くらやみ忌憚

ノベルバユーザー91028

暁の降る空へ

神室町のビルから続々と発車していく高級車の群れをぼんやりと見送り、最後に託人も迎えの車に乗り込み出発した。空調の効いた静かな車内には眠気を誘うクラシックがゆったりと流れている。
疲れた様子を見せる託人を気遣ってか、専属運転士の男が缶コーヒーを投げて寄越した。
「あんまり根を詰めすぎるのもよくないと思うぞ。今日くらいは休め」
ややぶっきらぼうながら労わりに満ちた言葉に照れくさそうに笑いつつ、少年は諦念の混じった声でこぼす。
「あー……。そうしたいのは山々なんだけどさぁ、俺にはたっくさん仕事が待ってるからね。この後もあいつのところに行かないと」
「そうか、……大変なんだな。頼むから倒れたりするなよ、俺に介護のスキルなんて期待しないでくれ」
「ははっ、おっけい、肝に銘じておく。あ、マヨイガ荘に向かってくれる」
「りょーかい。着くまで寝てろ」
車内BGMの音量が引き下げられ、心地よい振動に身を任せて、託人はそっと瞼を下ろした。


光陽台学園のすぐそばに、はっきり言ってかなりオンボロなアパートがある。築年数も定かでないほど古く、しかもちょっと汚い外観故に住人は誰もいない。昭和のメロドラマにでも出てきそうな、妙にノスタルジックなそのアパートの名前は「マヨイガ荘」という。
光陽台市にあるという時点で何となく想像つきそうだが、もちろんただの家ではない。このアパート自体が「迷い家」という妖怪であり、大家も人外だった。
予定の時間にぴったり合わせて到着し、運転士の男にチップを渡してから、託人は一階一号室のドアをノックした。ほぼノータイムで返答が来る。
「んんー……。もう、託人君ってば、いっつもお昼に来るんだから。夕方にしてって言ってるでしょ〜」
着崩れた浴衣をズルズル引きずり、ピンピンと寝ぐせの跳ねた黒髪を肩口で切り揃え、手首と足首を鈴で飾った幼い少女–––––座敷童の「住子すみこ」は眠い目をこすりつつ部屋に通してくれた。
「俺にも予定が入っているんですぅ。暇な妖怪連中とは違ってね!」
「あーそう。……で、私に何の用なの?」
投げやりな調子で放られた言葉に託人は居住まいを正し、深く頭を下げた。
「一人、此処に住まわせてやりたい奴がいる。入居を認めてくれないか」
彼は一体誰のことを指して言っているのかは教えていなかった。だが、住子は対して気にした様子もなく快諾する。深く考えていないというのではなく、もとより全てを受け入れる覚悟があるのだというように。
「もちろんいいよ。でも一つ条件がある。あなたもそのひとと共に暮らしなさい。そして傍で支えてあげて」
これから一族の当主として、協会の長として忙しくなる彼にとっては無茶な要求といえる。しかし託人は最初からそのつもりだったのか、一度頷くだけで嫌な顔など僅かにも見せなかった。
「ありがとう、……これからよろしく」
新しい住人の訪れを歓迎するかのようにマヨイガ荘の柱が軋んだ。



