いつかその手を離すとしても

ノベルバユーザー172401

9 おもいはせる

姉は、友達の多い人だった。常に人が周りにいる、華やかな人。
けれど、内心はきっと誰にも悟らせることのない人だったのだと、今になって思う。


「笹原先生、少しいいですか」
「ええ、何でしょうか」

落ち着いた声音が好ましいな、と思ったのは彼女が新卒の教師として配属された時の自己紹介の時だった。凛と前を向くその姿は、一番最初に身近にいた女とは違う、強さを持っていた。
そして、その隣に立っていたのは、忘れもしない男の顔。姉が死の間際に遊んでいた高校生、社会人になったのだという感想と共に気まずさが支配したことを覚えている。
彼――神崎先生は、こちらを見てわずかに会釈した。覚えていたのか、という思いと、まだ囚われているのだろうかという悲しみと。
それでもその心配は杞憂だったとわかる。彼の傷は癒えているように見えた。そして、それは彼女がいたからだろうとも。

――姉はいつまでも夢見がちな人だった。
いつも人に囲まれて、ほしいものは何でも手に入れて、なのに他の物まで欲しがる人だった。病院経営の家庭に生まれたから他のどこよりも恵まれていたし、暮らしに不自由もしなかった。それなのに、欲しがった。愛情も理解も、求められることを何より望んで、そうされないことを何より恐れていた。
けれど僕は、姉の純粋さが怖かったのだ。屈託のない顔で自分の意見を押し通し、自分の物差しで物事を見ることしか出来ない人。子供のようで、そして優先順位はいつも自分だった、小さな女王様。そんな印象を持つ弟と、姉が、仲がいいわけがなかった。
物心つく頃には姉と僕の間には溝があり、挨拶はかろうじてするが二人きりでの会話はないという関係になった。忙しい両親は、そのことに気が付かない。
姉には婚約者がいた。そして、姉はその婚約者にちゃんと恋をしていた。

「お嫁さんになれるなんて、夢みたい」
「20歳になったら式を挙げるの」
「明日はデートに行くのよ」

うきうきとした表情で夢見るように舞い上がった姉を、どこか冷めた目で見ていたのだ。
義兄になる人は、同じく大病院の跡取り息子で、どこか人を見下げているような印象の優男だった。
見る目がないな、ということを言わなかった自分をほめてほしい。
姉の婚約者は遊びが好きな人だというのを、姉は知っていたらしかった。
――私が20歳になるまでは、遊ぶのですって。だから私も20歳までは好きにしなさいって。だからそうするの。20歳になれば愛してもらえるんだから、そうよね。20歳をこえたら愛してもらえるのよ、私。だから、あと4年なんてすぐ。
一度、ひどく暗い目をして僕の部屋にやってきた姉は、そういうようなことを吐き出すように話して、そのまま出ていったことがあった。

ああ、なんて残酷な、とその日初めて僕は姉に同情した。可哀想な人になってしまった、と漠然と思ってしまったことに罪悪感を覚えながら。

「坂上先生?」
「…ああ、ごめん。少しぼうっとしていて。これなんですが、」

物思いに沈んでいた意識を戻したのは、笹原先生だった。
彼女が神崎先生に想いを寄せていることはなんとなく、視線で知っている。彼女は何よりも彼を案じていたし、その視線が甘くゆるむ時も、たいていはそこに彼がいる。
――彼女は、知っているだろうか。神崎先生の過去を、僕の姉がかかわった出来事を。
そんな疑問は表に出さず、ただ業務連絡を伝える。空き授業がかぶって、二人きりの今日化準備室で仕事をしながら雑談を交わす、ありきたりな時間。同じ強化担当だからか割と話す方だとは、思う。
だからなのか、彼女がいつもと違うことに気付いた。

「なにか、ありましたか」
「え……」
「いえ、ただいつもと違うような気がしたので。不躾でしたね、すみません」
「坂上先生は、よく見てらっしゃいますね。生徒のことも他の教師のことも。わからないことはないんじゃないかってくらい」
「…そんなことはありませんよ、気が付けたことしか判りませんから」

自嘲めいた口調には、なっていないだろうか。
――気付けたことしか判らない。気付こうとしても、気付かないことだって多い。姉に関して言えば、気付こうともしなかったといってもいい。
姉が死んだとき、復讐をしたのだろうかと思ったのだ。彼女が愛されたい欲求を満たすことのない相手を道連れにしたのかと。不謹慎にも思った。
まだまだだったろうに、と嘆く人々の多さに、一人葬式で姉の意図を考えた。考えたとしても真相はわからないけれど、事故ではないような気がしたのだ。彼女が何か細工をしたのではないかと思うほどに、事故当時は晴れ渡っていた正午だったし対向車も来ていなかったと聞いた。
風が強く吹いたのだ、とか。男の方も疲れていたようだったのだ、という解釈がされていたけれど、僕には姉が横からハンドルを奪ったように思えてならなかった。あの時、姉は大学四年生で20歳を超えていたのだ。

