異世界の彼女が僕の心を覗き込む

日比野庵

選鉱場

 赤いニット帽の男が立っていた。分厚い紺のジャンパーが痩せた背中を覆い隠している。男はふらりと揺れたかと思うと膝から崩れおちた。

 その背中の向こうに、構えを取った裕也が居た。十二人いた元・黒服達を悉く気絶させた裕也は、最後の一人が倒れたのを確認すると構えを解いた。

「やれやれ……、なんとか保ったな」

 だが裕也は、これが自分の実力ではないと自覚していた。

(……こいつらが怪我してなけりゃ、やられていたのはこっちだったな)

 裕也は、襲ってくる元黒服達と手合わせして、彼らの動きが本来のものではないと気が付いていた。まるでどこかを庇いながら、戦っているように見えた。一歩の踏み込みが甘く、パンチにもキレがない。元黒服の一人などは、キックをしようとしたのか片足を上げた途端、バランスを崩して止めた程だ。

 裕也は、元黒服達が所々に見せる隙を巧みについて、投げ飛ばし、手刀を見舞った。その度に元黒服達は悶絶し、のたうち回った。

 彼らは、自分達が手負いであっても数を頼みに、裕也一人など始末できると思ったのだろう。しかし、相手が悪かった。その一人は榊流合気柔術道師範代に匹敵する腕前の持ち主だったのだから。

 とはいえ、十二人を一人で相手した裕也も無傷ではない。頬には打撃痕が残り、肘、肩、脚と打撲している。口の中も切った。血の味が口腔に広がり、鉄の混じったような嫌な臭いが鼻孔を通って外に抜けた。

 脚がじんじんと痛む。膝をやったかなと慎重に曲げてみる。痛みは走るが、動けない程ではない。だが、智哉達の後を追うにしても、無理は利きそうにない。

 ゆるりと行くしかないか、そう決めた裕也の背中に苦しげな声が投げかけられた。

「……あんちゃん」

 裕也は新手かと、振り向いて構えなおした。

 小柄な赤髪と大柄な黒髪が互いを支え合うように立っていた。だが、その足取りは重く、ふらふらと覚束ない。ミローナとエトリンだ。ミローナの顔は鼻血と砂にまみれ、服も砂だらけだ。エトリンは鼻血こそしていないが、頬を強かに殴られた後があり、真っ赤になっている。しばらくは痣になるだろう。ミローナと同じく服は砂だらけだ。

「君達は……」

 裕也は構えを解いた。彼女達からは闘う意志を感じられなかったからだ。

「知ってたら、ちぃっと教えてくんねぇか。ここを背の高い女が通らなかったか。神楽耶ってんだが…」
「そうか。君がミローナ君か」

 裕也の赤髪に目を向けてそう言った。ミローナは裕也の問いかけに警戒心を顕わにする。

「なんで、俺のこと知ってんだ」
「その神楽耶君から聞いているからさ」

 裕也の答えにミローナの顔から緊張の色が解ける。

「あの、神楽耶姉さまを知ってらっしゃるのですか」

 エトリンが確かめるような眼差しを向ける。

「弟から相談を持ちかけられた時にね。神楽耶君からは一通りのことしか聞いてないが……」

 裕也が二人の姿を上から下まで見て言った。

「それにしても酷くやられたね。大勢で襲われたのかい?」

 先程まで元黒服の十二人と闘った裕也は、ミローナとエトリンも大人数と闘ったのではないかと当たりをつけた。

「いや、一人だ。……あんちゃん。こいつらはあんちゃんがやったのか」
 ミローナが気を失って、地面に転がっている元黒服達をざっと見てから、裕也に向き直る。

「たまたまさ。こっちだって無傷じゃない。君達と大して変わらんよ」

 裕也は痛んだ右膝に手の平を乗せ、指先でトントンと叩く。

「お兄様は、随分とお強いのですね」

 ミローナが感嘆の声を上げる。

「で、神楽耶は何処だ」

 ミローナがエトリンをちらと見てから本題に戻る。

「神楽耶君の行き先は知っている。良ければ一緒に行こうか。だが一つ条件がある……」

 そういって裕也は少し間を空ける。ミローナは、なにとばかり眉根を寄せた。

「こっちも脚をやられていてね。ゆっくり歩いてくれると有り難い」


◇◇◇


 クーマの銃口があさっての方向を向いた最大のチャンスを神楽耶は見逃さなかった。

 ――ダッ。

 神楽耶の脚が地を蹴り、一瞬でクーマに手の届く間合いに入った。固めた拳をクーマのボディに叩きつける。一撃で仕止める。先手必勝を絵に描いたような攻撃だった。

 だが、クーマが余裕の笑みを浮かべていた。

 神楽耶のパンチがクーマに突き刺さったかと思った瞬間、神楽耶の拳は空を切った。否、突き抜けた。神楽耶の右肘はクーマの腹に届き、そこから真っ直ぐに伸びた先の拳は、クーマの背中の向こうにあった。漫画に出てくるような、拳が躰を突き破って絶命させるシーンではない。血も肉も内蔵も何も出ていない。ただ拳だけがクーマの躰を突き抜けていた。

 ――!

