異世界の彼女が僕の心を覗き込む
帰還
――午後五時三十分。
山肌を照らしていた薄明も殆どなくなり、星が一つ、また一つ姿を現し始める。智哉と神楽耶、そしてミローナとエトリンの四人はゲートが開く予想ポイントである、榧洞抗の浄水場へと続く坂道を登っていた。智哉が懐中電灯を片手に先導する。裕也はこの足じゃ坂は無理だ、と智哉に案内を託したのだ。
坂道の終わりに差し掛かる。何に使われていたのだろうか、鉄骨のアーチが等間隔で並んでいる。浄水場はこの先だ。赤錆びたアーチをくぐり、漸く四人は目的の浄水場に辿りついた。
「ここだよ。浄水場」
智哉が神楽耶達に振り向いて告げる。浄水場といっても別段大きな施設があるわけでもない。木造平屋建ての古びた廃屋があるだけだ。
廃屋の入り口には木製の縦長の看板が掛かっており、見事な達筆で「榧洞上水道浄水場」と書かれていた。隣にも、赤字で消火器と掛かれた白い看板があったが、こちらは片端の留め金が外れ傾いている。
浄水場の廃屋は解体途中なのか、黄色に黒縞のコーンが入口を塞いでいる。廃屋は、周囲に直置きされたライトに照らされていた。
神楽耶は手首を返して腕時計を見る。針は六時五分前を指していた。
「もうすぐね」
神楽耶は鞄の中から、深紫色のクレストを取り出すと、ミローナに手渡した。
「ミローナ。ありがとう。宙の王は此処にいるわ」
「神楽耶、いいのか。これはお前が……」
ミローナは心配そうな顔で訊ねた。
「元々は貴方のものよ。それを返すだけ。私のミッションは失敗したけれど、宙の王を連れ戻せなかったわけじゃないから。心配いらないわ」
「そうか。まぁいいさ」
ミローナは神楽耶から「宙の王」のクレストを受け取ると自分の首に掛けた。
「よかったですわね。ミローナ姉さま」
エトリンがニコニコしている。ミローナは、エトリンの顔をじっと見ながら、そのニコニコがクレストのせいだけではないと見抜いていた。ミローナは、エトリンが肩から下げているポーチを指さした。
「エトリン。お前の鞄の膨らみは何だ?」
「あ、お気づきになられました? 流石は姉さま」
エトリンは少しも悪びれる様子もなく、鞄から石を取り出した。白味がかった鼠色の石だ。所々にペンキで塗ったような金色があった。金鉱石のようだ。どうやら選鉱場から拾ってきたらしい。
「姉さま。珍しい石が沢山ありましたのよ。一杯持って来ちゃいました」
エトリンは鞄を二、三度ぽんぽんと叩いて、満足そうに微笑んだ。
「またそれか。苦労してこっちの世界に来て、そんなの持って還るのかよ」
ミローナが呆れた声を出す。
「こっちの世界に来たからこそですわ。次は何時になるか分からないのでしょう。記念ですわ。ほら姉さま、こちらの石なんかキラキラして綺麗でしょ?」
「全く仕様のねぇ奴だな」 
ミローナの口調は台詞に反して嬉しそうだ。エトリンはミローナの傍に寄り添い、愛おしそうにミローナの両肩に手をやった。ミローナは首を捻ってエトリンの顔を見上げると満足そうな笑みを浮かべた。
――午後六時。
予想ではゲートが開く時間だ。
智哉は何か変化はないのかと周囲を見渡した。浄水場の廃屋がライトに照らされている以外に、特に変わったところはない。
じゃあ、と智哉は天を仰いだ。
と、空の一角が真四角に切り取られ、そこから一筋の光が差し込んだ。光は廃屋の脇の枯れ芝を二メートル四方ばかり照らした。光の中に何か細かい粒子のようなものが輝いている。
智哉と神楽耶の様子を見ていたミローナが、何かを察したように口を開いた。
「俺達は先に帰るぜ。神楽耶。細かいことはヴィーダに帰ってからにしようぜ」
「ええ、あちらでね」
ミローナは神楽耶の答えに頷くと、智哉の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「智哉。最初に会ったときは軟弱な奴だと思ってたけどな。あのサングラス野郎をやっつけるとはやるじゃねぇか。見直したぜ。それに……」
