異世界の彼女が僕の心を覗き込む

日比野庵

告白

 結局智哉は、怪我をした翌日に傷口を縫合することになった。縫合は問題なく翌週の月曜日には退院できた。智哉は次の火曜日から登校した。

 智哉の右頬には傷を覆うようにテーピングと絆創膏が貼られ、まだ暫くは化膿を防ぐための抗生物質を服用しなければならなかった。しかし体は至って元気だったので、智哉にとっては、頬の傷が時折疼く以外はいつも通りだった。

 ところが、朝の教室のドアを開けた智哉を迎えたのは、クラスメートによる好奇と羨望とほんの少しの疑いが入り交じった歓声だった。

「来たぞ」
「英雄の御帰還だ」
「ちょっと格好いいよね」
「立花を助けたんだって」
「マジか、正直に白状しろ」

 クラスメートが智哉の前にわいのわいの集まって、英雄譚を聞かせろとせがむ。実際のところ智哉は、神楽耶とミローナの闘いを見ていただけで、殆ど何もしていない。やったことはといえば、最後の最後に神楽耶を庇おうと飛び出しただけで、しかも返り討ちに終わった。英雄には程遠い。

 だが、男子生徒の話によると、一体何処で尾ひれや背びれがついたのやら、智哉が大立ち回りをして、神楽耶を襲った暴漢を撃退したことになっていた。中には、智哉が柔道で暴漢を投げ飛ばしただの、拳法で相手の腕の骨を折ってやっただの、まるで智哉が格闘家か何かにでもなったかのような話まであった。女子生徒の中には「今度夜道を歩くときは、桐生君に守って貰うんだ」などと言い出す子もいた。

 ついこの間まで「姫様に狼藉を働いた不届き者」だった筈なのに、一躍「姫様を救った勇者」へと恐ろしくレベルアップしていた。今ならドラゴンだって軽く倒せそうだ。智哉はすっかり閉口してしまった。

 智哉は思わず溜息をつきそうになったが、ぐっと飲み込んだ。長々と説明するのも面倒だったし、傷口がまた開かないかと気になったからだ。

 ――始業開始五分前のチャイムが鳴る。

 智哉の周りに集まっていたクラスメート達は「昼休みに詳しく聞かせろよ」と言葉を残して各々の席につく。

 周りから人が居なくなり、ようやく席に着くことのできた智哉を見計らって、後ろの俊之が突っついてきた。

「よう、同志。やったな」
「……今度は何の同志だよ」

 智哉は右頬をなるべく動かさないように右の奥歯を噛み合わせたまま、唇の左半分を使うようにして、ぎこちなく返した。

「女を守って、顔に傷を負った『名誉の負傷同盟』だ。お前は神楽耶ちゃん、俺は妹を守って怪我した同志だ。メンバーは俺とお前の二人な」
「何勝手に同盟つくってんだよ。そんな約束した覚えないよ」
「釣れないこと言うなよ。俺とお前の仲じゃんか。これで神楽耶ちゃんの彼氏候補ナンバーワンに躍り出たんだぜ。喜べよ」

 俊之は勝手に決めつけた。だが、智哉は正直満更でもない気持ちだった。あの時、何もできなかったとはいえ、結果として神楽耶を助けたのは事実だ。これまで人の為に何かやることなんて考えたこともなかった智哉は、自分で自分を誉めてやりたかった。

 さり気ない感じで智哉は教室の反対側の神楽耶を見る。神楽耶も智哉を見ていた。智哉には神楽耶の顔が「守ってくれてありがとう」と言っているように見えた。


◇◇◇


 ――小桜総合病院、外科、第一診察室。

 智哉が怪我してから一週間経った土曜日の今日、智哉は抜糸の為此処に来ていた。滞りなく抜糸を終えた智哉は担当医の説明を受けていた。

「傷は問題なく、くっついてますね。あとは暫くテープで保護しておけば、大丈夫でしょう」
「傷跡は残りますか?」

 智哉が確認する。

「ん~。厳密には残ります。が、傷跡が少し白っぽくなるくらいで、良く見ないと分からない程度にはなると思いますよ」
「そうですか。ありがとうございました」
「今度はひと月後に来てください」

 智哉は担当医に挨拶して、診察室を出た。通路の長椅子には神楽耶が座っていた。今日智哉が抜糸すると聞いた神楽耶が付き添いしたいと言ったのだ。

 神楽耶は智哉が出てきたのを見るとスッと立ち上がった。智哉に近づいて右頬の傷跡を覗き込むようにじっと見る。無論、傷はテーピングで隠されていて見える筈もなかった。

「傷跡は綺麗になりそうなの?」
「うん。殆ど目立たなくなるって」

 そう言ってから智哉は、神楽耶の右目の下に古傷があったことを思い出して、しまったと思った。しかし、神楽耶はそんな智哉の思いには気づいていないようだった。

「そう、良かったわ」

 神楽耶の言葉と裏腹に、そのブルーの瞳には、取り返しのつかないことをしてしまった自分を責めるかのように悔恨の色が浮かんでいた。

 会計を済ませた智哉は、玄関先で待っていた神楽耶と一緒に帰路につく。最寄りの「月見野駅」まで歩いて十五分程の距離だ。天気も良かったし、神楽耶に断って歩いて駅まで行くことにした。

