【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百十五時限目 答え合わせ ③
風の無い静謐な湖の表面に、朝まだきの空に浮かぶ雲から一筋の露がぽちゃりと音を立てて落ちる。
その雫は水面に窪みを作り、抱き締められるようにして湖と溶け合った。落ちた衝撃により波紋が三六〇度に広がるが、静謐な湖に取って、それは取るに足らない物。
波紋はほんの数秒で静まり、湖は再び静けさを湛える。
嫌な静けさではなく、優しささえ感じるような心地よさだ。
あれ程にまで抵抗していた『性別』への執着とも言うべき困惑が、こうもあっさりと無くなってしまった。
終止符を打った。──とまでは言えないけれど、胸のつかえが取れて、心穏やかな気持ちになれたのはいつ以来だろうか? 心労が鬱積して寧日の無い日々を過ごしていたけど、腑に落ちる答えが出てしまえば、後はそれを受け入れるだけ。その作業だって、これまでに何度もしてきた。
……もう、いいだろう。
そろそろ受け入れなきゃ。
「……ありがと、流星。自分の中で答えが出た気がするよ」
「そうか」
流星は相変わらずで、端的に返事をした。
「うん。まだ全てを受け入れられたわけじゃないけどね」
「それでも大きな前進だ」
しかし、疑問も残る。
流星は自分の『浮かれた行事を嫌う理由』について話す為にここへやって来たんじゃなかったっけ? それがいつの間にか、僕のお悩み相談になっている。店内BGMが『るぅ〜るるぅ〜るるるぅ〜』だったら流星の部屋だ。え、流星の部屋ってそんな奇妙な音楽流れてるのか、……行きたくないな。
そんな徹子さんよろしくな放課後ティータイムはここまでにして、そろそろ本題に入りたい。
「そろそろ流星の〝あの件〟について訊かせて欲しいんだけど」
「ああ、そうだったな」
別段興味は無いが、話したいと思って来てくれたんだし、それを無下には出来ない。さてさて、どんなセンチメンタルジャーニーになるのかと、僕は二杯目のカフェラテを飲みながら、流星が口を開くのを待った。
「最初に優志の話を持ってきたのは他でもなく、オレも似たような状況にあったからだ」
ふむふむ。……なるほど? 僕は首を傾げながら眉を顰める。
「義信にはもう伝えたが……、一日に何度もする話じゃないな」
自分で言っておきながら不愉快を露わにするのはこれ如何程に? サラダにレモン汁を垂らしたくらいのさっぱり感満載にわからない状況の僕の頭上に、レモン五〇個分くらいのクエッションマークが浮かぶ。
「そこまで話して〝やっぱ無し〟は無しだよ?」
「わかってる。……はぁ」
あまり気乗りがしないのだろうか、それとも、話す内容が深刻なので言葉に余るのか。どちらにせよ、ここで止められたら寝覚めが悪い。かと言って、催促するのは行儀も悪い。寝覚めも行儀も悪かったら、マナーも何もあったもんじゃないが、このまま平行線を辿るようなら後日でもいい気がする。
「また後日、時を見てにする?」
「いや、そこまで込み入った話じゃない。……続けよう」
そう言ってから、流星は冷めた珈琲を飲み干した。
「さっき、オレが言った〝性別について〟覚えているか」
「微笑みの国のこと?」
ナマステーでコップンカーな国で、豪華絢爛な服を纏ったマハラジャが踊る。……これはインドだ。
「それはもういい。……そっちじゃなくて我が国の方だ」
おはようでありがとうな国で、オラついた服を着たライジング産のイケメン軍団が踊る。……これこそ我が国だ。
「中性と無性、そして両性の話ね」
「そうだ。……オレは、生物学的に言えば女なんだ」
「じゃあ、解剖学的に言うと?」
「女だ」
「戸籍謄本では?」
「女だ」
「英語で言うと?」
「Womanだ」
「男の?」
「……浪漫か? ……って、オレは言葉遊びをしたいんじゃない。殺すぞ」
おお、実は流星ってノリがいいんだな。
「冗談はさて置き……、何だって?」
「お前、実は義信よりウザいんじゃないか? ……まあいい。いいか? もう二度と言わないからよく訊け。オレは、生物学的に言えば女だ」
……はい?
「ああ、えっと……。男性だけど女性に憧れているってこと? だったら僕と似たような──」
「違う。その逆だ。いや、逆というのも語弊があるが、まあ、そういう事だ」
僕の言葉を最後まで訊かずに、流星はそう答える。
「そう言われても、にわかには信じ難いよね……」
「それはそうだろう。一人称は〝オレ〟で、こんな格好だしな。声もハスキーだし、傍から視ればオレを女だって思うヤツはいないだろう。……だけど、オレは女だ」
「でもさ? 〝流星〟って男子の名前じゃないの?」
そう訊ねて、流星は殊更に嫌そうな表情をする。
「……本当は、流星と書いて〝えりす〟って読むんだ」
まさかのキラキラネームだった。いや、星の名前だからキラキラしてても不自然じゃないけど、初見で『えりす』とは読めないよなぁ。いやいや、女の子に『流』は駄目でしょ。
というか、『流星』のどこに『えりす』要素があるの? 流星、ながれぼし、星、……惑星? そう言えば小惑星に『エリス』って名前がついていなかったっけ?