 神楽耶が慌てて拳を引き抜く。バックステップして智哉の脇にまで後退すると、神楽耶は改めてクーマを凝視した。

 クーマの腹に拳大の穴が空いていた。やがてその穴はゆっくりと閉じて、元の躰となった。

「くっ、くっ、くっ。無駄だ」

 クーマはずっと入れていたコートの左ポケットから拳を出した。手の平を開いて。ゴルフボール大の物体を中指と親指で挟んで見せた。スカイブルーの宝珠。よく見ると、真ん中にぐるりと薄い羽のような環がついている。

「これは部分非実体化装置『クレストⅢ』だ。一定以上の衝撃が加わると、痛覚と連動してその部分だけ一時的に次元断層に転送する。まぁ、長時間転送し続けると元に戻れなくなるが、短時間であれば問題ない」

 智哉はいつの間にかクーマを包む白銀の輝きが失せているのに気がついた。しかし、だからといってどうなるとも思えなかった。相手は拳銃を持っているのだ。

「ははははは。これがある限り、君は何万発パンチを撃とうが私に触ることすらできない。私にダメージを与えることなど不可能なのだよ」

 智哉は、クーマが悦に入った表情を浮かべているのを見て取った。ほんの僅かに生まれた空白の時間を智哉は使った。

「逃げるんだ」

 智哉は神楽耶の手をとって、くるりと向きを変え駆け出す。クーマが拳銃を撃つ前に身を隠さなければ……。智哉は背中を撃たれないことを祈った。

「ふはははははっ。一分間だけ逃げる時間を指し上げましょう。鬼ごっこの始まりです」

 智哉と神楽耶の背中にクーマの声が響く。 

 クーマは銃口を空に向けたまま、まるでゲームを楽しむかのように高笑いに笑った。


◇◇◇


 智哉と神楽耶は交差路を右に折れた。二人が走る前方に、茶色の屋根の長細い工場のような建物が現れた。選鉱場だ。

 選鉱場とはその名の通り、採掘した鉱石から不用鉱物を取り除き、鉱石の品位を高める工場のことだ。榧洞の選鉱場は昭和初期に建設された巨大な施設群であった。山肌に貼り付くように建設された選鉱場は、今にも沈まんとする夕日に照らされ、足元の神岡町を見下ろしていた。

 智哉と神楽耶は、選鉱場の建物を前に立ち竦んだ。長年放置された建物は激しく痛んでいる。くすんだ茶色の屋根は所々抜け落ち、爆撃にでもあったかのように崩れていた。

 智哉と神楽耶は中の様子を伺ってから慎重に足を踏み入れた。

 選鉱場の中は外観以上に朽ち果てていた。四階建て以上はある吹き抜けの高い天井には鉄柱の骨組みが剥き出しの姿を晒している。床にはメンテナンスされなくなって久しい工作機械が息を潜め、あちこちに廃材や段ボール、木板などが散らばっていた。壁には、使い古したペンチやドライバーが掛かったままだ。粗末な木の棚やテーブルには、選鉱途中の鉱物が裸の姿のまま転がっている。

 坑道まで続いているであろう鉄の軌道が建物の奥へと伸びている。赤錆びて横倒しになったトロッコが茶色く変色した線路を恨めし気に見つめていた。

(ここなら隠れるところが沢山ある。そう簡単には撃たれない筈だ……)

 智哉は息を整えながら、そう見積もった。智哉は横の神楽耶に声を掛けようと顔を向けたが、神楽耶の表情は沈み切っていた。

「あんなのどうやって倒せばいいの。パンチもキックも……ううん、ライフルだって無理よ」

 神楽耶は眉根を顰めた。絶望が彼女を覆う。

「もうこれまでね。私達に勝ち目はないわ……」

 神楽耶はふぅと小さく息をつき、骨組みが縦横に走る天井を見上げた。

「もう還れないのかな――」

 神楽耶は弱音を吐いた。智哉が初めて見る神楽耶だった。

「諦めちゃ駄目だ! 立花さん、諦めるのは早いよ。君は生きている。生きて動ける限りやれることは絶対にあるよ。まだ時間はある。簡単に諦めるなんて、君はそんな人じゃない筈だ」

 神楽耶はびっくりした顔で智哉を見た。智哉もなぜそんなことを言ったのだろうと自分でも不思議だった。

 だが、状況は決していいとはいえない。それも事実だった。

 ――無敵。

 そんな言葉が智哉の脳裏を駆け巡った。クーマは攻撃を受けても痛覚に連動してその部分だけを異次元に転送する。物理攻撃は絶対不可能。ほとんどチートとしか思えない能力だ。

 物理攻撃以外の手段を持たない智哉と神楽耶にとって、今のクーマは文字通り無敵だった。

(考えろ……考えろ……考えろ! 何か手がある筈だ。相手だって人間だ。きっと何処かに弱点がある)

 智哉は頭をフル回転させた。クーマの表情、動作、台詞、全てを思い起こした。

(クーマが白銀のオーラに包まれているときは、如何なる攻撃も無効だ。だけど、あればクーマの能力ではなくて、クレストの力だ。クーマはクレストを部分非実体化装置だと言っていた。なら、全身の非実体化までは出来ないかもしれない……。そもそも、あのクレストは一体どうやって起動しているのだろう。遠目で見えなかっただけかもしれないけど、スイッチらしきものは見当たらなかった。スイッチがないとすると、なにがトリガーになっているんだろうか。クーマがあのクレストを摘んでみせたときは、彼の躰は光っていなかった……)

 智哉は選鉱場をぐるりと見渡す。ふと、三階に小部屋があるのが目に入った。分厚い鉄の扉が少し開いている。あの扉ならクーマの弾丸も防いでくれそうにみえた。しかし部屋にいくには、木の階段を登り、空中に渡された通路を通らなければならない。階段と通路はいまにも崩れ落ちそうだ。

 智哉は通路の真下にいって状態を確認する。通路の下には解体作業の途中だったのか、鉄板が立て掛けられていた。通路の手摺り部分から伸びたワイヤーが、鉄板の上部を固定している。ワイヤーはペンチか何かで十分切れそうに見えた。次いで智哉は通路全体を下から覗く。

「――!」

 智哉は小さく首を縦に振ると、急いで神楽耶のところに戻り、彼女の耳元で何かを囁いた。
 

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