悪意のTA

山本正純

朝倉教授と少年の出会い

少年と朝倉竜彦が出会ったのは、十年ほど前のことだった。あの時、朝倉竜彦は小学一年生の孫が通う音楽教室の発表会の客席に座った。
会場はコンサートホールの四分の一の広さの空間。客席は二百席あり、その多くを子供や孫の発表を見守る家族達が陣取っている。
最初はただの暇つぶしのつもりだったことを、朝倉は今でも覚えている。現に小学生が参加する発表会の演奏は、どれもレベルの低い物。それは音楽一家に育てられた朝倉の孫も同じ。そんな中で、発表会のトリを飾る小学六年生の演奏は、これまで聞かされた演奏は、少年の前座だったのではないかと、朝倉は疑う。
黒色のマッシュルームカットが似合う釣り目の少年は、堂々とした姿勢で、五分間ベースを見事に弾く。その音色は会場となっている市民会館中に響く。少年の演奏を聞きながら朝倉は感動して、受付で貰った発表会のパンフレットで演奏者の名前を確認する。
『ディープブルー。演奏者。小木隼人おぎはやと
演奏が終わりを迎え、小木隼人はお辞儀をして、ステージ端に向かい歩き始めた。
発表会が終わり、朝倉竜彦は孫を迎えに行くことを忘れ、会場内にいるはずの小木隼人を探すため、市民会館中を探し回る。
すると、男子トイレから小木隼人が出てくる。そこに朝倉竜彦は遭遇して、彼に近寄り名刺を渡す。
「東都大学の音楽学部で教授をしている、朝倉竜彦だ。小木君の演奏は素晴らしかった。君はベーシストの素質がある。良かったら私に指導を任せてほしい」
「朝倉さん。こういうことは家族に相談しないと……」
小木隼人は突然のスカウトに苦笑いして、朝倉の元から去る。その出会いから数日後、小木隼人の母親と名乗る女性から、朝倉津彦に問い合わせが入る。
『朝倉さん。調べさせてもらいましたわよ。音楽家として海外で音楽賞を総なめにした実績があるようで。それなら家の隼人を任せられるわ。家庭教師で良いかしら? 月謝はいくら払えば……』
大学の教授室でその電話を受けた朝倉教授は、心の底から喜ぶ。
「月謝はいらないよ。ところで小木君の家は音楽設備が整っているのか?」
『地下室に防音対策の整った部屋があるわ。そこでいつも練習してるの』
「分かった。とりあえず来週の月曜日から家庭教師として彼の演奏を指導しようと思う」


それから一週間に二回のペースで朝倉教授は、小木隼人の自宅に通い、彼のベースを指導した。
小木隼人が中学一年生になった頃のこと。いつものように防音設備の整った地下室での練習が始まろうとした時、小木は朝倉教授に頭を下げる。
「朝倉さん。今日からボイストレーニングもお願いします。実は、同級生三人でバンドを組むことになって、俺はベースとボーカルを担当することになったんです。でも、歌声に自信がなくて……」
突然バンドを組むことを聞かされた朝倉は、彼の真面目な姿勢に納得して、首を縦に振る。
「分かった。その代り練習は、これまでよりも厳しくなる。ところで、バンド名は決まっているのか?」
「はい。フォレストサイズです」
「フォレストサイズ? 変なバンド名だな」
「同じバンドメンバーの名前には、奇妙な共通点があるんです。その共通点を元にドラムを担当する大森君が考えました」
「なるほど。ということはバンドメンバーに、中林君か中林さんがいるってことか?」
「そうですよ。中林君のギターは上手いんですよ」
そんな会話を交わし、ベースとボーカルの指導が始まった。だが、その指導も四年間で打ち切られることになる。


平成十七年の六月二日。その日、東京の空は灰色の雲に覆われていた。その雲から降った雨は大量で、雨粒が地面に強く叩きつけられていた。
雨は朝から夕方まで降り続け、本格的な梅雨入りとなる。視界の悪い夕暮れ時の道路。一台のトラックが荷物を届けるために、時速六十キロのスピードで走っている。
交差点に差し掛かった時、トラックの運転手の前に、突然笠を持たない低身長の女が飛び出してきた。それと同時に、一人の少年が女の右腕を掴む。トラックの運転手は、慌ててブレーキを踏んだが間に合わない。トラックに轢かれた二人は、宙を舞い、雨と同じように道路に叩きつけられた。
そうして、小木隼人は短い人生に幕を閉じた。


東都中央病院の霊安室で朝倉竜彦は、冷たくなった教え子と再会する。静かな霊安室には、彼の家族が涙を流していた。朝倉は遺体の前で涙を流す。
教え子との早過ぎる別れを体験した朝倉には、後悔が残る。朝倉は小木が所属するバンドの演奏を一度も聞いていない。聞いていたのは、彼の練習の時の歌声のみ。彼のベースも二度と聞くことはできない。
なぜ優秀なベーシストになるはずだった彼は死んでしまったのか。疑問と後悔の中で、朝倉は暗い顔のまま、病院から去る。
その病院の出入り口で、前髪を七三分けにした黒いスーツの男と朝倉はニアミスする。だが、その朝倉自身の人生を狂わせた張本人とのファーストコンタクトの瞬間に、大学教授は気が付かない。

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