ILIAD ~幻影の彼方~

夙多史

081 脱出

「ねえ、やっぱりアレってしぐれかな?」
 式神の後を追いながらサニーはそれほど大きくない声でセトルに言う。
「さあね。アレが誰の式神でも、今はついて行くしかないよ」
 階段を上ったところには見張りはいなかった。それどころか、式神が飛んでいく方角には誰一人としてすれ違う者はいなかった。それだけこの施設は少人数ということなのだろうか、いや、恐らく式神はこの時間誰もいない通路を選択して飛んでいるのだろう。セトルたちだけで外に出ようとしたら、既に何人かに見つかっていたのはまず間違いない。
 やがてある小部屋にセトルたちは招かれた。しかし、そこには誰もいない。
 室内を見回していると、式神は机の下の床に開いた小さな隙間に入っていった。
「隠し通路!?」
 床には正方形の切れ目のようなものがあり、そこがずれて暗い穴がぽっかりと覗いていた。セトルがそこを完全に開くと、梯子が下へと続いている。
 まずサニーに行かせ、セトルは辺りを警戒しながら彼女の後に続き、蓋を閉めた。
 真っ暗になった。
「きゃっ!?」
「サニー、どうしたの?」
 突然の小さな悲鳴にセトルは反射的に下を見たが、真っ暗で様子がわからない。すると、下にぼんやりと輝きが現れる。その輝きが徐々に大きな球体を作り、どこか涙ぐんだサニーの顔を照らす。
「きゅ、急に閉めないでよ! びっくりするじゃない!」
「ごめん……」
(そういえば、サニーが光霊術を習ったきっかけの一つは暗闇だったっけ)
 光が広がっていき、サニーは自分が安心できるほどの光量になったところでほっと息をついた。
 長い梯子を下りて辺りを見回すと、そこは意外と広い地下通路だった。殺風景だが、壁には照明霊導機が奥に向けて左右対称に設置され、それは今も起動している。光霊素ライトスピリクルが少ないためか、そこまで明るくはないものの、サニーの光球ライトボールはもう必要ないだろう。それに大気中の光霊素ライトスピリクルがなくならない限り半永久的に起動するもののようだから突然消える心配もなさそうだ。
 式神は……いた。少し奥に行ったところで二人が来るのを待っている。
「ここって何なんだろ?」
 式神についていきながら、サニーは周囲を見回してそう言う。
「普通に考えたら緊急用の地下通路だろうね。入口も隠すようにしてあったから」
 アルヴァレスがいない今、特に気にすることもないだろう。寧ろ今気にすることはワースたちの動向と、あの式神の主だ。
 しばらく歩いていると、式神は何かに反応したように加速した。二人は顔を見合せて加速した式神を追おうとするが、すぐに足を止めることとなる。
 鳥の形状をした式神が何者かの掌の上に泊まった。
「お前は……」
 セトルとサニーは二人とも目の前にいた意外な人物に目を丸くした。
 そこにいたのは―― 

        ✝ ✝ ✝

 同時刻――迷い霞の密林奥の里、アキナ。
 里の一番奥、温泉の湯気が上がる一階建ての広い家の一室で、一人の男性が木製の軸の先に動物の毛を穂にしてはめた物に黒色の液体をつけていた。
 彼は木製の机の前に正座し、机の上には真っ白な紙が敷かれてある。四十代前半といったアルヴィディアンの男には、ただならぬ気迫のようなものが漂っており、旋毛の辺りで結った若々しい黒髪が風もないのに靡いているように見える。
 この部屋全体が静寂しきっていた。
 だが、その静寂を破る声が引き戸の向こうから聞こえた。
「頭領、少しよろしいですか?」
 アキナの頭領――げんくうはピタリと手を止め、ゆっくりと顔を上げてから威厳のある口調で引き戸の外にいる者に答える。
「はくまか、入れ」
「失礼します」
 両者とも独特の訛りがある口調で言葉を交わし、外にいる者が静かに引き戸を開けて中に入る。
 それは黒髪をしたアルヴィディアンの少年だった。だが、ただの少年ではなく、雨森しぐれと同系統の、彼女のより青っぽい忍び装束を身に纏っている。
 彼は無駄のない動きで頭領の前まで行き、懐から机の上に置かれているものよりも一回り小さい紙を取り出す。
「式神……あいつのやな」
 げんくうは紙を見ただけでそれを判断した。はくまは頷くと、無言のままその紙を頭領に渡す。但し、手渡しではなく、紙ははくまの掌から自分で飛び立ち、蝶のように羽ばたいてげんくうの掌に乗る。
 紙を広げてみると、暗号のような文字がびっしりと――は書かれていなかった。暗号となっているのは確かだが、実に簡潔に書かれてあった。
「……ふっ、相変わらず無駄なくだりはないんやな」
 げんくうは手で顎を擦りながら口元に笑みを作るが、目は全く笑っていない。
 解読はほんの三十秒ほどで終わった。それほど文字数が多いわけではなかったが、流石はアキナの頭領なだけはある。
 はくまはまだ読んでいないので内容は知らないが、全てを読み終えたげんくうの深刻な表情で吉報か凶報かの判断はできた。
「頭領……」
 少し心配そうな表情ではくまはげんくうの言葉を待つ。
「今度の敵は、前より甘くはなさそうや」
 その言葉は独り言のようにぼそっと呟かれたものだったが、静寂な部屋の中では十分に聞こえる音量だった。
「ワース、あんたは本当にこの星を……」

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