【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
七〇時限目 彼と彼の宿題 1/16
夏休みも中盤に差し掛かり、海にはクラゲが増えた。
連日のように三〇度を超える真夏日が続き、高速道路や新幹線がUターンラッシュで混雑している頃、私は、佐竹家で、夏休みの課題が終わらないと泣きついてきた佐竹君の課題を見ながら、自身の残りに取り組んでいた。
部屋の中央に座する膝下テーブルの対面、私がすらすらと問題を解いていく中、反対側で「ううん」とも「すうん」とも言えない唸り声を上げ、頭を抱えている彼の筆は、なかなか進まない。
かれこれもう三〇分は膠着状態で、ついには「だめだ」と倒れ込んでしまった。
「わからない問題があったら訊いてよ」
腰を持ち上げてテーブルに両手を着き、佐竹君が取り組んでいた数学のプリントを覗き込む。
佐竹君が躓いているのは、私がついさっき教えたばかりの問題だった。
「やる気ある?」
「やる気はある……けど、やれるかどうかは別の話だ!」
「なんで得意げなの……」
やれやれ、という気持ちで佐竹君のノートに忘れてはいけないポイントをシャーペンで書き記す。これでも「わからない」というならば、もう手の施しようがない。
私がノートになにを書いているのか気になる様子で、佐竹君は大の字に寝そべりながらも視線だけ私に向ける。
「なに書いてんだ?」
片手を突っ張り棒のようにして起き上がった佐竹君は、興味津々に私が書いたポイントを凝視した。
「なるほど。そういう解き方があるのか……」
そういう解き方もなにも、夏休み前に習ったばかりなんだけど……と言っては、佐竹君のやる気に水を差しかねない。そうなっては、本日の目標である『数学を終わらせる』が、明日にまで縺れ込んでしまうだろう。
私としては、なにがなんでも今日中に数学を終わらせておきたい。
だらだらと続けていては、せっかくの夏休みが台無しだ。
夏休みだからといってなにがあるわけでもないけれど、なにが楽しくて他人の勉強を見なければならないのか。〈アイスコーヒー、一杯無料〉の特権だって使わないと。
「いい? この問題を解くには、ここをこうして……」
「あ、そうか。だからこの問題の答えはこうなるのか」
一応、理解はできるようで安心した。
でも、直ぐに忘れるのが問題だった。
「じゃあ、こっちはこうで、こうか?」
「そうそう」
「おお、なんか頭がよくなった気分だ。ガチで」
「よかったね」
その発言自体が頭悪そうなんだけど、という言葉を呑み込んで、私は精一杯の笑顔を作る。
私の作り笑顔で上機嫌になってくれるなら、お安い御用だ。
明日には頬が筋肉痛になっているかもしれないけど、数学の課題と引き換えとあらば、私は笑顔を作り続けることも厭わない覚悟だった。
「なあ、こっちの問題はどうなるんだ?」と、問題文をシャーペンでとんとん叩きながら訊ねる。私は「こういう解き方だよ」って、佐竹君のノートに解き方を書く。「じゃあこっちは?」と、佐竹君。「それはさっきの応用」と、私。
「この問題は?」
「佐竹君。もしかして、私に問題を解かせてない?」
「あ、バレたか」
「バレバレ」
勉強を教えてあげるのは、一向に構わない。
照史さんが言っていたように、勉強は他人に教えるほど理解が深まる、というのも頷ける。
でも私は、理解している問題に対してこれ以上理解を深めたいとは思わない。
そもそもこれは佐竹君の課題であって、私の課題ではない。
一度解いた問題を再び解くなんて、二度手間でしかないでしょう? そういうこと。
「自分でやろうとする気がないなら、帰るよ?」
「いやいや、やる気はある! 最早やる気だけしかないぞ。ガチで!」
「やる気だけでは解けません」
一喝すると、佐竹君は気を引き締めるように「わかってるって」と呟いて、真面目にプリントと向き合い始めた。
途端に、部屋の中が静かになった。
他人の部屋で無音というのは、どうも居心地悪く感じる。
とはいえ「音楽でもかけない?」と、提案できる様子でもない。
佐竹君が真面目に課題と向き合ったことだし、多少の居心地の悪さは我慢しよう、と私も残りの課題に着手した。
「はああ……」
佐竹君の手が止まった。
「ぐぬぬ」みたいな顔をして、「ぷはあ」と大きく息を吐き出し、ごろんと背中から後ろに倒れ込んだ。
本日、三度目のダウン。
ここまでよく集中力を保ったね、と私は口の中で賞賛した。
朝からいままで、ずっと勉強尽くし。
五分程度の細やかな休憩を何度か間に挟んではいたけれど、私の集中力も限界に近づいている。
「もう無理。腹減った! ガチで!」
まるでオモチャ売り場で駄々を捏ねる幼子のように、佐竹君はばたばたと手足を動かした。
「食事休憩にしよっか」
「おう! ……って、なんだそりゃあ」
バッグから取り出したサンドイッチとおにぎりを見て、残念そうな声を出す。
佐竹君の家を訪ねる前に、コンビニで買ったBLTサンドとたまごサンドは、二つで一組になっているやつだ。
女子といえばコンビニのサンドイッチ! という安易な発想で購入した物だけど、これだけでは足りないと思ってシーチキンおにぎりも買った。
「こういうときは、気分転換を兼ねて外食だろ。マジで」
わかってねえなあ、と佐竹君は続けた。
「でも、買っちゃったし」
言うと、佐竹君は殊更に不満を顔に浮かべて、
「お前のそういうとこ、直したほうがいいと思うぞ? マジで」
「前もって伝えてくれれば買ってこなかったよ」
「言わなくてもわかるくねえ? 友だち付き合いの常識みたいなもんだぞ」
お大きなお世話です、とおにぎりの包装を破き、齧る。海苔がぱりっと音を立てて破けて、シーチキンが口の中に広がっていく。もぐもぐしていると、ご飯、海苔、シーチキンの旨味が混ざり合い、見事な調和を作り出した。
おにぎりといえば、やっぱりシーチキンに限るよね!
「ああもう、わかったよ。オレはカップ麺でも食うわ」
すっと立ち上がり、ぐいいっと伸びをした。
佐竹君は部屋のドアを開き、閉めるついでに「なにか欲しいものあるか?」と私に訊ねた。
「アイスコーヒーが飲みたいな」
「はいよ」
ゆっくりドアを閉めた後、階段をどたどた下りる足音が、部屋の中にまで届いた。
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