ミローナはニヤリとする。
「何故かお前とは始めて会った気がしねぇんだ。昔から知り合いだったような気がして仕方がねぇぜ。お前の兄ちゃんもそうなんだけどよ。おかしなもんだ」
ミローナの言葉に智哉は目を細め、にっこりと微笑みかけた。
「うん。僕もそうだよ」
智哉は敢えて宙の王に見せてもらった過去の転生を語らなかった。話してしまうと、二度と逢えないような気がしたからだ。
「へっ。じゃあな智哉」
「智哉様。では失礼しますね」
エトリンが頭を下げて別れの挨拶をした。ミローナとエトリンは光の中へと足をいれ、智哉と神楽耶に向き直る。神楽耶が指先を揃えた片手を軽く上げて、二人を見送る。
光の中の粒子がミローナとエトリンを包み込んだ。そしてゆっくりと拡散し、二人は元の宇宙へとジャンプして消えた。
神楽耶はミローナ達に別れを告げると、振り向いて智哉の前に立った。
神楽耶のブルーの瞳は智哉を見つめていた。智哉も神楽耶を見つめ返していた。
「これで……お別れだね」
智哉が囁いた。
神楽耶も小さくコクリとすると、鞄を開け中から桜色のルージュを取り出した。
「桐生君。いろいろとありがとう。何も用意できないけれど、これだけ持っていて欲しいの」
神楽耶は智哉の手を取り、もう片方の手でルージュを乗せて、その手で智哉の指をそっと折り曲げた。初めて神楽耶と会った日に手渡された消しゴムよりずっと重いものを智哉は感じた。
神楽耶は、ルージュを握った智哉の拳を両手で包み込んだまま、そっと目を閉じていた。その顔は、智哉と出会ってからの事を思い返しているようだった。
暫くそうしてから、神楽耶はようやく瞼を開けた。彼女のブルーの瞳は潤んでいた。
そんな神楽耶の瞳に智哉はずっと心に仕舞いこんでいた想いを口にした。
「好きだよ。……神楽耶」
智哉は初めて神楽耶を下の名で呼んだ。
「わたしもよ。一人で生きてきたと思っていた私に一人じゃないって教えて呉れたのは貴方よ。智哉」
そう言うと、神楽耶は少し屈んで、智哉の頬に優しくキスした。
「ありがとう智哉。元気でね」
神楽耶はゆっくりと光の中に体を差し入れ、智哉に向き直った。キラキラと輝く粒子が神楽耶を包み込んでいく。
智哉は神楽耶がキスしてくれた右頬にそっと手をやった。その感触が消えるより先に神楽耶がどんどん透明になっていき、ゆっくりと虚空に消えていった。
拡散した粒子が光の中をくるくると踊っていた。
智哉は神楽耶が消えた「宙」に向かってそっと言った。
「……いってらっしゃい」
智哉は百億と半年振りに、二度目の見送りをした。
――神楽耶が宙へと還ってから三十分経った。
智哉は浄水場からの坂道を下っていた。足下を懐中電灯で照らしながら慎重に歩いていた。辺りはすっかり夜の帳に包まれ、ライトが無いと何処が道なのかもわからない。智哉はたっぷりと時間をかけて、もと来た道を戻る。
学校跡碑の脇を通り過ぎた辺りで、智哉は遠くに二つのライトが闇を照らしているのが見えた。裕也のミニクーパーだ。
迷子にならなくて良かった、と安心した智哉は少しだけ歩く速度を早める。智哉の両目から涙が溢れだした。智哉はなぜ泣き出したのか自分でも分からなかった。
裕也は車のエンジンを掛けたまま、運転席と反対側のドアを開け、脚を外に投げ出した姿勢で助手席に座っていた。
帰ってきた智哉に気づいた裕也は、右膝に貼った熱冷まし用の冷却シートを剥がさないように、捲り上げたズボンの裾をそっと直してから、よっこらせと立ち上がる。
裕也は智哉の顔をみると、ふうっと一息ついてから声を掛けた。
「あの娘に好きって言ってきたか?」
裕也は小さく頷いた智哉の髪をくしゃくしゃにした後、智哉の肩を抱いて助手席へと誘った。
車を発進させた裕也はそれきり智哉に話しかけることはなかった。智哉も裕也に口を開くことはなかった。
ただ、智哉の右手に握り締められた神楽耶のルージュだけが、これで全て終わったのよ、と静かに語り掛けていた。
