【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
七十五時限目 彼と彼の宿題 12/16
ふと佐竹を視界の隅にいれると、怠そうに片肘を付いて英語の問題文をぶつぶつと音読していた。英語の発音は、完全にカタカナだった。ネイティブ過ぎる程に。
「音楽でもどう?」
「おう」
気怠い空気が充満していては作業効率も悪くなるし、パフォーマンスも低下するばかりだ。
ここらで気の利いた曲を流して、滞っていた空気を一新するべく立ち上がる。
勉強卓に置いてあるノートパソコンを立ち上げて、音楽プレイヤーを開いた。
「なにがいい?」
佐竹は、「バイブスがブチアガる曲」と答えた。
「テンションが上がる曲……」
佐竹が所望している曲は、ベース音が響くクラブミュージックだろうけど、僕の趣味じゃないのでリクエストには応えられそうにない。
然りとて、青春パンクを流すのも、なにか違うような気がする。
そもそも、勉強時にテンションを上げる必要はないんじゃないか?
図書館でユーロビートが流れていたら、ウサギとカメの話が首都高バトルになり兼ねないし、ヒューマンドラマを読んでいたはずが、峠を攻める野良レース物語になっていた……なんてことも。
そんなこと、許されてはならない。
「テンションは上がらないけど、これならいいでしょ」
マウスを操作して、クリック。パソコンの傍に置いてあるスピーカーから流れ始めた音楽は、ジャズとラテン音楽を融合させたフュージョンジャズ。
擬似的にダンデライオンの雰囲気を模倣しようとしたわけだが、佐竹はどうも物足りなそうに眉を顰めた。
「ジャズか?」
「ダンデライオンセレクション」
と、命名した再生リスト。
勉強したり、本を読むときなんかに重宝する。
「ダンデライオンっぽいでしょ?」
「たしかに……でも、眠たくなりそうだ」
ふわあ、と欠伸をする佐竹。
「端から眠たそうだけどね」
「眠くねえし!」
どうだか。
佐竹の集中力が高まりを見せ始めた頃だった。
最終問題を解き、自分の回答に間違いがないかチェックをしていると、琴美さんの言葉が脳裏をちらついて邪魔をし始めた。
陽気なメロディとは不釣り合いな陰湿さを纏いながら。
暗示にかかったみたいだ。
それも、かなり悪質なやつ。
違うことを考えても、あの言葉がずっと脳内に居座り続ける。
琴美さんは、『同じ場所から違う景色を見ようとしても、それはただの羨望に過ぎない』と語ったけれど、百貨店の多目的トイレで初めて女装をした日に、『アナタが望めば世界はもっと広がる』と、メモを残した。
琴美さんが言う〈世界〉とは、どの世界を指しているんだろう。
喩えば、〈子どもの世界〉に存在する十八歳未満の少年少女たちの多くが、『大人の世界に憧れを抱いている』と仮定する。
子どもたちは遠くから〈大人の世界〉を見つめるだけで、どういう理で大人の世界が廻っているのかを知らない。
知らないから、想像するしかない。
頑是ない子どもたちには、大人の世界がとても自由に見えるはずだ。
でも、実際は柵だらけだったとしたら──。
琴美さんの言う〈羨望〉は、これに該当する。
物事の本質を知るには、実際に赴いて、肌で感じる他にない。
他国にいって人生観が変わるという話をよく見訊きするが、そのからくりは単純で、日本では知り得なかった価値観に触れたからである。
視て、聴いて、触って、嗅いで、食べて。
五感全てを使って知り得た情報を元に再構築された思考は、井の中では知り得なかった貴重なものだ。
メモに記してあった言葉の意味は、こういうことだろう。
とはいえ、この二つの言葉に、はたしてそこまで深い意味はあるのだろうか。
単に僕らを揶揄っただけ、という線も捨てきれない。
気まぐれ過ぎるからな、琴美さんは。
なんというか、全てにおいてフリーダムでフリースタイルでチェケラッチョ。
型にはまらない、と言えば訊こえはいいけど、掴みどころがないというのは、それだけ未知数だってことにもなる。
未知というのは、恐怖の対象足り得る理由だ。
僕が琴美さんに苦手意識を持つのも、琴美さんの言動を予測しきれないからだろう。
多分それは佐竹も同じで、わけがわからないから反発する。
家族であり姉でもある人物が透明人間のような性格だったら……僕はきっと、理解しようと思わない。
理解しようとする努力が、無駄に思えてくるだろうから。
「おい優志、訊こえてるかー?」
僕の意識を覚ますように、佐竹が呼んでいた。
シンキングタイムに突入すると暫く出てこれなくなる、僕の悪癖が出てしまったようだ。
「ごめん、訊いてなかった……なに?」
「この問題は、これで合ってるか?」
テーブルの上を滑らせるように、プリントを僕のほうに寄越した。
相変わらず、字が汚い。
字は汚いけど、スペルミスはなかった。
「……うん、大丈夫だと思う」
チェックするといっても、僕だって英語は苦手だ。
佐竹は主に、日本語が不自由である。
語彙力が乏しい、という意味で。
「よし!」
ぐいっと両手を上げて、伸びをする佐竹。
僕が瞑想するように、琴美さんの言葉の意味を考えているときも、佐竹は必死に問題を解いていたようで、英語の課題は残り半分を切っていた。
勉強全般が苦手な佐竹がここまで頑張っているのに、僕は──。
はあ、と溜息が零れた。
考えなくてもいいことを、必死になって知恵を絞り、考えなきゃいけないことを、先送りにする僕の悪癖。
井の中の蛙ではいけないって、注意されたばかりなのに。
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