僕と狼姉様の十五夜幻想物語 ー温泉旅館から始まる少し破廉恥な非日常ー

稲荷一等兵

第1節—三年振りの故郷“月詠町”—

 カーテンの隙間から、柔らかな日差しが差し込んできている。朝……、七時を知らせる目覚まし時計のベルが、僕の耳に容赦なく入ってくる。頭の痛くなりそうなその音を、元である時計の頭を軽く押して黙らせた。

「ううん……」

 まだ残る気怠さを引きずりながら、上半身を起こす。重いまぶたをこすりながら、立ち上がって布団をたたんだ。この六畳床の間で、この布団を畳むのもこれで最後になるんだろう。
 感慨深くて、しばらくこの部屋を見渡してみたけど、そうこうしているうちに飛行機の時間が来てしまうかもしれない。荷物の整理は昨日に終わらせたし、学校のみんなには三日前に挨拶は済ませた。後はおばあちゃんの作ってくれた朝ごはんを食べて、ここを出るだけ。丁度魚の焼けるいい匂いが漂ってきたところだ、早く着替えて食卓に行こう。

「あら起きたのかい、ちぃちゃん」

   台所に立つ、皺くちゃな顔のおばあちゃんが、いつもと変わらない笑顔で迎えてくれる。とても愛嬌がある、僕のおばあちゃんの作る朝ごはんが食卓に並んで、おじいちゃんはそこで新聞を読んでいる。いつもの朝の風景だ。僕が今日でここを出て行くというのに、何も変わらない朝。
 でも、僕は知っていた。おじいちゃんもおばあちゃんも、僕が故郷に帰ることをとても寂しく思っていること。こうしていつもどおりにしていれば、中学最後の春休み中の僕が、この家で家事のお手伝いをして、いつもどおりお昼ごはんを食べて、おばあちゃんとお出かけをして買い物をして。帰ってきては、おじいちゃんの囲碁の相手をしたり……そんな日常が続くんじゃないかと願っての、この変わらなさ。
 今日は少し、おじいちゃんの新聞の読む速度が遅いみたい。なかなか僕に顔を見せてくれない、おはようといえばおはようさんと返してくれるんだけど。

「あんた、朝ごはんできたから新聞畳みなさいな」
「ああ、そうか……」

 新聞を畳んで、すぐ後ろにあるスタンドに放り込んだおじいちゃん。ふと顔を見ると、なんだかとても物悲しさを感じさせる表情が浮かんでいた。
 いつもは元気なおじいちゃんだけど、やっぱり僕が故郷に帰っちゃうのは寂しいんだろうな……。

 みんな揃ったところで、頂きます。三年間毎日変わらず行ってきたこの食卓も、少しばかり会話を交わしただけで終わってしまった。

 もう、8時半。身だしなみを整えて荷物の入ったキャリーバッグを転がして、もう行かなくちゃ。
 この古いお屋敷にもお世話になりました。玄関まで行くとなんだか急に感慨深くなって振り向いてしまう。

「ほんとうにもう行ってしまうんだねぇ」
「うん、三年間ありがとうね、おばあちゃん」
「いやいや、うちのバカ息子もいい親孝行をしてくれたもんだよ。こんなかわいい孫を三年間も面倒見させてくれるなんてねぇ。またお休みが取れたらいつでも遊びに来なさい、待ってるからね」

 悲しみの混じった柔らかで儚い笑顔に、僕の目頭がつい熱くなってしまう。この東京での暮らしは、決して楽なものじゃなかったけど、とても楽しかったんだ。今になってどんどん思い出が蘇ってくる。

 おばあちゃんの隣で、腕を組み黙ってしまっているおじいちゃん。なにか言いたそうなんだけど、僕からおじいちゃんにお別れの言葉をかけよう。

「おじいちゃん、じゃあ僕行くね。三年間ありがとう、故郷のこととか、昔の話とか、色々と教えてもらったりして楽しかったよ」
「バッカ野郎、そんな今生の別れみてぇなこと言うない! そんなもんな、俺が一番楽しかったぞ。お前さんは素直でいい子だ、将来が楽しみで仕方ねぇ、なぁお前」
「そうだよ、これは長生きしないといけないねぇ」

   もうおばあちゃんは、涙をこらえきれなくて声も震えてしまってる。

「えへへ、ありがとね」

 僕も涙を浮かべながらはにかんで、しっかりと二人と向かい合う。

「くぅっ、畜生め、やっぱだめだなあ。悲しいもんは悲しいんだこのやろう」

 おじいちゃんが、いつも僕に向けてくれていた笑顔。その笑顔は今日だけ、涙で濡れていた。本当にありがとう、父さんに与えられたこの三年間とても楽しかったよ。

「じゃあ僕もう行くね。ふたりとも、体には気をつけて。また遊びに来るよ」
「ええ、ええ。達者でね。ちぃちゃんこそ、体には気をつけるんだよ。うちのバカ息子と千鶴さん、それと伊代ちゃんによろしくね」
「元気でな、千草。いつでも待ってるからよ、ちょっとは顔出しに来るんだぞ」
「うん、うん……ありがと。じゃあね、また連絡するよ」

