【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

九十九時限目 梅高祭 ④


 唐突に事件は起きた──。

 私と楓ちゃんがメテ男の着替えが終わるのを待っている時だ。グラスの割れる音が、荒肝あらぎもひしぐように教室に響いた。どうやら、水を運ぶ最中に手元を滑らせて、トレーからグラスを落としてしまったらしい。それを知らせに来たのは佐竹だった。

「楓、ちょっとまずい事になったぞ! 五杯分の宇治原が! 水をぶち撒けちまった!」

 宇治原というのは、多分、このクラスにいる男子であり、佐竹曰く、彼を数える単位は『杯』らしい。私は『五杯分の宇治原君』が床に水をぶち撒けている姿を想像して、そのシュールさに、思わず吹き出しそうになるも何とか堪えた。

 些かならず動揺している佐竹は狼狽ろうばいを隠し切れずに、あたふたしながら楓ちゃんに詰め寄る。だけど、楓ちゃんは慌てる事なく冷静に、一度、佐竹の額にデコピンを喰らわせた後、「狼狽うろたえ過ぎです」と叱った。

「被害状況はどうなっていますか? お客様は大丈夫ですか?」

「服にはかかってねぇけど、スリッパだからな……。数人の靴下は濡らしたと思う。今、ホールの数人で対応してっけど、このままじゃ客を捌き切れねぇ。……どうするよ」

 佐竹は痛む額を撫でながら、楓ちゃんの指示を待つ。その間、目線だけで「何で優梨になってるんだ?」と訊ねられた気がしたけど、「それ所じゃないでしょ」と首を振った。

「では、私と宇治原さんでお客様対応します。佐竹さんは拾える範囲で構いませんのでガラスを拾って下さい。……という事なので、優梨さん」

「はい?」

「雨地さんの事は頼みますね」

「あ、うん」

 頼むと言われても、何をどうすればいいんだろうか? 私が眉を顰める視界の端で、佐竹が私に向かって両手を合わせて頭だけを下げた。私は神仏ではないんだけど、なんてとぼけている場合ではない。

 佐竹の話から察するに、そこまで深刻な状況ではなさそう。飲食店ではありがちな凡ミスだけど、ここにいる殆どがアルバイト経験無しで、トラブル対応力があるとは思えない。かくいう私だって、仕事と言える経験は中学の学園祭程度で、それだけの経験で出来る事と言えば、精々、濡れた床の掃除くらいだろう。──そこまで考えて、ようやく楓ちゃんの意図を理解出来た。

「わかった。メテ……雨地君の着替えが終わり次第、私達もそっちに向かうね」

 楓ちゃんは頷きだけで返事をして、佐竹を連れて足早に現場へと向かった。

 宇治原君、テンパってるんだろうな。

 早く向かってあげたいけど……そもそも、宇治原って誰だろう?




「なんだ。やけに忙しそうだな」

 事件発生から数分後、慌しい状況を察したメテ男が「何事だ?」と首を傾げながら、燕尾服に身を包み、眉間にしわを寄せて出てきた。

 執事と言うよりも、ホストっぽい印象を受けるも、そんな事を暖気のんきに話している暇は無い。

 私は事情をなるべく端的に説明すると、メテ男は特に気にする様子も無く「ふぅん」と所在無さげに他人行儀な反応をした。──まあ、焦って事を運ぶよりはいいんだろうけど、まるで関係無いという態度を取られると腹立たしく思う。

 しかし、言い争っている場合じゃない。

 全く頼りになりそうもない彼を連れて、現場に向かうのもどうかと思うけれど、いないよりはいた方がいい。そう思って、メテ男に床掃除の準備指示を出そうとしたら──

「お前、何をそんな暇そうに突っ立ってんだ。……ほら、行くぞ」

「え? あ、うん」

 メテ男は既にモップとバケツと、バケツの縁に雑巾数枚を掛けて準備万端、戦闘態勢になっていた。

「どうせ宇治原アイツの事だから、テンパって棒立ち状態だろう。月ノ宮が客の対応してるなら、床掃除が間に合ってないはずだ。悠長に構えてる暇なんて無いぞ」
「そ、そうだね。……急ごう!」

 な、なんだこの『頼れるアニキ感』は。これがヤンキー特有の能力『稀に見せる優しさ』だな? 危うくトゥンクしそうになったじゃん。……いや、絶対にしないけど。

 メテ男の後を追うようにして現場へ駆けつけると、楓ちゃんが客の対応をして、件の宇治原君はその隣で棒立ち状態になっている。さっきメテ男が言った通りの状況だった。

「案外ぶち撒けたな」

 佐竹君は『五杯分の宇治原みず』と言っていたけど、量にすれば『約一リットル相当の宇治原みず』を床に零した事と同じだ。床にはまだ割れたグラスの破片がいくつか散らばっている。ある程度は佐竹君達ホール担当が処理したようだけど、細かい破片が床に残ったままの状態は危険だ。

「おい宇治原、お前もういいから下がってろ。申し開きは後でゆっくり訊いてやる」

「ご、ごめん。アマっち……」

「そのあだ名で呼ぶな。……バックに戻って休憩でもしてろ」

 宇治原君はメテ男に言われるまま、がっくり肩を落としてバックヤードへ戻って行った。

「これは先にガラスをどうにかする方がいいな。お前は視える範囲の破片を拾え。細か過ぎるのは拾わなくていい。それはオレが処理する」

「わかった」

 妙に手慣れたメテ男の臨機応変な行動力により、事態は直ぐに収束の糸を辿った──。

 靴下を濡らしてしまった客の対応は月ノ宮さんがしていたので、そちらも大きな問題無く終わり、私とメテ男は後処理を済ませてからバックヤードに戻ると、宇治原君が楓ちゃんに土下座する勢いで頭を下げていた。

