異世界冒険EX

たぬきち

悠斗と茜⑩

「お父さん! 遅いよー」

 時刻は夜の七時過ぎ。

 やっと帰ってきたお父さんを玄関で待ち構え、引っ張り、茜の家へと向かう。

「おいおい、せめて着替えさせてくれよ」

「駄目駄目。遅くまで残らせてた会社を恨んでよ」

 お父さんはスーツ姿のままだ。だけれども、着替えて貰っている暇はない。

 もう夏祭りが始まっているのだ。

「しょうがねえなぁ……自分達だけきっちり決めやがって……」

 俺とお母さんはきっちり甚平と浴衣に着替えている。

 それにお母さんも今日は髪を上げているし、俺も整髪剤を使い、片方だけ後ろに流し、もう片方も少しふわっとさせ、ゆるゆるに流してきっちり仕上げている。

 我ながら超イケメンだと思う。

 惜しむらくはあまり甚平が似合ってないという事ぐらいか。普通に浴衣にするべきだった。

「あ、ちょっと待ってね」

 茜の家の呼び鈴を押すと、お姉さんの声が返ってくる。

 そして、十秒後。ガチャリと開いた扉の先には紛うことなき天使が居た。

「……変、じゃないかな?」

 茜は朱色に白の混ざった、なかなかのお値段がしそうな浴衣を着ており、髪もいつもは枝毛一本ないキューティクルなストレートだが、今日はふわふわにセットしている。

 可愛い。本当にその言葉以外思い浮かばない。

「い、いや、よく似合ってるよ! いつも可愛いけど今日はとびっきりにか、可愛いよ!」

「……悠斗くんもいつもは可愛いけど、今日は格好いいよ」

 クスクスと笑い、軽口を返してくる茜。

 けれど、玄関前の明かりに照らされた茜の頬には浴衣と同じように朱色が混ざっている。

「ぐぬぬ……!」

 まぁ、それは俺も同じなのだが。だって可愛いんだもん。

 赤面症じゃないはずなんだけどなぁ。最近、顔が赤くなることが多い。

「私には何もないのかな?」

 お姉さんが少しだけ口を尖らせながら、そう言ってくる。

「も、もちろん綺麗ですよ、とても。……ね、お父さん!」

 とりあえずお父さんに振ってみる。

「だな。俺がもう少し若ければ……」

「若ければ……何なのかな?」

 俺の振りに答えたお父さんの首根っこをお母さんが掴んでいる。

 馬鹿なお父さんだなぁ。

「エリ……落ち着くんだ……頸動脈を……締めるんじゃない!」

「何で私には何も言わなかったのかな? かなかな?」

「ちょっ……神木さん! 落ち着いて……」

 お姉さんがお母さんを止めに入る。よし……今のうちに……。

「茜、これこの前言ってた曲なんだけど……」

「え?」

 俺は茜に音楽プレーヤーに繋いだイヤホンを渡す。

 そしてあるデータを再生する。

「…………」

 コクリと茜が頷いたのを確認して、イヤホンを回収する。

「おい、ゆ、悠斗! お前のせいなんだから何とか……しろよ!」

 苦しそうなお父さんからのSOSが入る。仕方ないなぁ。

「お母さんもお父さんも惚気るのはやめて、早く行こうよ。もう夏祭りは始まってるんだからさ!」

「だ、誰も、惚気けてなんかっ!」

 動揺したお母さんがお父さんの首から手を離す。

 あとはお父さんの仕事だ。

「っ……ゲホッ! ゲホッ! フー……ふー……いや、エリ。何も言わなかったんじゃない、言えなかったんだよ。お前があまりに美しくてな」

 お父さんは呼吸を整えると、お母さんの顎に手を当てまっすぐに見つめて言った。

 ……あれが顎くいって奴か……。なるほど。 

「な、何言ってるのよ! もう! 馬鹿ね! 森羅さんの前で……!」

「い、いえ。お気になさらず……」

 お父さんの攻撃に対してお母さんは、照れたように顔を手で扇いでいる。
 
 茶番だなぁ。まったく。知ってるんだぞ、俺のいないところでは気持ち悪いぐらいイチャついてるのを。

「じゃあ、行きましょうか」

 うちの親二人が落ち着いた所で、お姉さんが声をかける。

「あ、はい!」

「……楽しみ」

 それを合図に全員で夏祭りの会場へと向かった。


◆◇◆


「やっぱり人多いわね……」

「まあ、夏休み最終日だからなぁ」

