【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
九十三時限目 大和撫子でいられれば ⑨
「結論から申し上げますと、皆様が仰る通り、私は風邪など引いていません」
それはまるで、議事録を読み上げるかのように、淡々と告げられた。
ビジネス用語に『5W1H』という言葉がある。
いつ〈when〉どこで〈where〉何が〈who〉なにを〈what〉なぜしたのか〈why〉どのように〈how〉、これらの頭文字と取って『六何の法則』という。──これを、下地にして、会議やレポートを進めるのが通例だ。勿論、例外もあるにはあるだろうけど、そこは議長の匙加減に委ねられる。
月ノ宮さんは、これに沿って話を進行させたいらしい。
僕らは黙々としながら頷き、満を持して、議長の言葉を待った。
「どこから話せばいいのか判断しかねますが、……そうですね。あれは、間も無く夏休みが終わる頃で、お夕飯のおかずに、刻みネギと生姜を乗せた、冷や奴が出た日です」
なるほど。
だから月ノ宮さんは、あの日、豆腐屋の移動販売車に興味を持ったのか。
僕以外のふたりは、揃って首を傾げている。無理もない。これは、僕と月ノ宮さんだけがわかる、ちょっとしたおかずの話なのだから。
「私は夕食後、自室で夜風を浴びながら、夏の大三角を眺めてつつ、これからどうするべきか、どう、れん……皆様との親睦を深めるべきかを考えていたのです」
態々言い直さなくても、大体はお察しだ。
天野さんは、薄っすらと苦笑いを浮かべながら、詮方無いと、溜め息を零す。
「そんな時、誰かが私の部屋の扉を叩きました。もう何年も一緒に住んでいますので、ノックの相手が誰なのか、その強弱でわかります。訪ねて来たのは、お父様でした」
その瞬間、部屋に、息苦しい程の緊張が走る。
月ノ宮さんのお父さん、つまり、月ノ宮製薬代表取締役であり、現・社長。テレビでは何度か拝見した事があるけど、とても厳格な人物だと印象を受けた。
そんなひとと共に暮らすなんて、僕は耐えられるだろうか? そんな自信は、これっぽっちも無いが、それでも月ノ宮さんは、絶え間無い努力を惜しまず、これまで生活してきたんだろう。何とも頭が下がる思いだ。
「お父様は部屋に入るなり、私に、こう言いました。……来年から〝アメリカへ渡れ〟と」
「「はぁ!?」」
佐竹と天野さんは、あまりの急展開振りに、思わず声を重ねる。僕は、何となくだけど、こうなるような予感めいたものを感じていた。しかし、アメリカとはまた、スケールのでかいグローバルでインターナショナルな話だ。センシティブ過ぎて二時五〇分にピーピーしたくなるまである。ないな。というか、突拍子も無い話だけに、僕も動揺しているらしい。落ち着け、クールになれ、クールになるんだ、鶴賀優志! クールになれと言い聞かせつつ、熱くなっているのはどうも逆説的だな。多分。それもどうだろうか? さあ、……どうだろうね。
「それで、楓はどうしたの……?」
天野さんの声は、不安を色濃くしたか細い声だった。
恐らくは、その問いの答えを察している。だけど、その答えを信じたくないから、本人の口から直接真意を確かめたいのだろう。
「お父様の言葉は、絶対、です」
やっぱり、そうなるか……。
月ノ宮さんは、これまで何度となく、そのフレーズを口走っていた。今回も、それは例外ではない。いや、絶対的に、例外は無いのだろう。もしかしたら照史さんも海外留学を迫られて反抗して、その結果、絶縁に追い込まれたのかもしれない。
憶測で物を言うのはどうかと思うけど、もしそうであるならば、なるほど、そう言う事かと、納得せざるを得ない。これまで語られずにいた、照史さんと月ノ宮家の確執がこんな結果で露呈するとは思いもしなかったし、こういう結果になったのは、照史さんからすれば不本意だろうと、僕は胸の内だけに留めておく。
