ILIAD ~幻影の彼方~

夙多史

073 目覚めたセトル

 村の中にはサニーの姿はなく、既に外へ出てしまったものと思われる。今、アランの頼みで猟師団の人々が捜索を開始している。ケアリーとマーズもそれに加わった。
 一応彼女が戻ってくるかもしれないため、アランとミセルはセトルの部屋で待機することにし、玄関の戸を開けてサラディン家の中に戻る。やはり、今のところ戻ってきているような気配はない。
 やれやれといった顔をしてアランが頭の後ろで手を組む。
「たぶんアスカリアの森へ行ったんだろうが、サニーの場合辿りつけるかどうかも怪しいな」
「大丈夫よ。今回もすぐ見つかるって」
「だといいが……」
 アランはセトルの部屋のドアノブに手をかけた。そして、あまり音を立てないように戸を開くと、そこにあった光景に目を見開いた。
 セトルが立っていた。
 しかしセトルの目はまだ微妙に虚ろで、恐らくアランたちが入ってきたことにすら気づいていないと思われる。セトルは壁に立て掛けてあった自分の剣――霊剣レーヴァテインを腰のベルトに挿す。既にいつも身につけていた左肩の外れている空色の鎧を纏っている。
「セトル、よかった、気がついたみてぇだな!」
 アランが声をかけるが、セトルは返事をするどころか振り向くこともしなかった。何も聞こえない、何も見えてない、ただ無感情にセトルは立っている。やがて――
「サニーを助けないと……」
 と小さく呟くと、目を開けていられないほどの眩い光が彼の体から発せられた。アランとミセルは咄嗟に目を庇う。そうしても、セトルの光は目を焼きつけた。だが、それは攻撃的な輝きではなく、また、優しい、温かい、といった様子もない。今のセトルがそのまま光になったような感じだった。
 光が収まり目を開けると、そこにセトルの姿はなかった。
 窓から――ではないようだ。開けられた形跡がない。セトルは忽然と消えてしまっていた。
「ねぇ、アラン。今の……なに? セトル君……どうしたの?」
 信じられないもの見たようにミセルが震えた声で言う。
「いや……わからねぇ」
 アランも呆然として呟くが、すぐにハッとなる。
「やべ、みんなにセトルもいなくなったと伝えねぇと。 ミセル、お前はここにいろ!」
 アランはそう言うと、呆然と立ち尽くしている彼女を残してサラディン家を飛び出した。