 お父さんとお母さんが疲れた顔で呟く。そんなに嫌なら付いてこなくてもいいのに。

「まずは何かしようか?」

「ボク、お祭り初めてだから……」

 茜に尋ねるとそんな答えが返ってくる。そういえばそうか。

 となると、うーん……。

「まずはベタに焼きとうもろこしかな……」

「とうもろこし?」

「あーいいな。俺も食べよう」

 茜が首を捻り、お父さんが乗っかってくる。

 あれを食べないと始まった感がないんだよなぁ。

「じゃあ、まずはそれ食べながら歩いて、気になったらやる感じで行こう」

「だな。じゃあ、食べる人?」

 お父さんが尋ねると全員が手を上げる。やはり、あのバター醤油の香りには誰も勝てないようだ。

「じゃあ、買ってくる」

「あ、私も行きます」

 買いに行こうとするお父さんを、お姉さんが財布を出しながら追いかける。

 んー……チャンスと言えばチャンスだけど、ここは油断させる為にも二人を待とう。

 しばらく茜と他愛もない話をしていると、両手に焼きとうもろこしを持ったお父さんと、お姉さんが戻ってくる。

「買ってきたぞー」

「ありがとー」

 お父さんは俺とお母さんに一本ずつ渡し、お姉さんは茜に渡している。

「…………」

 茜とお姉さんは手に持ったまま、ジッとこちらを見ている。

 もしかして食べ方がわからないのだろうか?

 なら……。

「美味い!」

 俺はあえて豪快にかぶりつき、焼きとうもろこしを食べる。

 これが一番美味しいからね。

「…………」

 それを見た茜も焼きとうもろこしに口をつける。

「……あ、美味しい」

 茜は何度も何度もとうもろこしに噛み付いていく。

 ……何で一粒ずつ食べてるんだ……。無駄に凄いけど。鳥かよ。

「じゃあ、とりあえずまっすぐ端まで進むから、何かあったら言って」

 俺たちはそのまま屋台で溢れかえる道を進む。

 流石に五人横並びでは進めないので、お父さんを先頭に、俺と茜、お母さんとお姉さんのペアが続いている。

 俺たちを間に挟んだのは逃さない為だろうか。信用ないなぁ。まったく。

 あの前科が効いているのだろうか。

「あれは?」

「えーと、あれは金魚掬いだね。やってみる?」

「うん」

 さっそく茜が指差したのは祭りの定番、金魚掬い。

 狭い水桶に所狭しと入れられた哀れな金魚達を掬って救ってやる遊びだ。

「まずは俺がやってみるね」

「頑張れよー、悠斗」

 けだる気なお父さんの応援を聞き流し、店主からポイを貰い、集中する。

「………」

 実はやったことがない。だって、普通にいらないし。女の子も欲しがらなかったから。

 ま、要はあまり水に濡らさず、金魚を掬えばいいわけだ。なら、水面付近の金魚を狙い、素早く横に滑らせるように掬えばいいだけだ。

 つまり、

「こうだっ!」

 ボチャン。

 大きな音を立て、掬い上げたデメキンは水へと戻っていった。

 ……なるほど。

「おじさん、もう一回」

 俺は新たなポイを貰うと、再び狙いをつける。

 大きいのを狙いすぎたな。蜘蛛の糸も結局は重さで千切れた訳だしな……まずは小さいのを……。

「今だ!」

 パチャン。

 小さな音を立てて水に着水した金魚は、俺をあざ笑うように優雅に泳いでいく。

「……もう一回。おじさん」

 今度こそ。今度こそイケる。


◆◇◆


「倍プッシュだ……っ!」

 俺はポイを両手に構える。救う先の茶碗はお母さんに持ってもらった。

 お父さんはニヤニヤするばかりで使えない。

「捉えた!」

 俺の左右の手が、可哀想な金魚を掬い上げ――。
 


「……うん。やっぱり俺には出来ないよ。こんなの人間のエゴだよ!」

「あ、やった! 一匹取れたよ!」

 俺が生命の大切さに気づき、遊びでやるものじゃないと理解したその隣では、いつの間にか茜が参戦している。

 しかも、一匹掬えたとはしゃいでいる。

 袖まくりなんかして、まるっきり本気モードのようだ。

「あ、二匹目」

 …………。まあ、ビギナーズラックって奴かな。俺もビギナーだけど。

「更にもう一匹!」

 ………………そうだ!