山肌を照らしていた薄明も殆どなくなり、星が一つ、また一つ姿を現し始める。智哉と神楽耶、そしてミローナとエトリンの四人はゲートが開く予想ポイントである、榧洞抗の浄水場へと続く坂道を登っていた。智哉が懐中電灯を片手に先導する。裕也はこの足じゃ坂は無理だ、と智哉に案内を託したのだ。
坂道の終わりに差し掛かる。何に使われていたのだろうか、鉄骨のアーチが等間隔で並んでいる。浄水場はこの先だ。赤錆びたアーチをくぐり、漸く四人は目的の浄水場に辿りついた。
「ここだよ。浄水場」
智哉が神楽耶達に振り向いて告げる。浄水場といっても別段大きな施設があるわけでもない。木造平屋建ての古びた廃屋があるだけだ。
廃屋の入り口には木製の縦長の看板が掛かっており、見事な達筆で「榧洞上水道浄水場」と書かれていた。隣にも、赤字で消火器と掛かれた白い看板があったが、こちらは片端の留め金が外れ傾いている。
浄水場の廃屋は解体途中なのか、黄色に黒縞のコーンが入口を塞いでいる。廃屋は、周囲に直置きされたライトに照らされていた。
神楽耶は手首を返して腕時計を見る。針は六時五分前を指していた。
「もうすぐね」
神楽耶は鞄の中から、深紫色のクレストを取り出すと、ミローナに手渡した。
「ミローナ。ありがとう。宙の王は此処にいるわ」
「神楽耶、いいのか。これはお前が……」
ミローナは心配そうな顔で訊ねた。
「元々は貴方のものよ。それを返すだけ。私のミッションは失敗したけれど、宙の王を連れ戻せなかったわけじゃないから。心配いらないわ」
「そうか。まぁいいさ」
ミローナは神楽耶から「宙の王」のクレストを受け取ると自分の首に掛けた。
「よかったですわね。ミローナ姉さま」
エトリンがニコニコしている。ミローナは、エトリンの顔をじっと見ながら、そのニコニコがクレストのせいだけではないと見抜いていた。ミローナは、エトリンが肩から下げているポーチを指さした。
「エトリン。お前の鞄の膨らみは何だ?」
「あ、お気づきになられました? 流石は姉さま」
エトリンは少しも悪びれる様子もなく、鞄から石を取り出した。白味がかった鼠色の石だ。所々にペンキで塗ったような金色があった。金鉱石のようだ。どうやら選鉱場から拾ってきたらしい。
「姉さま。珍しい石が沢山ありましたのよ。一杯持って来ちゃいました」
エトリンは鞄を二、三度ぽんぽんと叩いて、満足そうに微笑んだ。
「またそれか。苦労してこっちの世界に来て、そんなの持って還るのかよ」
ミローナが呆れた声を出す。
「こっちの世界に来たからこそですわ。次は何時になるか分からないのでしょう。記念ですわ。ほら姉さま、こちらの石なんかキラキラして綺麗でしょ?」
「全く仕様のねぇ奴だな」 
ミローナの口調は台詞に反して嬉しそうだ。エトリンはミローナの傍に寄り添い、愛おしそうにミローナの両肩に手をやった。ミローナは首を捻ってエトリンの顔を見上げると満足そうな笑みを浮かべた。
――午後六時。
予想ではゲートが開く時間だ。
智哉は何か変化はないのかと周囲を見渡した。浄水場の廃屋がライトに照らされている以外に、特に変わったところはない。
じゃあ、と智哉は天を仰いだ。
と、空の一角が真四角に切り取られ、そこから一筋の光が差し込んだ。光は廃屋の脇の枯れ芝を二メートル四方ばかり照らした。光の中に何か細かい粒子のようなものが輝いている。
智哉と神楽耶の様子を見ていたミローナが、何かを察したように口を開いた。
「俺達は先に帰るぜ。神楽耶。細かいことはヴィーダに帰ってからにしようぜ」
「ええ、あちらでね」
ミローナは神楽耶の答えに頷くと、智哉の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「智哉。最初に会ったときは軟弱な奴だと思ってたけどな。あのサングラス野郎をやっつけるとはやるじゃねぇか。見直したぜ。それに……」
ミローナはニヤリとする。