――うそつきね、うそばっかり。あいしてなんてくれなかったのよ

ドライブに行くと言って出かける前夜、姉は虚ろな目でそうつぶやいた。
ただ、やっと気づいたのかという思いと、可哀想にという同情を抱いたことを覚えていた。ただ、あんなことになると思っていなかったのだ。
もしかしたら、姉と婚約者を救える唯一が僕だったかもしれないのに。

「どうして上手くいかないのかな」
「……?」
「…神崎先生の過去を知っていますか?」

その言葉を聞いて、彼女ははっきりと固まった。息をのんで、僕を見る視線が険しくなる。
苦笑して、続けた。

「坂上桜、それが僕の姉の名前です」
「…なん、それ…」
「神崎先生は、覚えているとは思います。面と向かって話したことはないけれど。――あなたは知らないと思ったので話しておきます。独りだけ蚊帳の外は、フェアじゃない」
「だとしても、私には何もできません」
「…もう終わった事ですからね。それに、神崎先生も立ち直ってくれたようでよかったです。姉は、いつまでも君たちが囚われるほどの人間じゃない。そんな価値はない」
「……貴方のお姉さんでしょう、それも亡くなっている」
「ええ。けれど、ただの我儘で神崎君を惑わして彼の時間を奪ったことは、彼女の我儘でしかなかったから。姉に事情があったのだとしても、死んだとしても、行いまで正当化していいわけじゃない」
「………」
「…姉は、婚約者を好きでした。彼の愛を求めて寂しさを、神崎君で埋めていた。もしも、僕が何か姉に言葉をかけていたら、今は変わっていたかもしれないと思わずにはいられません」

吐き出した声は苦々しい。
もし時間が巻き戻って、何か僕が行動をしていたら、姉に何かを告げていれば変わっただろうか。
姉も死なず、神崎先生も苦しまず、彼女の――笹原先生の泣きそうな顔を見ることもなかったのだろうか。もしも、を考えてやまない。過去を、誰も傷付くことのない未来に変えたかった。

「――たぶん、神崎は知っていたと思います。彼女が、お姉さんが婚約者の方と亡くなったと聞いた時に、知っていたはずです。でも、それでも神崎は彼女が好きだったから。
あの時神崎が好きだったのは、坂上桜さんで、彼女といることが幸せだと笑っていたから。一瞬でも幸せだと思えた時間があったと泣いたから。だから、確かに悲しいし辛い出来事だったけれど、無くなってほしいとは、思えないんです」
「…………」
「誰も傷付かない未来なんて、ないんじゃないでしょうか。でも、傷を癒すことはできるから。時間がかかっても、いつか傷は治せるから。
私は、確かに坂上さんが憎いし、好きじゃありません。亡くなってまで神崎に思われる彼女がうらやましい。でも、どうせなら…、」

そのあとの言葉は、俯いて顔を両手で覆った彼女の口からは聞こえてこなかった。
――生きていてほしかった、だろうか。謝ってほしかった、だろうか。それとも、幸せになってほしかった、だろうか。
彼の傷は癒えても、彼女の傷は癒えていないのだという事だけ、わかる。

「仕事中にする話ではなかったですね、すみません」
「…いいえ、聞けて良かった。神崎からはきっと聞けないことだから」
「うまく、いきませんね」
「…パズルのピースみたいに、決まっていればいいのに。ピースがはまるみたいに好きな人を確実に好きになって、パートナーになって。そうすれば、決まってれば、誰も傷付かないのにって、思っていました」

自嘲気味に笑った彼女は、顔を上げる。
少しだけ目元が赤い所が、申し訳なくなりながら、ああもし、そうだったなら。決まっていれば、よかったのだろうか。

「――でも、そうじゃないからこそ、恋をするんでしょうね。してしまったんでしょうね」
「笹原先生は、本当に好きなんですね。…そう想ってもらえる人がいる、神崎先生がうらやましい」

そっとハンカチを渡す。彼女なら持っているだろうけれど、一応。
受け取った彼女は今度こそ零れた涙をそっとハンカチでぬぐった。

「鼻水ついても、知りませんよ」
「構いませんよ、泣かせたのは僕ですから。甘んじて受けましょう」

いつか、彼女の思いが報われてほしいと思う。
そして姉は、何を想って死んでいったのだろうか、と。彼女は最期、好きな男と死ねて幸せだっただろうか。報われない想いを抱いて、振り向かない相手をどんなふうに見ていたのだろうか。
今となってはわからないことだが、それでも。
姉が安らかに眠ってくれたら、と願ってやまない。悔やむのは、もう少し家族としてのかかわりを持っておけばよかったというところだろうか。

笹原先生は授業があるからと出ていった。1人になった準備室で、自分の受け持ちの生徒たちの提出物を確認しながら思い浮かべるのは。
――どうか、彼女たちが幸せに、と。少しだけ関わりとも言えない関係を持つ自分は、ただそっと外から見るしかないのだ。



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