「おっさん! もう一回だ!」

 俺は新たなポイを手に入れると、今度こそ金魚を掬い上げる。

 しかもデメキンだ。

「茜、これを見てくれ。こいつをどう思う?」

「……え? 別に……。可愛くない金魚だなって……」

 ちぇ……このネタは知らないのか。まあ、知っててもちょっと嫌だけど。

「それより茜、調子がいいじゃん」

「思ったより簡単だね、これ」

 茜は既に五匹目を掬い上げている。まだポイも健在だ。

「じゃあさ、一つ賭けをしないか?」

「賭け?」

「ああ。一匹でも俺が多く掬い上げたなら、俺と――」

 付き合ってくれ。そう言おうとするが、何故か胸の辺りでつっかえてしまい、言葉に出来ない。

 今まで何度となく言ってきたのに……おかしいなぁ。

「俺と?」

 茜が不思議そうに俺の顔を覗き込む。ああもう、可愛いなぁ。

「その、お、俺と一緒に登下校しよう」

 あー! 俺はガキかよ! もう! 

 ……何を言ってるんだ俺は……。

「え? うーん……それはいいけど」

「はい! じゃあ茜からね!」

 俺は照れを隠すように一歩後ろに下がる。茜がスペースを広く使えるように。

 しかし、茜は俺の方を見て口を尖らせる。

「待ってよ。ボクが勝ったときの条件言ってないよ?」

「あ、そうか。……あんまり高い物は無理だぞ? うち小遣い制だし」

 まあ、お父さんに言えばデート代とかは出してくれるから困った事はないけれど。

 ……茜が欲しいものか……何だろ? 結構食い意地は張ってるみたいだし、食べ物かな。

 それとも――

「ボクが勝ったら……悠斗くんはボクと一緒に登下校すること!」

「……っ!」

 満面の笑みでそう言った茜を抱き締めたくてしょうがない。

 でも、監視付きの今は出来ない。

 ぐぬぬ。

「ま、でも負けたくないから本気でやるよ!」

 そう言うと茜はまた一匹、金魚を掬い上げる。

 普通に凄い……。


◆◇◆


「あちゃー、破けちゃった」

「やっとか……」

 茜は結局、十五匹目にしてポイが破れてしまった。

 おじさんにビニールの袋に移して貰った茜は、それをこちらに見せつけ、ニヤリと挑発的な笑みを向けてくる。

 俺の一匹目はまぐれだとでも思っているのだろう。

 だが、

「甘い! 甘い!」

 俺はバシャバシャと金魚を掬っていく。

 これまでの苦戦はどこへやら、圧倒的なスピードで。

「……ふー」

 最終的に十七匹目でポイは破れ、同じようにおじさんにビニールに移して貰った。

 そして、茜達の所へと戻った俺に向けられた視線は羨望、では無く懐疑の視線だった。

 主に茜とそのお姉さんの。

「……はぁ。悠斗くん、ズルは駄目だよ」

「流石にバレバレじゃないかしら?」

「な、何のことかな? 負けたからっていちゃもんつけちゃ駄目だもん。なんつって」

 動揺してしょうもない冗談を言ってしまった。駄目だもんってオイ。

「悠斗くんのポイ、何故か濡れてもすぐ乾いてたんだよね」

「え? な、何のことかな?」

「お姉ちゃん、アレ」

 証拠はないんだ。後から何を言われようと、いちゃもんでしかない。

 そう考え、しらを切る俺の前に出されたのはお姉さんのスマホだ。

 そして、映し出された動画はさっきまでの俺。

 更に途中から俺の手元にズームされていた。

 そこに映っていたのは濡れたそばから乾いていくポイ。
 
 更に本当に一瞬だが、破けたポイがまた元のポイに戻っている。

「ポイを復元してたでしょ? ズルじゃん」

「……ズルでも何でもない、これも俺の力だもん」

 だもんじゃねーよ。俺。

「いーや、ズルだね。だって破れないポイで掬うなんてゲーム性が全くないじゃん!」

 ……確かに。ただ金魚掬うだけで全然面白くなかったな。

