異世界の彼女が僕の心を覗き込む

日比野庵

合気道

 ――その日は久方振りに智哉の家族全員揃っての夕食だった。

「やっぱ。お袋の料理が一番だな。」

 裕也が秋刀魚をガツガツ食べている。背から尾に掛けてこれでもかと塩を掛けて、じっくり焼いた秋刀魚だ。不味い訳がない。裕也は、身を剥がすということもせず、箸をつけるや腸も身もお構いなしに口に運ぶ。はっきり言って汚い食べ方だ。

 裕也が帰国したのは七月下旬だったのだが、カミオカンデのある神岡町での研究の準備その他で、夏休みはキャンセルせざるを得なかった。九月になって漸く一息つけた裕也は、一週間の遅い夏休みを取って、実家に戻ってきたのだ。

「兄さん、何時になったら、普通に魚を食べられるようになるのさ」

 智哉が注意する。

「アメリカじゃあ、魚なんて中々食べられないんだ」

 裕也が平然と返す。

「今は日本だろ」

 智哉はツッコミを入れる。

「飛弾の山奥で旨い魚が喰えるかよ」

 酷いことをいう。
 神岡町から少し北上すれば、海産物で有名な富山県だ。旨い魚など幾らでも食べられる筈なのだが、智哉はそこまで指摘するのは止めておいた。

 久々の一家団欒に話が弾む。

 裕也がアメリカの土産話をする。
 ある日、研究所の同僚とハンバーガーショップを梯子して、籤に負けた奴が全部食べるゲームをやった。車のタイヤのホイールに粘土を貼って、四等分して名前を書き、簡易ルーレットを作る。ハンバーガーショップの駐車場に止まったとき、地面に着いている側の名前がアタリになる。そのショップで四人分のハンバーガーを買ってアタリを引いた奴が全部食べるというゲームだ。アタリ確率二十五パーセント。

 アメリカには四十五ものハンバーガーショップがあり、梯子には困らない。裕也は六軒目でアタリを引いた。その後、ほぼ確率通りにアタリを引いて、二十軒目に引いた五回目のアタリでギブアップした。ところが同僚達は平然とゲームを続け、ボブというビア樽のような大男は四十軒目まで食べたらしい。

「彼奴等の胃袋はおかしい」
 裕也はそうディスってみせた。

「おかしいのは兄さんの魚の食べ方だよ」

 智哉が混ぜっ返す。

「何だって。兄貴に生意気をいう口はこの口か」

 裕也は智哉の怪我をしてないほうの頬を摘んで引っ張った。

「ふぁって、ふぉんおしゃんか」

 智哉は反論しながら、兄に勝てるのは、魚の食べ方くらいだなと思った。
 智哉は抜糸したばかりなのだから、そのへんにしときなさいと、苦笑しながら裕也を窘めた母に智哉がお願いをした。

「ねぇ。母さん。榊先生の道場まだやってるよね」
「ええ、たしかそうだったと思うけど。何、急に」

 母の答えに裕也が、割って入った。

「あの師匠はそう簡単にくたばらんよ」
「また通ってみたいんだけど」

 智哉の頭には、ミローナの一件があった。また何時あんな目にあうかもしれない不安があったし、神楽耶とも喧嘩してしまった。もうあの時みたいに護ってはくれないだろう。自分の身は自分で護るしかない。智哉には必然の選択だった。
 母は智哉が自分からやりたいと意思表示したことに少し驚いたが、直ぐに承諾した。

「智哉が行きたいならいいわよ。……あぁそうだ丁度いいわ。裕也、貴方明日榊先生に挨拶に行くんだったわね。智哉を連れてってあげて」
「ん。あぁ、構わんよ」

 裕也は軽くオーケーした。

「ありがとう兄さん」
「で、報酬は?」
「え?」
「契約には報酬がつきもんだ。まさかタダで頼みごとしようってんじゃないだろうな」
「え、え、え、そんなものないよ」

 智哉は狼狽えた。まさか兄から報酬を要求されるとは思ってもみなかったのだ。貯金箱にいくらあったっけ、と頭の中で貯金箱を割る光景を思い浮かべながら、慌てて答える。

 裕也はニィッと悪戯っぽくと嗤うと、人差し指でテーブルをトントンと四度程叩いた後で智哉に告げた。

「いや、そこにある」

 裕也の意図に気づいた母はにこにこと二人を見ている。父はやれやれといった表情でほうじ茶を啜る。

「なに?」

 裕也は、智哉の顔をまじまじと覗き込んだあと、真面目な顔つきで、しかし茶目っ気たっぷりに要求した。

「お前の刺身、俺によこせ」


◇◇◇

 智哉の自宅から歩いて二十分程の町外れにある古い道場。木造平屋建ての少々年期の入った建物の中に敷かれた畳の上に、白い稽古着に黒袴の十代の少年少女が二、三十人程きちんと正座をしている。