……それか。
「驚いただろ? この見た目で〝えりす〟だぞ」
「ごめん。さすがに驚きを隠せないや」
「だから、入学してからオレのする事と言えば、担任になる先生に〝りゅうせいと呼んでくれ〟ってお願いから始まるんだ」
そこまで徹底して性別を偽るのか。……偽る? 偽っている訳じゃないか。正確には『正す』なんだろう。『生物学的には』を強調している流星は、つまり、女性ではなく男性としての性を望んでいるって事だろうか? ……それ以外考えられないか。そうじゃなければ男子用制服を着てない。
「何となくだけど話が見えてきたよ」
「察しがいいのか悪いのかわからないが、まあ、そういう事だ」
ここからがようやく本題なのだろう、流星の顔が引き締まった。落ち着いていた緊張感が再び訪れる。さっきまで興味の無い話だった僕も、流星の事情を知った今は別だ。男性として生きる道を選んだ流星の話は、今後の僕の立ち振る舞いの参考になるかも知れない。……そう思った。
僕がダンデライオンに到着した時間から、約二時間が経過している。カウンターで武勇伝を語っていた初老男性も、その話を退屈げに訊いていたマダムも退店していた。
店に残っているのは僕らと、カウンターの右端に座るサラリーマン風の男性と、左端に座る若そうな女性。顔は視えないので恐らくは若い。頬杖をついて、左手にコーヒーカップを持ち、退屈そうにしながら照史さんと親しげに話すサラリーマン風の男性を視ている。
あのひと達も常連なのだろうか? 僕だってダンデライオンの常連の一員ではあるけど、あそこまできっちりとスーツを着込んだ男性も、水商売をしていそうな若い女性を視るのも初めてだった。
トントン、とテーブルを指先で小突く音。
余所を視ていたので、流星がそれを不満に思ったんだろう。僕は「ごめん」と謝ってから、もう一度居住まいを正した。
「人間観察はもういいか? 続きを話すぞ」
「うん」
僕は、『ああ、問題無い』と呟く司令さながらに、テーブルに両肘を乗せて、交差した親指と人差し指の間に顎を置いた。
「オレは学園祭も、音楽祭も、マラソン大会も修学旅行も嫌いだ」
学園祭と音楽祭は兎も角、僕もマラソン大会と修学旅行は嫌だ。そもそもマラソン大会だか持久走大会だか知らないけど、大会と謳っておきながら、大会と呼ぶには程遠い、ただ疲れるだけの行事だからだ。走り切った満足感? 何それ美味しいの? 口の中が鉄の味になって吐きそうになる。
修学旅行は班割りと、その班で行動するのが嫌いだ。仲良しズッコケ三人組に混ざった異分子は、忍者さながらに息を潜めて、教室以上に神経を研ぎ澄ます必要がある。なんなら修学旅行ではなく修行旅行。お陰様で忍びの道を選びそうになったまであるけど、僕にチャクラは扱えないので断念。やっぱり日向は木の葉にて最強だってばよ。……混ざった。
思い出したら胸糞が悪くなって唾を吐きたくなった。でも、そんなお行儀の悪い事はしない。小学生だった頃はその行為が格好いいと勘違いして、痰が絡んでもいないのにわざわざ『カーッ、ぺ!』としていたけど、そんな事をするのはそれこそ、田舎ーッペ! だけだろう。
「おい優志。眼が死んだ魚みたいになってるぞ」
「ああ、問題無い」
──決まったな。
このポーズをしてから、いつ言おうかと思っていたけど、このタイミングは絶妙だった。……どうでもいいな。
「そ、そうか」
流星は少し困惑気味に呟いて、コホンと咳払いをしてから口を開く。
「オレは物心ついた時から、既に自分の性別が心と体で食い違っていると確信していた。でも、それを許してくれる程、人間関係ってのは優しくない」
物心ついた時って、多分、小学校に入学したくらいだよね? その頃から既に自覚があったら、……想像するだけでも辛い。
「買い与えられる物は全部ふわふわ、キラキラ。スカートや髪留め、オモチャの指輪なんてのも誕生日プレゼントに貰ったな。……想像出来るか? 嬉しくもないオモチャや服を貰って〝ありがとう〟って微笑む苦痛が」
「……」
答えられなかった。
答えてはいけない気がした。
それは、僕が味わった苦痛じゃない。流星がこれまで生きてきた過程に受けた痛みだから、僕なんかが呑気に『大変だったね』なんて言えるはずがない。
「班分け、組み分け、全部女子側だ。ムカついたから筋トレして、体育系の行事は女子の中でぶっちぎってやった」
なるほど。
だから流星の体は程よく引き締まっているのか。
「それでも」
そこで流星は言葉を区切る。
その眼の先は僕を視ていない。
苦々しい過去を振り返るように、遠くを見つめていた──。
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