「だから、引き分けね。引き分け」

 引き分けかぁ。まあ、しょうがない。茜が可愛いしもう何でもいいや。

「じゃあ、次は射的で勝負だ」

 俺はちょっと離れた屋台を指差し、そこに向かって歩いていく。

 こっそり自分の得意なものへ誘導してみた訳だ。

「射的はわかるよ。商品に当てて、倒せばいいんだよね?」

「そうそう。じゃ、やってみるか」

「うん!」

 俺と茜はおじさんから銃を受け取り、思い思いに商品を狙い、当てていく。

 やはり高額な物は倒れないが、小さいお菓子何かは簡単に倒れていく。

「それなりに取れたな……」

 俺は戦利品をビニールに入れて貰い、茜の方を見る。

 これは勝ったなって……。

「……おっかしいなぁ……」

 茜はどうやら勝負の事も忘れて、一つの景品を狙っているようだ。

 それは小さな箱に入ったキーホルダー。

「うー……なんで当たってるのに倒れないのさー」

「…………」

 確かに茜が撃った玉は景品に当たっている。しかし、倒れるどころか揺らぎもしない。

 恐らく、後ろに支えが置かれているのだろう。

「あーもう!」

 確かあのキーホルダーはとある雑誌の抽選で当たるものだ。

 茜は当たらなかったのか。ふむふむ。

「しょうがないなぁ……」

 俺はその商品の対角線上に移動し、狙いを定め銃を撃った。

「……よしっ!」
 
 そして、放たれた玉は箱の側面に当たり、景品は見事に倒れた。

「……あ、後ろに支えがあるじゃん! ズルだよ! ズル!」

 茜が指差している先、隠していた商品が倒れ、顕になった場所には確かに木製の支えが置かれている。

「まあまあ、茜。取れたからいいじゃん。ね、おじさん?」

「……あ、ああ」

 俺達だけだったら台を越えただの、何だの言って拒んだかもしれないが、後ろには俺の両親も茜のお姉さんも居る。

 おじさんは渋々といった表情でキーホルダーを俺に渡した。

「じゃ、茜。これ」

「うう……。ありがとう」

 悔しそうに受け取る茜を見て、俺は思わず苦笑してしまう。

 自分で取りたかったのだろう。可愛いなぁ、もう。

 ま、そんな事よりそろそろか……。

「あれ? 神木?」

「お、中島か」

「やっぱりお前も来てたのかー」

 よしよし。それなりに上手くやれてるじゃねーか。恩に着るよ。中島。

「あ、そうだ。ちょっと神木に話したい事があったんだった。ちょっと来てくれ」

「何だよ、しょうがねーなぁ……。ごめん、ちょっと行ってくるね。あ、これ持ってて」

 俺は茜達に頭を下げ、お母さんに金魚とお菓子と音楽プレーヤーを渡し、中島に着いていく。

 後は茜が上手くやってくれれば……。


◆◇◆


「良かった。上手くいったみたいだな」

「しっ。……まだトイレの前にお姉ちゃん居るから静かにね」

 俺と茜は何とか合流を果たしていた。

 俺は中島に着いていき、茜はトイレに行くと言って、トイレの窓から逃げ出す。

 入り口までは着いてきたみたいだけど、流石に中には入らなかったか。よしよし。

「……じゃあ、俺は祭りに戻るぞ」

「すまんね。今度、何か奢るよ」

「ごめんね。弘君」

「……ま、いいよ。これくらい」

 中まで着いて来られた場合に備え、中島にも来てもらっていたが、無事に合流出来たので祭りに戻ってもらった。

 俺達はそんな中島とは裏腹に、屋台で賑わう場所から少し離れた高台の上に作られた公園へと向かう。

 なぜなら一番花火が綺麗に見える場所だからだ。

「花火まであと十分位か……」

「でも、お姉ちゃん達心配してないかな?」

「大丈夫だよ。音楽プレーヤーの録音したファイルを聞いて貰えたらわかるはずだし、お姉さん達が心配してるのは、茜が人と接触する事だろ? それも考えて、ここに来たんだから」