–––––同日。
〈霧雨一族本邸、地下牢〉


暗く、深く、冷たい、濃密な闇の奥底。地上の光など差さない、カビ臭く湿った地下の牢獄。
かつて「アウローラ」という名の妖魔が囚われていた場所。それを知ってか知らずか、彼女の主人であった人外の異形達の王「夜光姫」もまた、鎖に繋がれ虜囚の身に置かれていた。
暗闇の中にあってさえ、濡れたように輝く夜色の髪とくすんだ金のまなこ。陶器の如き滑らかで白い肌に血の気はなく、黒い拘束着から覗く手足はまるで枯枝かと思うほど痩せ細っていた。凍てつく整った顔立ちは虚ろで何の感情も映さない。
カサカサに乾いた唇からは今にも消えそうな儚い吐息が漏れる。薄い胸が上下していなければ、死んでいるかと勘違いしてしまいそうだ。
今の彼女の姿を見た者は、誰もがこう思うだろう–––––「廃人」のようだ、と。
外の世界を拒絶して、分厚く硬い殻にこもってしまった夜光姫は、コツコツと響く足音にも一切反応を示さない。
小さな身体を更に縮こめるように丸め、感覚を閉じてしまっている。
「……いつまで、そうしているつもりだ。お前が苦しんでいい立場にあると思うのか、甘ったれが。所詮は化け物だということだな、お前のせいで痛みにあえぐ者のことなど気にも留めなかったのだろう。この、外道」
辛辣にして苛烈な言葉が矢のように降り注ぎ、少女の姿の異形を貫く。
「挑発にも応じない、か。やはり、此処に置いておくのは危ういな」
声の主は淡々と独りごち、更に夜光姫へと近づいていく。距離が縮まるにつれ、古い薔薇の香りが強さを増す。花の芳香に混じって漂うのは、インクと羊皮紙の匂いか。慣れ親しんだ匂いに「彼」の口元が微かにゆるむ。
やがて、二人の距離は零になる。
「……ずっと、考えていた。もしかしたら、君と俺はすごく似ているんじゃないかって。君もまた、寂しさと飢えを抱えてきたんだろう?
俺もそうなんだ。いくら魔物を殺しても、たとえ家族が傍に居てくれても。渇きが消えない。この手で全て壊したいって思ってしまう。大切に想えば想うこそ、愛しているなら愛しているだけ、壊したいと。
けれど、本当にこわしてしまうと、途端に辛くて淋しいんだ。……愚かだと嗤うかい?」
今まで誰にも言えなかった。口にしてしまえば、きっと、我慢できなくなる。いつかほんとうに、この手にかけてしまうかもしれない。
–––––想像が、現実になったら。
考えるだけで気が狂いそう。多分、耐えられない。それでも昏い欲望はなくなってくれない。
だからずっとひた隠しにしてきた。解放するのは任務のときだけ。仕事中なら、少しばかり挙動がおかしくても、戦闘でハイになっているだけだと判断される。その時だけは素直に笑えた。
–––––誰か、誰でもいい何でもいい、どうか、俺をころして。
決して、外に出してはいけない、思い。
「ねぇ、君は俺をころしてくれる?いつか、抑えが利かなくなって……誰かを愛しそうになってしまったら」
この愛は何も生み出さない。いつか何もかもを破滅させてしまう。狂った愛はただの毒だ。受け入れた者を苦しめてしまうだけの。
泥に浸かったまま手を伸ばした。空へ向けて、幾度も幾度も。根元から断ち切られるかもしれないと分からずに。
そして、何度、後悔しただろう。
「お願い、俺の傍にいて。俺からみんなを守ってよ。失いたくないんだ。頼むよ、……光姫みき
みんなに見せるいつわりの笑顔ではない、泣き笑いの表情で託人は言い募った。告げるのは彼女に贈ったもうひとつの名前。これから人と一緒に生きていく彼女のために編み出したもの。
弾かれたように、彼女–––––光姫は立ち上がり、託人に覆い被さった。古い本の香りが彼を包み込む。
「約束しよう。私は必ず、お前をしてあげる。いつか、お前が壊れる前に。だからあなたも、私を愛して」
祈りにも似た囁きが、彼の奥深くへと染み込んでいく。狂いを抱えた少年は、震える腕を回して、彼女にそっと触れる。壊れ物を扱うかのように、優しく。
幼い少女の外見をした怪物は、クスリと仄かに笑った。
「なぁんだ、あなたちゃんと抱きしめられるじゃない。……へんなの。あなたの愛は、歪んでいるよ」
けれどその歪みさえ愛おしむと。彼女は確かにそう告げる。
金の瞳がゆらゆらと揺れた。




「あ、そうそう大事なことを忘れるところだった。あのさ、俺と一緒に住まないか?」

          

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