        ✝ ✝ ✝

 アスカリアの森はいつにも増して暗く感じた。それもそう、サニーはいつの間にかその深部へと入ってしまっていたからだ。そこは猟師団の人々も滅多なことでは近づかない強暴な魔物のテリトリーである。
 もちろん彼女はそんなことには気づいていない。
「あーもう! ティラの実どころか、果物一つないじゃん! もっと詳しく聞いとけばよかった」
 その通りである。
(よく考えたらあたしティラの実ってどんなのか知らないのよね。どうしよ……一回帰ろっかな)
 彼女は立ち止り、辺りを見回した。似たような木が並び、自分がどっちから来たのかわからなくなったことに彼女は気づいた。
「ううん、迷ってない。全然迷ってなんかない!」
 彼女は首を左右に大きく振り、自分の陥っている状況を全否定する。そして適当な方向に自信満々を装って歩き始めた。しかし、森の薄暗さと孤独感が彼女の心に恐怖心を与えていく。次第に早足になる。そしてさらに奥へと進んでいく。
 しばらくして、疲れてきた彼女はその辺りの木に背を預けて座り込んだ。大きく溜息をつき、天を仰ぐ。
 ガサガサと木の枝が揺れる。その音を聞いて彼女はびくっとなったが、鳥が飛び立っただけだと知ると、安心したように胸を撫で下ろした。
(セトル……)
 涙が込み上げてくるのを必死で堪え、彼女は蹲った。
 その時、獣の唸り声が聞こえた。いや、これは魔物のものだ。彼女は立ち上がり、扇子を抜いてついザンフィを呼ぼうとする。
「ザ……そうか、いないんだった……」
 相棒を連れてきていないことに気づくと、彼女は慌てて逃げようとする。だが、唸り声の主が彼女の前に飛び出し、立ち塞がる。
 それは赤い体毛に覆われた狼のような魔物で、大きさは馬と同じくらいかそれ以上。血のように赤い目が間違いなくサニーを捉えている。『ガルムキング』――あれはそう呼ばれているものだった。ザンフィがいたところで勝てるような相手ではないとサニーはすぐに悟った。
 後ずさるようにサニーは下がる。そしてある程度距離をとってから一気に走った。どっちに行けばいいのかわからないが、とりあえず今は逃げるしかない。
 ガルムキングが追ってきた。距離が一気に縮められた。サニーが後ろを振り返ると、ガルムキングは太く鋭い牙を剥けて飛びかかっていた。横に跳んで躱すが、そのままガルムキングの体当たりで木に叩きつけられる。
(う……術を……)
 サニーは扇子を広げて詠唱を始めるが間に合うはずがない。ガルムキングの牙が喉を食い千切らんと迫る。詠唱を中断してサニーはしゃがんだ。牙は木に深く食い込んだ。
 今のうちに、と思ったがその木は簡単に噛み砕かれ、倒された。サニーは前足で払い飛ばされる。鋭い爪が服を裂き、血が飛び散る。
 背中から地面に叩きつけられた。もう動けない。意識も消えてしまいそうだった。
「もう……足動かない。あたし、ここで死ぬのかな……」
 だけどなぜか恐怖はなかった。何となくあの時のようにセトルが助けに来てくれると心のどこかで思っていた。でも、今セトルは……来るはずがない。だが――
「えっ!?」
 ガルムキングが吹き飛んだのだ。そこに立っている人物を見てサニーは目を疑った。それは昏睡状態のはずのセトル・サラディンだった。死にかけて見ている幻覚かないかだと思った。しかし現実だとすぐに理解した。
 彼は美しい銀髪を靡かせて彼女の目の前に間違いなく立っている。そのアルヴィディアンでもノルティアンでも、またハーフでもないサファイアブルーの瞳には、今まで見たことないほどのはっきりとした強い意志のようなものが見て取れる。
「ごめん、サニー。オレのせいで……」
 セトルはガルムキングから目を離さず彼女に謝った。
(『オレ』!?)
 サニーは、え? という顔になった。いつも自分のことを『僕』と言っていたセトルが、今『オレ』と言ったように聞こえた気がする。
 聞き違いが何かだろうということにした。
 ガルムキングが唸りを上げて躍りかかる。
「すぐ終わるから、もうちょっと待ってて」
 そう言ったセトルのレーヴァテインはいつもより強い輝きを放っている。
 ――何だろう? とサニーは不思議に思った。セトルの雰囲気が少し変わっているような、そうでもないような……。
 躍りかかるガルムキングを簡単に躱し、セトルは素早く霊剣を薙いだ。速い。剣を振るモーションがサニーには映らなかった。ガルムキングもたぶん何が起こったのかわからなかっただろう。斬られたのにも関わらず、一切悲鳴を上げないで霊素スピリクルに還った。
 その一瞬の出来事にサニーはポカンとするしかなかった。セトルが寄ってきて彼女の動かない体を起こし、掌から青白く輝く優しい光を浴びせる。すると彼女の傷は瞬く間に治っていった。招治法――いや、これはもっとすごい何かだと彼女は感じた。
 サニーはセトルに飛びついた。そして彼の首を両手で強く絞める。
「あがぁ!?」
「バカバカ! 何で今頃起きてくるのよ! 遅いのよ! ホント……」だんだんと声が小さくなり擦れてくる。「ホントに心配したんだから……あたしも……みんなも」
 彼女は手を放して俯き、そして、何度も「バカ」と呟いて泣いた。
「ご、ごめん……」
 セトルはただ、そう呟くことしかできなかった。

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