ILIAD ~幻影の彼方~

夙多史

055 一時の平穏

 大勢の執事やメイドに迎えられ、セトルは呆然としながらウェスターの邸に招かれた。サニーは二度目である。彼女は知っている風にいろいろと邸の中の構造を話しているが、恐らくでたらめだろう。この広い邸を彼女が理解しているとは思えなかった。
「向こうが調理場」
「そこを曲がったところに二階の階段」
「あの廊下をずっと行ったところに執事長の部屋」
 そんな風に勝手に言っているが、先頭を歩くウェスター何も言わない。いや、ここからは表情は見えないが、必死で笑いを堪えているのではないだろうか。
 やがてセトルたちは応接室に通された。玄関からそれほど離れてはいないと思うが、もう何十分も歩いたような気がする。それほど長い廊下だった。既に数えきれないほどの部屋がある。
(一体全部でどのくらいあるのだろう?)
 そんな田舎丸出しのようなことをセトルは思っていた。
 応接室には絵画などの美術品らしいものはあまり置かれていなかった。それでも、絨毯、ソファ、テーブル、その全てがアスカリアではありえないほどの高級品ばかりである。
 ウェスターは早速ブライトドールを作りに彼の研究所ラボ――この邸にあると言っていたが、どこにあるかは知らない――へ向い、セトルたちは応接室のソファに腰を預けた。
 ――落ち着かない。
 シルティスラント城の時と同じような気分だ。こういう雰囲気はどうも苦手である。辺りを見回しても、豪華なものしか目に入らない。部屋全体が輝いて見える。
 キョロキョロしていると執事と思われる老人が紅茶を入れてくれた。
 いい香りが漂う。
 どうぞお飲みください、と執事は手でそれを表現した。三人は行儀よく紅茶をすする。絶妙な甘さ加減、ふんわりとした喉越し、まさに一級品だ。
(おいしいけど、マーズさんのハーブティーの方が好きだなぁ)
 そんな風に思いながらも、セトルはそれを全部飲みほした。
「とりあえず、これからどうする?」
 この雰囲気に堪えられなくなったのか、サニーがティーカップを持ったまま言う。
「せやなぁ、実際うちらここにおる意味ないんやし」
 しぐれがほっぺに人差し指を押しつけて考える。
「それでしたら、王都見物でもなされたらどうです?」
 話を聞いていた執事がそう提案してくれた。そういえば、前に来たときはいろいろとバタバタしていてあまり見物できていなかった気がする。いい考えかもしれない。何よりこの雰囲気にこれ以上いたらおかしくなってしまいそうだ。セトルがその案に賛成すると、二人もそれに同意した。彼女たちも一刻も早く外に出たいようだ。
「御夕食は六時となっておりますので、それまでにはお戻りになってください」