 今日の神楽耶は白の丸襟ブラウスにオレンジレッドのジャケット、東雲色のミニスカートから長い綺麗な素足が伸びている。頭のグリーンのベレー帽がアクセントになっていた。

 智哉が神楽耶と並んで歩くのは久しぶりだった。前回一緒に歩いたのは、あのミローナと闘った日だ。それは智哉が怪我をすることになった日でもある。それは否応無く智哉にあの事件を思い出させた。

 智哉は神楽耶を襲い、自分も怪我を負わされた相手の事が気になっていた。本来であれば、とっくに神楽耶に訊いていてもおかしくなかったのだが、病院に担ぎ込まれた日に遠慮して聞きそびれて以来、切っ掛けを中々掴めなかったのだ。それだけに、智哉は神楽耶と二人きりの今の機会にミローナ達の事を訊けないかと思った。しかし智哉はどう切り出したらいいものか分からず、暫く、神楽耶と取り留めのないお喋りをしながら、思いを巡らせていた。

 神楽耶は、智哉が時折見せる深刻な表情を見つけては、その度に済まなそうな顔をした。
 それでも智哉は、眦を決し、神楽耶に向かって口を開いた。

「……あの、立花さん、こんな事聞くのは心苦しいんだけど、あの日、襲ってきた赤髪の子、敵だって言ってたよね、どういうこと?」

 神楽耶の表情がみるみる強張っていく。智哉は構わず続けた。

「あの子達が、立花さんの敵だとしたら、また襲ってくるんじゃないのかな。もう警察に相談しているかもしれないけど、保護してもらうなり何か考えておかないと危ないんじゃ……」

 智哉の言葉は当然の疑問であり、妥当な提案であった。智哉はお節介を焼いていると思いつつもそう言うしかなかった。この件については、智哉も巻き込まれた当事者だ。それだけに全くの無関係ではないという気持ちが言葉の端々に滲んでいた。

 神楽耶は硬い表情のまま、智哉を見ていたが、ふと思い出したように話を逸らした。

「あ、飲み物でも買ってくるわ」

 そういうと神楽耶は、左手にあったコンビニにパタパタと入って行った。

 智哉は「やっぱり駄目だったかな」と少し顔を顰めると、右手を手櫛のようにして前髪を掻き揚げた。不思議と溜息は出なかった。


◇◇◇

 「いらっしゃいませ~」

 赤と紺のタイル柄制服を着たバイト店員が、店内に入ってきた長身の少女に声を掛ける。神楽耶だ。

 コンビニに飛び込んだ神楽耶はドキドキしていた。智哉にいきなり核心の質問をぶつけられたからだ。ミローナとの関係を話せば必然的に自分の正体を知られることになる。いっそのこと自分の正体と目的を素直に話して協力をお願いしたほうがよいかもしれないとの思いが頭を掠めた。

 しかし、いきなりそんな告白をして、智哉は受け入れてくれるだろうか。自分が対宇宙の住人で『宙の王そらのおう』を回収しにやってきたエージェントなのだ、などと。

 荒唐無稽にも程がある。中二病の妄想のほうがまだ可愛げがあると神楽耶は思った。神楽耶はドリンクが並んだ冷蔵ケースの前で、扉も開けぬままずっと考え込んでしまっていた。

「すみません。ちょっと退いて貰えます?」

 後ろから声を掛けられて、神楽耶は我に返った。すみませんと謝って斜め右後ろに一歩引く。声を掛けた客は不審そうな一瞥を神楽耶に投げつけると、スポーツドリンクを二本取り出して、さっさとレジにいく。それを目で追った神楽耶は、レジの横にドリップ珈琲のマシンがあることに気づいた。

 神楽耶は缶コーヒーを止めて、レジでドリップ珈琲を二つ注文する。店員から焦げ茶地に「FAST RELAX CAFE」とオレンジ色のロゴが入った専用の紙コップとエクストラブレンドのカートリッジ受け取った。神楽耶はカートリッジマシンにセットすると、抽出口に紙コップを置いて、抽出ボタンを押す。ガリガリとマシンが豆を曳く音を聞きながら、神楽耶は、全てを智哉に話した時のリスクを考えていた。もしも、自分の説明が馬鹿馬鹿しいと智哉に相手にされなかったら、全ては御破算になってしまう。どう説明したら分かって貰えるのだろう。

 だが、逆に受け入れて貰うことができたなら、後はぐっとやり易くなる。勿論、智哉の心の中に隠れている『宙の王』をエミットできなかったという問題は残されているが、それも智哉の協力を得られるのなら、解決策が見つかるかもしれない。一種の賭けだ。

 神楽耶はマシンが抽出した黒色の液体がカップを満たしていくのを眺めながら、やっぱり全てを話すしかないと覚悟を決めた。

 ――ごめんなさい。待たせてしまったかしら。

 ドリップ珈琲を両手に持ってコンビニを出た神楽耶は、智哉にそう声を掛ける筈だった。しかし、その声を受け取る相手の姿は何処にもなかった。 
 

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