 一人の老人と五人の若者が道場で演武をしていた。

 老人の齢は既に七十を超え、体格は小さく、体重があるとも思えない。風貌は穏やかで自然体。ぱっと見は唯の好々爺にしかみえない。その老人は構えすら取らず、ただ静かに立っていた。

 対する五人の若者は、その老人を取り囲む形で構えを取っている。若者達の引き締まった筋肉質の躰と、精悍な顔つきから、良く鍛えられていることが分かる。

 と、若者の二人が同時に老人に襲い掛かった。老人の手首を其々取りにいくが、老人は手首を取られたまま、くるりと反転したかと思うとそのまま体を返して、右側の若者の後ろに回り込む。取られた筈の左の手首は、いつの間にか外され、老人の右手首を一人が握り、その若者の腕をもう一人の若者が握っていた。

 老人が掴まれた右手を軽く上げる。すると、二人の若者は揃って伸びあがり、まるで物干し竿に吊るされたシャツのように並んだ。

 次の瞬間、老人が右手を軽く振り下ろすと、二人の若者は投げられコロコロと畳を転がった。

 続いて残った三人の若者が一斉に攻めにでる。老人はスッと四つん這いになって三人の突進を躱して直ぐに起き上がる。いち早く体勢を立て直した一人の若者が勢いをつけて横から掴みに掛かるが、老人は半身になってそれをよけると、若者の腕を右手で取り、障子を引くように横に滑らせる。若者は自らの勢いそのままにふっとんでいった。残りの二人が老人の後ろから、羽交い絞めにしようと飛びかかったが、老人は、一本背負いの要領で体を沈めると同時に掴みかかろうとした若者の腕を取って投げ飛ばした。

 先手を打った攻撃をあっさりと返された若者達は、体勢を立て直すと、五人全員で次々と老人に襲い掛かった。しかし、老人はくるくると体を回転させて、五人の攻撃を躱しながら、肩や背中、時にはお尻まで使った当て身を見舞った。手刀や掌底で頬や顎を打ち、中指一本だけ立てた拳を壇中や水月に突き立てる。その度に若者は転がり、倒れ、呻き声をあげた。

 それでも若者たちは健気に何度も、老人に立ち向かっていった。だが、老人に触れた途端に投げ飛ばされる。傍からはまるでダンスを踊っているかのように見えた。

 いつしか、若者達は肩で息をしていた。対する老人は息一つ切らさず平然としている。実力差は明らかだった。

 やがて十五分の演武が終わった。若者は揃って整列し、老人に深々と礼をした。
 若者五人を手玉に取ったこの老人の名は榊剛雷、号は天城。この合気道道場の主であった。

 道場の隅で正座して見学していた智哉の横に、道場着姿の裕也がやってきて、ゼイゼイいって座りこむ。

「……やっぱ、バケモンだ。……師匠は」

 裕也は先程の演武で榊に立ち向かった若者五人の一人だった。

「なんか、言うたかの」

 榊がのそりとやってきて、裕也に言った。

「い~え。何にもありません」

 息を切らしたまま、裕也が答える。

「お主、鍛錬は続けておるようじゃの。久々の手合わせじゃったが、まずまずと言ったところかの」

 榊は裕也を褒めた。

「今日は懐かしい顔も一緒じゃの」

 榊は智哉を見ていった。智哉は榊に会釈をした。

「師匠。こいつがまた師匠に教わりたいと言い出しましてね。連れて来たんです」
「ほっほっほっ。どういう風の吹き回しかの」

 榊はそう言って、全てを見通すかのような双眸を智哉に向けた。

「……まぁ、よかろ。名前は何だったかの」

 榊はしばらく智哉を見つめた後、尋ねた。

「智哉です」

 智哉は榊の眼差しを受け止めて、しっかりと返事をした。榊は頷くと、くるりと背を向けて道場の奥へと消えた。

 裕也は智哉をみて、肩を竦めた。

「道着を揃えなきゃな、智哉」

 裕也の顔には再入門のお許しが出たぞと書いてあった。
 

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