いつかその手を離すとしても

ノベルバユーザー172401

8 過去と自惚れ


自惚れていたのかも、しれない。いや、確かに自惚れていたのだ。

その日は休日だったので遠くの、懇意にしている古本屋へ行った帰りにたまには普段と違う道を歩いていこうと通りかかった夕方。
寂れたバッティングセンターの駐車場で抱き合う男女を見るとはなしにみて、そして俺は足を止めた。
見知った顔だと思ったのは、千崎の顔が見えたから。そして、抱きしめられている女の顔を見て後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。
この衝撃は二度目だ、と思いながら俺はしらず詰めていた息を再開する。

「ささ、はら…」

笹原郁、腐れ縁で一番近い気兼ねなく気を許せる、ヒト。
掠れたような声にあざ笑う。自分に対する嘲りは、俺以外に誰も知らず、そしてそのまま踵を返した。泣きそうな顔の笹原の顔が焼き付いた。――ついこの間も、あの男と会った後にあんな顔をしていた。どんな表情であれ、それがひどく、憎たらしいのだ。


もう思い出すことも少なくなった過去の記憶に、引き攣るような痛みを覚えなくなったのはいつだっただろうか。
好きだった、出会いは運命だと本気で信じてしまうくらいには幼く、年齢の差のもどかしさに駄々をこね、隣に立つためになら俺の世界を手放してもいいと没頭した恋愛の末路。
自分ばかりが熱を上げて、彼の人は一番愛する人間と、手の届かない人になってしまったと聞いた時の絶望。
あの時、確かに俺の世界は色をなくし、失った痛みと、自分の思いの欠片も彼女が俺に対して持ち合わせていなかったことへの怒りをどこにぶつければいいのかと。詰った言葉は返ってこず、ただ空しく時間は過ぎていった。
――のめりこんだ分だけ、気力がなくなり、あのころの自分は自暴自棄になって生きていた。

「神崎!ちょっとは食べなさい」
「寒いでしょ、窓占めてあったかい格好して!雪降ってるんだからね」
「花が咲いてるよ。春になったよ、神崎」
「暑いねえ…やになる。かき氷食べに行こう」
「紅葉がきれいだから拾ってきた」

他愛ない会話は、食事を生活を強制する言葉は、確かに最初は煩わしくて。いらないと掴まれた腕を何度も離そうとしたのだ。けれど、できなかった。
彼女の俺を見る目がどこまでも俺を案じていて、その気持ちが温かく、嬉しかった。
傷がひきつる痛みは徐々に消えていき、彼女とすごした日々より長い時間を笹原と過ごしているうちに、きっと間違えていたのだ。
――笹原がずっと自分の傍にいてくれるのではないかという、錯覚。
どこまでもひたむきに支えてくれたのは、友人だからだという意識を持っていたはずだったのに、俺はいつの間にかそれ以上を望むようになっていたのかもしれない。
彼女には、彼女の人生があるというのに。思考の渦に断片的に浮かぶ情景には、と声が零れる。

いつの日にかに見た景色。
付き合っていると思っていた恋人――彼女にとっては都合のいい遊び相手でしかなかった――との短い逢瀬の合間に。
俺は坂上桜――もうおぼろげになった顔の死んでしまった女の人――と町を歩いていた。少しだけね、とくすりと笑った彼女は俺と拳一つ分の距離を開けていた。今ならばわかる。決して昼間の町の中を歩こうとしなかったこと、一目のある場所では距離を置いていたこと、会うのはホテルか彼女が借りているという全く生活感のないマンションの中でしかなかったこと。全てが、都合よく寂しさを埋めるための存在だったのだという事。
その人と滅多にできない昼間の逢瀬に浮かれていた俺への衝撃は、笹原と千崎の姿だった。全く何も知らなかったのだという気持ちと、どこかで裏切られたような。
もちろん、笹原と俺には何もないのだからそんなことを感じることは間違っているというのに。

――なにかあったの?
ふふ、と笑うように言った彼の人の声は、どこか面白がるような色を含んでいたように感じたことを、思い出す。
あの時俺はなんと返したのだっただろうか。