 そうして僕は、三年間住んだお屋敷を後にした。お屋敷の門から出ると、途端に涙が溢れてきて、振り返るとまだ二人が手を振ってくれていて、一度深々とお辞儀をして帰路につくことに。

「立派になったねぇ、あの子は」
「男の成長ってなぁ、早ぇもんさ。ああ、お前、酒だ。酒が飲みてぇな」
「まったく、ほどほどにしとくんだよ」

 僕がこれから行くのは、おじいちゃんがよく話して聞かせてくれていたとある伝承が残る町、月詠町。とっても田舎だけど、僕の実家があるところ。

   寂しさが尾を引きながらも、僕は最寄り駅に。この東京の街並みともしばらくお別れだなぁ、なんて思いながら、時刻表通りきっちり停まった電車に乗り込んで空港に向かう……。

 さて、僕の故郷は、この東京から飛行機で西にしばらく行って、そこから鉄道に乗って一時間。鉄道を降りると、そこからはしばらくバスに乗らないといけない。
 雨や風にさらされて、すっかりくすんだ色になってしまっている、木製のバス停。そのベンチに腰掛けて、次のバスが来る十五分後まで、久々に味わうこの土地の空気を、お腹いっぱい吸い込んだ。

 東京もいい天気だったけど、こっちもとてもいい天気だ。すぐそこにある舗装されたアスファルトの道の向こうには、田畑が広がっていて、用水路の水が涼しげに流れる音も聞こえてくる。
 今の季節、まだまだ肌寒いのはわかってたけど、やっぱり東京と比べてこっちは一回り気温が低いように感じる。ふんわりと漂ってる懐かしい草木の匂い、ああ、戻ってきたんだなあなんて、思わされてしまう。

 ふと右手側から、大きなエンジン音が聞こえてきたから、僕は立ち上がってどんどん近づいてくるバスを待ち、重いキャリーバッグを持ち上げて、扉を開いてくれたバスに乗り込み揺られることしばらく。
 ちょっとした旅を終えて僕は生まれ故郷、月詠町に戻ってきた。

「うう、少し酔ったかな……」

 バスを降りれば、もうそこは自分の庭みたいなもの。実家までの道のりは手に取るようにわかる。でも、少し乗り物酔いしてしまったみたい。頭痛いし、足取り重い、気持ち悪い。後もう少しすれば家に着くし、頑張らないと。

 しばらく歩くと、左手に大きな松の木がそびえ立つ場所が見えてきた。あの藁葺き屋根の厳かな和風建築は神社だ。ここは月詠町にある唯一の神社なんだ。月並神社と言って、僕が小さな頃、ここの境内でよく遊んでたことを思い出す。
 鬼ごっこやかくれんぼ、独楽遊びなんかもしたなあ。枯山水荒らして、神主さんに怒られたりもしたっけ、まだ元気かな、あの神主のおじいさん。

「ここを通って行けば近道かな」

 久しぶりだし、神社をぐるっと見渡してみたかったから、大きな朱色の鳥居をくぐって神社に入ってみた。しんと水を打ったような静けさの中に佇む拝殿と、本殿が神聖な雰囲気を演出してる。それにしても、想像してた以上に何も変わってなくて安心した。

 ……と、静けさの中に箒が地面を擦る音が聞こえてきた。拝殿の側面を回って正面に出るとその箒の音の主を見つけ、しばらくその様子を見てしまう。
 立派な竹箒で境内を掃いているのはこの神社の巫女さんだ。朱色の袴に両肩にスリットが入った白衣、腰には赤い縄を巻いている。長いつややかな黒の前髪はぱっつりと切り揃え、後ろは赤い丈長で束ねられてた。

 少し変わった巫女服に惹かれたのか、箒で石畳の上を掃く彼女の端整な横顔に見とれたのか。僕は、歩を進めながらも横目で、その姿を追っていた。
 と、まあ必然的にその視線がバレて目が合ってしまう。

「……」

 とても可愛らしい顔をしているその巫女様。しかし、僕を見るなり怪訝な表情を見せてくれた。入っちゃダメなわけでもないだろうし、彼女がなぜ、そんな顔をするのかわからなかった僕は、気の利いた挨拶もできず、戸惑い気味に会釈するしかなかった。