「お客様への被害が少なかったのが不幸中の幸いですが、次から、トレーは必ず両手で運んで下さいね」

 今回のミスは宇治原君が調子に乗って、本場のウェイターのように、水が乗っているトレーを片手で運だ結果、起きてしまったミスらしい。

 梅高祭が開始してからそれなりに時間が経過して、動きにも余裕が出てきた頃だ。そういう時にミスは発生し易いので気を抜くのは厳禁だけど、プロ意識を持て、なんて、とてもじゃないけど高校生には難しい。特に、アルバイトすらした事がなければ当然で、どこか『遊び感覚』になってしまうのも無理は無い。

 楓ちゃんもそれがわかっているから、宇治原君を責めるような態度は噯にも出さないでいる。──けど、内心はどうだろう? 腸が煮え返ってなければいいんだけどなぁ。

「アマっちもごめん! それと、……他のクラスのひとかな? 対応してくれてありがとう」

「オレもコイツも別に気にしてないから、お前は気分転換でもして来い。穴はオレが埋めてやる」

「悪いな。ちょっと外の空気吸ってくるよ」

 お説教タイムも程なくして終わると、月ノ宮さんがにっこりと微笑みながらメテ男を視る。

「それではお言葉に甘えて、宇治原さんの穴埋めをお願いしますね?」

「チッ……、はいよ」

「私はこれから先生に報告しに行くので、何かあれば恋莉さんに訊いて下さい」

 この『お好み焼き喫茶』の陣頭指揮をしているのは楓ちゃんだけど、現場監督は恋莉ちゃんに一任されている。だから楓ちゃんは不足の事態になった場合、焦る事無く駆けつけられるのだ。息も合ってるし、なかなかいいコンビかもしれない。……深く考えなければ、の話ではあるけど。




 教室の騒ぎも収まり、ようやっと本来の忙しさを取り戻した。

 私は恋莉ちゃんから、『訳あって手伝ってくれる友人』というポジションを与えられて、お好み焼き係ではなく『ウェイトレス』として教室を駆け回り、あっちゃこっちゃに珈琲やお好み焼きをお届けしていた。わからない事は、不本意ながら佐竹君に訊いたりしている内に、少しは形になってきた気がする。

 意外だったのはメテ男で、私達には仏頂面しか視せないのに、客相手だと柔らかな笑顔で「お帰りなさいませ、お嬢様。メニューがお決まりになりましたらお呼び下さい」と、それこそ本場の執事喫茶の執事のように立ち振る舞い、女性客の頬を染めさせていた。

 お昼時を過ぎれば客足も徐々に落ち着いて、空席も目立ち始める。ようやっと一息つけるとバックヤードに戻ると、そこには仏頂面で、近寄り難いオーラを纏いながらお好み焼きを頬張るメテ男がいた。

 現在、私の事情を知っているのは楓ちゃん以外にはいない。佐竹君も、恋莉ちゃんも、友達と他のクラスを回っている。そして、唯一残っている楓ちゃんは、恋莉ちゃんの代わりにお好み焼き焼いているので、実質、メテ男しかいない。だからといって、あんな禍々しいオーラを放つメテ男に話かけたくはないけど、状況が状況だけにそうもいかないよねぇ……、あまり気は進まないけど。

「お疲れ様」

「あ? ……なんだ、お前か」

「お前じゃない。優梨だよ」

「学園祭なんだし、隠す必要あるか? まあ、別にいいけどよ」

 メテ男は最後の一切れを口に入れて、珈琲で流し込んだ。 

「珈琲とお好み焼きって、想像を絶するくらい合わないな。これを考えたヤツ、絶対に馬鹿だろ」

「ああ、ええっと、……うん。そうだね」

 『お好み焼き屋』と『執事喫茶』で対立した時に「なら、一緒にやればよくね? 普通に」と発案したのは確かに馬鹿だっただけに、苦笑いしか出来なかった。

「……ったく。どうしてオレがこんな事を」

 そう悪態吐いているけど、仏頂面だった表情が、どこか満足そうだ。薄っすらと笑みが視て取れる。

「私は、ちょっとだけ楽しかった? かなぁ……。それに、格好よかったよ? 〝アマっち〟」

「そのあだ名で呼ぶんじゃねぇよ」

「じゃあ、なんて呼べばいいの?」

「流星でいい」

「うん。わかった」

「……なんか調子狂うなぁ」

 態度こそ横柄で取っつきにくいけれど、根は悪いヤツではなさそうで安心した。もしかしたらクラスの皆ともこうやって接すれば、仲良くなれたりするのかもしれない……いや、それはきっと、今、私が優梨になっているからそう感じるだけだろうな。

「つか、お前さ」

「なに?」

女装ソレについてもう少し詳しく訊かせろよ。月ノ宮の説明だけじゃ、お前を判断出来ないからな」

「まあ、知られてしまったなら教えるのも吝かではないけど、ここじゃ無理」

「あ? どこならいいんだよ」

 〈どこ〉と問われて思い当たる場所は……、当然、あの店しかない。

 ──どうやら、長い一日になりそうだ。



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