知性の発揮について

日比野庵

虚飾の知に溺れたときの危険性

 知が単なる手段となってしまったとき、虚飾の知に溺れてしまったときの危険性について考えてみると、人に強いと思われたいと思って始める武道と同じように、「みせかけの型」に拘るようになるのではないかと思う。そんな人の取る態度として次の3つの特徴が出てくるのではないだろうか。

 まず、本を読む態度として、本を読むのではなく、本に読まれてしまう。読んだ本の内容をそのまま鵜呑みにして、分かったことにしてしまう読み方。知識があるという「結果」だけ欲しいから、全部分かったことにしておけば、手っ取り早く知識を得られたことになる。

 次に、人と話すときの態度として、本当はわからなくても、とにかく、話の辻褄さえ合えばよいと考えて、その場で適当に答えてしまうこと。その結果、後日別の話題を話したりなんかしたとき、以前自分が話した内容と矛盾がおこる可能性が出てくる。

 最後に、自分で文章を書くときの態度として、難しい単語を使ったり、平易な単語でも難しく書いたりして、読む人の理解を拒絶する書き方をすること。

 人に話すのと違って、文章だと何回も読み直しされたりするので、論理的な筋が通った文章でないと恥ずかしい。だけど、本当は知っていないことは、自分でも良く分かっているから、バレるのが怖い。でも自分の文章を読んだ人には自分が知的であると思って欲しい。だから、読者にそれがバレないように、理解できないけれど、なんか凄そうなことが書いてあると思わせるように書こうとする。

 その結果、文章は非常に荒れたものになる。他人に理解されないように、自分でノイズが多い文章を書いてしまうものだから、単語の選択や文脈の流れを自分で悪くしてしまって、最終的には、自分の論理的思考能力をも自分で破壊してゆく。自分の知性の向上を自分で邪魔してる。実にもったい無い。 

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