 結局僕は、そのまま神社の正面口にある一番大きな鳥居から出て、少しばかり長い石段を降りていくことになった。裏門から境内を抜けて正門から出て行ったわけだ。

 と、今度は僕が視線に気付くことになる。スーツケースを抱えて石段を半ばまで降りたところだった。ふと、石段の上に目を向けるとさっきの巫女様が僕を見下ろしていたんだ。驚いたけど、すぐに踵を返して境内に戻っていってしまった。不思議には思ったけれど、別段気にもせずに一番下まで降りきってしまった。

 さて、ここまでくれば家までもう少し。久し振りに帰って来た、この慣れ親しんだ町並みを懐かしみながら歩いていると、ひときわ大きな和建築の施設が見えてきた。
 瓦屋根の、時代を感じさせる門構えの奥には、均一に敷かれた砂利と歩道を示す石畳が敷いてある。風流な竹垣を両側に見た奥には、綺麗な旅館が。

 そう、ここが僕の実家であり古い言い伝えも残っている温泉宿“月影の湯”。

 もちろん、この旅館の本館に住んでるわけじゃないよ。正面玄関に入る前に脇道に入ってしばらく行くと僕のお家。

 旅館と同じく和風建築で、普通の家より少し大きいくらいの僕、柊千草の実家。旅館の方は二年前に改装したらしくて、とても綺麗になってたけど、家は三年前のままだ。
 家族に会うのも三年振りだな、胸の高鳴りを感じつつ、がらがらとスライドドアの扉を開けて……。

「ただいま!」

 帰ってきたよと挨拶をしてから、鼻をくすぐる言葉にはしづらい実家の匂いを胸いっぱいに吸い込む。慣れ親しんだ家の匂いを嗅ぐと、長旅の疲れフッと消えてしまったような錯覚を覚えてしまうほど安心した。
 挨拶に気づいたのか、二階からトントンと、誰かが降りてくる音が聞こえてきた。誰だろ、伊代姉かな、母さん……はお仕事だろうし。

「おかえり、千草」
「ただいま、伊代ね……え」

 二階から降りてきた一歳年上の、僕のおねえちゃんを見て言葉に詰まってしまった。三年という時間は本当に、それはもう劇的なまでに人を変えるには十分すぎる時間だったみたい。というのも、僕、ひいらぎ千草ちくさの姉であるひいらぎ伊代いよは、まだ僕が東京に行く前まで、それはもう男みたいな短髪で、性格や話し方すら女っぽさのかけらもない人だったんだ。でも、いまこうして三年後の伊代姉を見てみると、だ。

 身長が伸びてるのはもちろんのことながら、美容院で丁寧にカットしてもらってるであろう艶やかな黒髪は腰辺りまで伸びてる。縦縞の白いセーターに強調された胸は、昔からは考えられないくらい大きくなってる。何より、めちゃくちゃ落ち着いた雰囲気を纏ってて、昔の兄貴って感じよりお姉さんって感じに成長してた……。いや、兄貴ってのもおかしな話なんだけど。

「大きくなったわね、千草。でもまだ私を抜くまでじゃないか。あはは、可愛さは昔のままかしら」
「可愛いって言わないでよ、もう。それより伊代姉こそ変わりすぎだよ! ほんとにびっくりした! 心臓に悪いよ、誰かと思ったよ」

 伊代姉は、本当に驚いた風の僕を見て機嫌を良くしたのか、にんまりと笑みを浮かべた。かと思うと随分いたずらな笑みに変わってずい、と腰を曲げて僕に詰め寄ってきて一言。どこが変わったの? と。
 三年間の変化は、自分が一番わかってるんだろうけど、どうやら僕から聞きたいみたい。

「なんだか、すごく女性っぽくなったよ。彼氏さんでもできたの?」
「作らないわよ、男なんて。まったく、素直に褒めてればいいものを。そこは成長してないわね、あんた」
「ごっ、ごめんなさい」

 どうやら言葉を間違えたみたいだ、途端に伊代姉の目つきが剣呑になっちゃったやっちゃった。伊代姉の方もそんなに僕に期待してなかったみたいですぐけろりとしたものだけど。
 けろりとしたついでに伊代姉は僕の頭を髪の流れに沿って優しく撫でてくれた。手が伸びてきたことで驚いた僕は口を軽くへの字に曲げて、片目を閉じたものだけど、撫でられて安心してゆっくりと表情を戻す。

「なんだか、昔と変わってなくて安心した。良く話すようになったし、性格も明るくなったみたいだから東京行って変わっちゃったのかと思って怖かったの」
「昔も今も僕は僕だよー……!」
「そうね、本当にそう」

 優しかった慈愛の撫でがわしわしと乱暴なものになってしまう。僕はあわあわとしだし、それを見て伊代姉はご満悦のようだ。


   

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