一心不乱に足を動かして自分の家まで帰った時、俺の手は冷え切っていた。
かじかむ指で暖房器具のスイッチをいれてコートをばさりとソファの上へと放り投げる。この姿を見たらきっと、笹原は眉をしかめてハンガーにかけるように言うだろう。もしくは、かけてくれるのかもしれない。それを想像するのが容易いほどには、付き合いは長く、気心も知れている。
だが、それでも、ずっと一緒というのは在り得ないのだと、背けていた答えに愕然としたのだ。
乱雑に置いたスマフォが振動を伝えてもそれを取ることすら億劫だった。
封じ込めてしまいたかった。自覚しそうな自分の感情を封じ込めて、そして距離感を思い出せばいい。
いつか手は離れていくのだと、手を離さないでくれという権利は、俺にはないのだ。



「辛気臭いですね」
「…そうですか」
「ええ。湿気っちゃいそう」

失敗した、と思った。否が応でも朝が来るということは過去に学び、それでも仕事を放棄することはなくいつもと同じような出勤をして、昼休みに気晴らしにと体育館裏で煙草をくわえていれば、同じように煙草を手にしてきた白衣の女性。
笹原と仲がいい彼女に眉間に皺が寄る。――そもそも、好かれていないと感じる相手に愛想良くする義理を持ち合わせてはいないのだ。
向こうもこちらに対する感情をそぎ落とした顔で煙草に火をつけた。ふう、と吐き出した煙が二人分、溶けて消えていく。
体育館裏は隠れ場所だ。神崎と、笹原以外に使っている人は知らなかったが、彼女も使っているのなら今後は控えた方がいいかもしれないと思うほどには、自分もこの人に良い感情を持ち合わせてはいないのだ。

「中途半端って、辛いわよ」
「……?」
「耐えるだけ、見てるだけ、ずっと。時間の流れが止まっているみたいにひたすら、見守る時間は長い」

吐き出された言葉は。何を。
視線は前を向いたまま、ただ距離を置いて立っている。気を付けなければ出してしまいそうな声を煙草を口にくわえることでこらえる。
今の俺の仕事は、彼女の言葉を耳に入れることなのだろう。

「郁の顔、みたことある?」
「――それが?」
「どんな時に笑って、悲しんで、泣いて。何が好きで嫌いで、そういうの知ってます?」

愚問だ、と突っぱねてしまうには、心もとない。
知っているつもりになっていて実は知らなかったということが多いのだと気付く。笑った顔を見ているつもりだった。けれど、あんな風に切ない顔を泣きそうな顔を、俺の前で見たことはなかった。いつも見ていたのは、俺を案じる顔か笑う顔のみだったから。

「笹原郁は、弱いですよ。それは知ってるでしょう」
「ああ、そうだな」
「強がって傷を見なかったふりして、治した気になってる。あれじゃいつか、大きな傷ができてもわからなくなってしまう。それが怖い」

煙草が一本、終わった。
白衣のポケットから出した携帯灰皿に吸殻を押し込んで、隣の人は息を吐いた。
それは、ため息のような、堪えているものを吐き出しているようにも聞こえ、指に挟んだままだった煙草を口にくわえた。久しぶりに吸った煙草は、どこか苦く喉にまとわりついたような気がする。

「だから、しっかりして」
「…お前な、俺は」
「アンタの意見なんて聞いてないわ。でも、一番近いのは貴方でしょう。失くしたものばっかり見てるから失くしそうになるものも、今あるモノにも気付けないのよ。
失くしてからじゃ、遅いの。終わってからじゃ、言葉も行動も、全部全部遅いの。後付けでしかないのよ!それくらい、わかってるんでしょう。――しっかり、しなさいよね」

握りしめた拳が俺の二の腕を殴打して、そしてそのまま彼女は踵を返して去っていく。
打たれた腕は力いっぱいやられたからか、鈍く痛む。
そんなもの、と呟いた声は煙草の灰の様にもろく空気に溶けていく。

そんなもの、わかっている。わかっているんだ。
しゃがみこみたいのをこらえて、吸い込んだ煙をそっと吐き出す。胸の中に淀んだ重い塊は、煙と共に出ていくことはない。
――今更、どうしろというのだろうか。あれだけ彼女の日々を独占して、これ以上俺のために時間を使えなどと言えるわけが、ないのだ。
この言葉を告げた後で、手が届かなくなる日が来ることが怖い。それならば、この気持ちにふたをして、そして友人としての一番を独占していたいのだ。
手を離してほしくないという我儘。

――そして俺はあがらいきれない想いを自覚する。
傍にいてほしいと、すがってしまえばきっと、彼女は傍にいてくれるだろう。
全てをほしいと望むには、遅かったのだ。――俺には、笹原を好きになる資格なんて、持ち合わせていない。





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