        ✝ ✝ ✝

 王都セイントカラカスブルグ。ウェスターの邸はその二番目に高い場所に建っている。一番高いところはもちろん王城だ。正規軍のウルドやアトリーがあそこにいるはずである。一階は一般人も自由に出入りできるためあとで行ってもよかったが、時間的にも街の見物だけで夕食の時間になってしまいそうだ。
 邸を出る時も、大勢のメイドや執事たちに、いってらっしゃいませ、と送られた。まるで自分たちがどこかの貴族にでもなった気分だ。貴族とは程遠い田舎者三人にとってそれは複雑でむず痒い気分だった。
 港市場、商店街、繁華街、どこも賑わっていそうだ。繁華街は暗くなってからが本番らしいが、そのころには邸に戻っている。
 三人は商店街に行くことにした。今度こそサニーをしっかりマークしていないと夕食には絶対間に合わない。セトルとしぐれはそのことだけには緊張感を持ってあたっている。
 商店街は思っていたよりずっと人が多かった。歩いていると食べ物のおいしそうな香りが漂い、そっちに意識が飛んでいくこともしばしばある。
 ずらっと様々なジャンルの本が並べられている店や、変わった植物を店先に置いてある花屋。革製の鞄やベルトにマントなどを売っている店。金物屋にはマインタウン製と書かれた刃物をはじめとする道具が置かれてあり、その包丁はセトルの剣よりも切れ味がありそうな物もあった。
 ここには何でもありそうだ。
 途中、アイスクリームを買ってそれを歩きながら食べた。この平和な雰囲気からはとても世界に危機が訪れているとは思えない。そのことすら忘れてしまいそうだった。
 だが事件が起きた。
 しぐれが転んで危うく商品をダメにしてしまいそうになったとき、細見の男性がセトルと衝突し、何も言わず走り去った。
 すぐに財布がないことに気がついた。
「ああ!? 財布がない!?」
「ええ!?」
「あーもう! セトルがぼーっとしてるからでしょ! 追うわよ!」
 サニーがそう言って一目散に逃げる男を追う。セトルとしぐれも全力で走った。人込みを搔き分けて周りの人に、あの人を捕まえてください、と叫ぶが誰も捕まえようとはしない。男の足は速かったが、見失わない程度にはついていける。しかし追いつくこともない。セトルたちはこの辺りをあまり知らないため、逃げられるのも時間の問題だと思われた。その時――
 逃げる男は誰かに足を引っ掻けられて転倒する。起き上がろうとしたときに、背中に踏みつけられた圧力がかかり、男は地面に張りつけられる。
 それをしたのは、真紅のコートを纏ったオリーブ色の髪のアルヴィディアン男性だった。
「アトリーさん!?」
 正規軍副師団長兼検事のアトリー・クローツァはもがく男を力強く踏みつけて、セトルたちを見るなり少々驚いたような顔をする。
「君たちか、何でここに? それと、これは君たちのだな?」
 彼はそう言って男から取り上げた財布を見せる。セトルが頷くと、彼はそれを投げてよこした。セトルは慌てて財布をキャッチする。
「僕たちはウェスターさんのつきそいです。アトリーさんこそ、ここで何をしてたんですか?」
「引っ手繰り常習犯の張り込みさ。最近やたら多くて怪我人まででるしまつ。それで我々も動いてるんだ。まあ、こうして捕まえられたのは君たちが財布を盗まれたおかげでもあるかな」
 アトリーは皮肉めいた笑みを浮かべる。すると正規軍の鎧を着た兵たちが駆け寄ってきた。アトリーは男を彼らに引き渡すと、ふう、と言いながら肩の荷が降りたように軽く肩を回した。
「ところで、ウェスターに協力しているらしいが、一般人があまり無茶なことするんじゃないぞ」
「はい。わかってます」
「今は二人だけかい? もしかしてデート中だったかな?」
 アトリーはニヤニヤといたずらな笑みを浮かべる。
「な、な、何言うてんねん、アトリーはん。サニーがそこに……いてへんな」
 しぐれが顔を真っ赤にし、慌てて後ろを振り向くとそこにサニーの姿はなかった。もちろん前後左右、ついでに上下、どこにもいない。
 これは、またやってしまった。
 セトルは大きく溜息をつく。真っ先に駈け出した彼女に続いたのに、どうやって見失ったのだろう。謎である。恐らく永遠に解けることのない謎である。
「アトリーはん! サニーが迷子になったみたいなんや。一緒に捜してくれへんか?」
 慌てふためくしぐれが縋るような目で頼む。アトリーは意味無く頭の後ろを掻き、しょうがないな、としぶしぶ了承する。すまなさそうにセトルは頭を下げた。
「お忙しいところすみません」
 その後、港市場をうろついていた彼女を正規軍の兵士が保護し、セトルたちは無事夕食に間に合うことができた。
 ビーフとオニオンとマッシュルームなどをバターで炒め、サワークリームで煮込んだものや、宝石のように輝くフルーツの盛り合わせなど、とてつもなく豪華な夕食に舌鼓を打ち、セトルたちはそれぞれの部屋のベッドに倒れ込んだ。落ち着かないが、疲れていたこともあってぐっすり眠ることができた。

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