【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
六十一時限目 彼女たちの後悔[前]
電車が止まり、ドアが開いた。
長旅をしたわけでもないのに、嗅ぎ慣れた駅の匂いが、殊更に懐かしく感じるのはなぜなのだろうか。まだ、私が降りるべき駅は遠い。
本日の出発点たるこの駅に降りた瞬間に感じた望郷にも似た感傷は、心地よくも感じた。戻ってきた、という安心感がそうさせているのは明らかだが、疲労感も相俟って、そう感じる。
警笛が鳴り響き、ドアが閉まった。
大して客も搭乗していない電車は、どこか寂しげに私の瞳に映る。徐々に速度を上げて、すれ違う。電車の行き先は、埼玉県の北部。古墳がある行田市とか、ネギで有名な深谷市辺りだ。
行田市といえばB級グルメの〈ゼリーフライ〉が有名である。名前だけを訊くと「ゼリーのフライ?」と勘違いしてしまうけれど、実際はおから──豆腐を絞った際に残るかす。食物繊維を多く含む──をパン粉で揚げたコロッケの一種らしい。ひとつ一〇〇円程度で販売しているそうだ。
埼玉県民でありながら、私はこのゼリーフライを食べたことがない。
埼玉県民があまり食べる機会がないカテゴリを例にすると、十万石饅頭や彩果の宝石と同じ系統だろう。深谷ネギさえ食べたことがない私にとって未知ではあるが、興味はある。然し、行田市までわざわざ足を運ぶとなると、それなりに億劫でもあった。時間も費用もばかにならない。が、見識を広げるという意味でも、さきたま古墳には行ってみたい、とは思っている。
外はすっかり暗くなり、駅のホームを蛍光灯が照らしていた。
蛍光灯に虫が集まるのは月と勘違いしているからだ、と教わったのを思い出した。旋回するように飛び回る理由は、月明かりを目印にして角度と高さを調節しているからなのだが、街灯は近くにあるため、月と錯覚を起こした夜行性の虫は、街灯と一定の角度で飛ぼうとする。その結果、街灯の周囲をぐるぐる回転しながら飛び回るらしい。
要するに、迷子になっているといえば、わかり易いかも知れない。
目指す場所に辿りつけないのは、さぞかしもどかしいことだろう。とはいえ、目指すべき場所も、進むべき方向さえも未だにわかっていない私自身だって、あの虫たちとなんら変わりないな……とか、ちょっぴりセンチメンタルな気分になってみたりした。
太陽が西の空に沈んでも、鬱陶しいほどの暑さが弱まるわけでもなかった。温くても風があれば、多少は緩和するだろう。だが、北風と太陽が喧嘩しても太陽が勝つのが道理である。それに加えて、肌に纏わり付くようなじめじめした空気が余計に暑さを際立たせた。バッグの中からハンカチを取り出して額に当てながら、このホームの反対側にある一番線を目指す。
途中、朝に待ち合わせをした待合室が見えた。電車を待つ人はだれもいない。こんな時間だから当然といえば当然だ。だれかが置いていった水のペットボトルと、コンビニのホットスナックの紙袋が放置してある。
テロ防止によりゴミ箱が撤去されてしまったからと言って、ゴミを放置するのはマナー違反でありいい気分はしないが、だからといって、私が処理するのも納得できない、というのが本音だ。マナー違反を語るなら、先ず、自分が率先してゴミ拾いをするべきだろう。でも、私にそこまでの殊勝な心掛けはなかった。
そう考えると、煙草やゴミのポイ捨てを注意するYouTuberたちの活動は、目的がどうであれ結果的に、世のため人のためになっているのかも知れない。
結局、待合室には入らずに通り過ぎた。
階段を上がり、反対側のホームに渡った。
見送りをする、という名目で一緒に降りたけれど、それは都合のいい建前であり、この状態のままレンちゃんと別れるのは寝覚めが悪かったからだ。それに、ちゃんと話す時間が欲しかった、というのもある……まるで、あたかもそれが目的だった、みたいに付け足した言い訳のようにしか訊こえないけど。
電光掲示板に目を向ける。次の電車が到着するまで、あと三〇分の猶予がたった。
「座ろっか」
言われて、背凭れのある青いベンチに並んで座った。
沈黙。
自ら進んで話をする時間を設けたのに、上手い言葉が出てこない。割とどうでもいいことは、難なくすらすらと浮かんでくるのに。
態度だけで察しろ、というのは傲慢だろう。気の利いたジョークの一つくらい、電車に揺られながら用意するべきだったか。口を開くのを躊躇うような時間が続く。口実になる物があれば……思案しながら周囲を窺っていると、突然、レンちゃんが私の左手の上に右手を被せた。
「たぶん、なにを言われても私の憂鬱は消えないと思う」
私の眉を読んだように、ぽつりと呟く。そう簡単に消せる問題じゃないのは、私も理解の範疇だけどそこをなんとか……なんて言ったところで、どうすることもできないのも当然だ。それだけお互いに、根が深い出来事だったのだから。
「でも、見送りにきてくれたのは……嬉しい」
言い終えて、レンちゃんは私の肩に頭を乗せた。数時間ぶりの温もりを感じて、ほっとしてしまった自分が情けない。『さもしいヤツだ』と僻目を送ってやりたい気分。ああもういっそのこと、私を軽蔑してくれたらいいのに。落ち込んでいるレンちゃんをどうにかしたいとしていたのに、私ばかりが楽になるなんて、呆れて物も言えないばかりだ。
「ユウちゃんは、私の憂いをどうにかしようって思ってくれているんでしょう?」
黙り続ける私に対して、レンちゃんは違う解釈をしていたようだ。まあその通りではあるけれど、甚だどうでもいいことばかり考えていただなんて、傷心しきっているレンちゃんに言えるはずもない。
私がこの場にいる本当の意味は、許しが欲しかったからだと思う。
寝覚めが悪いと思ったのだって、レンちゃんのためじゃなく私自身のためだ。それを自覚してしまっているからこそ、なにも発言できずにいる。私の根性はどれだけ腐っているんだろう。全て、御為倒し。清廉さなんて微塵もない。それこそが、私の正体。
「いつまでもくよくよしていちゃいけないのはわかってるけど、今日のはさすがに堪えたわ」
「うん……そうだよね」
と、返すのがやっとだった。
レンちゃんが乗る電車は、あと五分で到着する。あと五分、と心の中で繰り返した。次発にする? と提案したい気持ちはあるけれども、時間も遅くなり過ぎているから、それは無理な相談だ。
なんでもいい、声をかけないと。
読書が趣味なのだから、一般的な学生よりも語彙は多いはず。でも、私が読んでいる本は、なかなかに偏屈な作者が書いた小説だ。ウィットに富んだ皮肉なんて、いまは必要ない。刻一刻と口が重たくなっていく。ああもう、私は本当に駄目なヤツ!
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