「何故かお前とは始めて会った気がしねぇんだ。昔から知り合いだったような気がして仕方がねぇぜ。お前の兄ちゃんもそうなんだけどよ。おかしなもんだ」
ミローナの言葉に智哉は目を細め、にっこりと微笑みかけた。
「うん。僕もそうだよ」
智哉は敢えて宙の王に見せてもらった過去の転生を語らなかった。話してしまうと、二度と逢えないような気がしたからだ。
「へっ。じゃあな智哉」
「智哉様。では失礼しますね」
エトリンが頭を下げて別れの挨拶をした。ミローナとエトリンは光の中へと足をいれ、智哉と神楽耶に向き直る。神楽耶が指先を揃えた片手を軽く上げて、二人を見送る。
光の中の粒子がミローナとエトリンを包み込んだ。そしてゆっくりと拡散し、二人は元の宇宙へとジャンプして消えた。
神楽耶はミローナ達に別れを告げると、振り向いて智哉の前に立った。
神楽耶のブルーの瞳は智哉を見つめていた。智哉も神楽耶を見つめ返していた。
「これで……お別れだね」
智哉が囁いた。
神楽耶も小さくコクリとすると、鞄を開け中から桜色のルージュを取り出した。
「桐生君。いろいろとありがとう。何も用意できないけれど、これだけ持っていて欲しいの」
神楽耶は智哉の手を取り、もう片方の手でルージュを乗せて、その手で智哉の指をそっと折り曲げた。初めて神楽耶と会った日に手渡された消しゴムよりずっと重いものを智哉は感じた。
神楽耶は、ルージュを握った智哉の拳を両手で包み込んだまま、そっと目を閉じていた。その顔は、智哉と出会ってからの事を思い返しているようだった。
暫くそうしてから、神楽耶はようやく瞼を開けた。彼女のブルーの瞳は潤んでいた。
そんな神楽耶の瞳に智哉はずっと心に仕舞いこんでいた想いを口にした。
「好きだよ。……神楽耶」
智哉は初めて神楽耶を下の名で呼んだ。
「わたしもよ。一人で生きてきたと思っていた私に一人じゃないって教えて呉れたのは貴方よ。智哉」
そう言うと、神楽耶は少し屈んで、智哉の頬に優しくキスした。
「ありがとう智哉。元気でね」
神楽耶はゆっくりと光の中に体を差し入れ、智哉に向き直った。キラキラと輝く粒子が神楽耶を包み込んでいく。
智哉は神楽耶がキスしてくれた右頬にそっと手をやった。その感触が消えるより先に神楽耶がどんどん透明になっていき、ゆっくりと虚空に消えていった。
拡散した粒子が光の中をくるくると踊っていた。
智哉は神楽耶が消えた「宙」に向かってそっと言った。
「……いってらっしゃい」
智哉は百億と半年振りに、二度目の見送りをした。
――神楽耶が宙へと還ってから三十分経った。
智哉は浄水場からの坂道を下っていた。足下を懐中電灯で照らしながら慎重に歩いていた。辺りはすっかり夜の帳に包まれ、ライトが無いと何処が道なのかもわからない。智哉はたっぷりと時間をかけて、もと来た道を戻る。
学校跡碑の脇を通り過ぎた辺りで、智哉は遠くに二つのライトが闇を照らしているのが見えた。裕也のミニクーパーだ。
迷子にならなくて良かった、と安心した智哉は少しだけ歩く速度を早める。智哉の両目から涙が溢れだした。智哉はなぜ泣き出したのか自分でも分からなかった。
裕也は車のエンジンを掛けたまま、運転席と反対側のドアを開け、脚を外に投げ出した姿勢で助手席に座っていた。
帰ってきた智哉に気づいた裕也は、右膝に貼った熱冷まし用の冷却シートを剥がさないように、捲り上げたズボンの裾をそっと直してから、よっこらせと立ち上がる。
裕也は智哉の顔をみると、ふうっと一息ついてから声を掛けた。
「あの娘に好きって言ってきたか?」
裕也は小さく頷いた智哉の髪をくしゃくしゃにした後、智哉の肩を抱いて助手席へと誘った。
車を発進させた裕也はそれきり智哉に話しかけることはなかった。智哉も裕也に口を開くことはなかった。
ただ、智哉の右手に握り締められた神楽耶のルージュだけが、これで全て終わったのよ、と静かに語り掛けていた。
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