげて来た。
なんだ? なんだ、これは!?
どうして、そんなに辛そうに、微笑むんだ?
俺は我を忘れて、一歩ずつ、彼女に近づく。
ルナはそんな悲しみに満ちた笑みを浮かべたまま、俺を迎える。
「どう、したんだ? ルナ。なんで、そんな、顔をしている?」
目の前まで来て、俺はそう口にするのがやっとだった。
彼女が何故、そんな表情を浮かべているのか、全く理解できない。
彼女が何故、そんな表情を浮かべなくてはならないのか、理解したくない。
……そう。俺のせいだ。
何故だか、それだけは、確信めいたものがあった。
何故だか、それが、どうしようもなく、悲しかった。
ルナが俺の頬へと、手を添える。
目を閉じ、俺の顔を自分の元へと引き寄せる。
俺が彼女の元へと至るその軌道は、ある一つの予感を抱かせる。
嫌だ……。何故かそう思うも、俺の体は言う事をきかなかった。
そうして、俺は何も抵抗らしい抵抗もできぬまま、彼女と唇を重ねる。
『シンクロ率:91% 比翼システム――起動可能です。――起動します。』
そして、俺の望まない扉は、開いてしまったのだった。
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