『お父様の言葉は絶対』と豪語する月ノ宮さんが、その言葉に反逆した兄の代わりに、自分が背負うと意気込んでいたので、その場で『イエス』と、首を縦に振ったのは明白だ。しかし、佐竹が、それには納得出来ないと、異議を申し立てるように声を大にする。
「本当に、お前はそれでいいのか?」
「佐竹……」
佐竹の気持ちは痛い程わかる。何を言いたいのかも、手に取るようにわかる。
だけど、それを言ってはいけない。
例え、納得出来なくとも、これは月ノ宮さんの決断だ。月ノ宮さんの人生に介入出来るのは、これからも月ノ宮楓を支える事が出来る人間のみで、一端の感情でその決意を、踏み躙ってはならない。それこそ、愚の骨頂というものだ。……だけれど、目角を立てながら激情している佐竹に、僕の言葉は届かなかった。それ所か、益々怒り心頭に発するかの如く、荒々しさが増していった。
「まだ、入学したばかりだぞ!? やりたい事だってあるはずだろ!?」
「佐竹、やめなさいよ……っ」
月ノ宮さんは下唇を噛み締めながら、阿鼻叫喚と化したこの部屋で、甘んじて受け入れるかのようにじっと耐えている。本当は反論したいのだろう。両膝の上に置いた両手はぎゅっと硬く結ばれて、手の甲には青筋が浮かんでいる。
「契約はどうすんだ、俺との契約はまだ果たされてないぞ!?」
「佐竹、黙れ!」
嗚呼、僕はこんなにも大声を出せたんだ。いつ振りだろう? 誰かの為に声を上げたのは──そんな事を思いながら、突如訪れた静寂が恥ずかしくなり、頬が赤らむのがわかった。
嫌な沈黙だ。
お互いに牽制し合うような心地の悪さを感じる。
それでも、いつだって、欲も得もなく沈黙を破るのは決まってこの男なのだ。
「じゃあ、お前はこのままでいいのか?」
こんな腑に落ちない話があるか? と、佐竹は表情だけで語るも、僕は首を振って難色を示した。
「よくない。だけど、それを訴えるべき相手は、月ノ宮さんじゃないだろ」
小さな舌打ちが聞こえたが、僕はそれを聞かない振りして続ける。
「遣り切れないと怒りを発露させるのは、佐竹の優しさだろうから、僕は佐竹を〝いいヤツだ〟って思う。でも、その相手を間違えたらいけない。……そうだろ? 佐竹は僕の友達だ。だから、わかってくれるって信じてるよ」
「……ちくしょうっ」
佐竹は吐き捨てるように呟き、右の太腿を握り拳で思いっきり殴りつけた。
「悪かったな、楓」
「い、いえ」
どうにか平常心を取り戻した佐竹は、先程殴りつけた腿を撫でながら、「続けてくれ」と、月ノ宮さんを促すように言う。月ノ宮さんは理解を示すように顎を引く程度に頷いて、相前後してしまった話をどこまで戻すべきなのかを考えるように目蓋を閉じた。
茜色を背負うその姿は、儚げな美しさを感じる。
まるで夕陽に当てられる日本人形のようだ。
どこか懐かしい気持ちになる。
だけど、彼女は人形ではない。
血が通った人間であり、僕と同い年の女子高生だ。
永遠に美しい人形じゃない。
大人になれば、汚い部分にも触れるだろう。最も、僕らよりは大人社会に精通しているので、そういう部分を彼女から感じないと言えば嘘になるけど、月ノ宮さんは、いつまでも、それが我儘だとしても、大和撫子でいられれば──と、心のどこかで思うだろうか。
静寂が耳を劈き始めた頃、月ノ宮さんは伏せた顔を上げて、深い呼吸を吐き終わると共に、目蓋をゆっくりと開くと、月ノ宮さんの美しさを引き立てる、黒色の濃い宝玉然らしめる瞳が、その姿を現した──。
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