 この公園は随分と昔に作られていて、俺も偶然見つけた、地図で調べても出てこない場所だ。

 そんな訳だからか、辺りに人影は少ない。

「ま、怒られはするだろうけどね。それは覚悟しとこう」

「……そうだね」

 二人して力なく笑った所で、口笛じみた音が鳴り、一瞬の破裂音と共に夜空に大輪の花が咲く。

 始まったようだ。

「うわぁ……凄い……」

 それを見た茜はぽかんと口を開けて呟く。

「…………」

 その横顔を見ていると、心臓の動きが早くなり、何だか胸が締め付けられるように苦しい。

 やっぱりこれは……。

「……確かに綺麗だよ」

 俺は茜に聞こえないようにそう呟くと、茜の横顔から視線を外し、連続して打ち上げられる花火を見る。

 色とりどりの花が、夜空に重なるように咲き、そして散っていく。

「…………」

「…………」

 俺と茜は思わず言葉を失くし、ただただその光景を眺める。


「早く! 早く! もう上がってるわよ!」

 そんな静寂を打ち破るように、女の子の声が響く。

 ……聞き覚えのある声だ。

「沙織、まだ始まったばかりなんたから……そんな慌てなくても……」

「それはそうだけど……って、悠斗?」

 上がってきたのは沙織と志保と由紀と香織の四人。

 よりにもよって、こんな時にこんな場所に来るなよ……。

「……来れなくなったって聞いてたんだけど?」

「そうだね」

「嘘ついたんだ? 私達に」

「ついてないよ」

「はあ!? 来れないって言ってたのに来てんじゃん! どういう事なのよ!?」

 沙織は俺の所に近づき、胸ぐらを掴む。あーどうしよう。

「…………」

 辺りには花火の音が鳴り響いている。

 そんな中、沙織の顔をジッと見つめ、他の三人の顔も眺める。

 確かに可愛い。でも、何か違うんだ。

 ドキドキしないし、苦しくもならない。

「……君達とは行けなくなったって言ったんだよ……」

「はあ!?」

 やっぱりそういう事なんだろう。俺は……。

「ごめん、みんな。俺は……」

「アオーーーンッ!」

 俺の声も花火の音もかき消すような咆哮が辺りに響く。

「っ!?」

 その声は野生を感じさせるには充分の迫力があり、慌てて声のした方向を見る。

「な、何よ。今の声は?」

「……野犬だ……」

 花火の明かりに照らされた一瞬、大型の犬のシルエットが見えた。

 まずい。まずい。まずい!

「茜も皆も早く逃げて! 大人の人を呼んで来ないと!」

「きゃああああ!」

 俺の指示を聞くよりも早く、沙織たちは我先にと逃げ出し、当然俺と茜もその後を追う。

 早く。早く。速く。速く。

「バウッ! ワウ!」

 だが、野犬も俺達の後を追って走ってくる。

 不味い。速すぎる。やばいやばい。

「ど、ど、とうしよう!? 悠斗ぉ……」

 沙織が混乱しながら尋ねてくる。その顔からは先程までの怒りは完全に消え、ただ恐怖と不安で一杯のようだ。

 ……仕方ない、か。……はぁ。

「俺が食い止めるよ……。だから、本気で急いでね」
「でも……」
「いいから。早く呼んできてくれないと逆に困るよ。沙織ちゃんが一番足速いんだからさ」
「っ! わ、わかった! すぐだから!」

 沙織ちゃん達が走っていくのを見送りながら、俺は近くに落ちていた木の棒を拾い上げ、走ってくる野犬に向ける。

「………っ」

 怖い。迫る大きな黒い影に、足がガクガクと震え、じんわりと浮かぶ涙で視界も揺らぐ。

 でも、それでも――。

「っ!? あ、茜も早く走って! 何やってるのさ!」

 走っていたはずの茜は、俺の方を振り返り、足を止めている。

 何で逃げてないんだよ。茜が逃げないと俺が食い止める意味が……。

「茜! 駄目だって! 早く!」

「……嫌だよ。ボ、ボクが悠斗くんを置いて逃げれる訳がな、ないじゃんか……」

「……そんな、駄目だ! お願いだから逃げてよ!」

 茜の足も声も震えている。やっぱり茜も怖いんだ。なのに、何で……。

「それに、ボクの力なら……」

 確かに茜の力を使えば野犬を殺せるかも知れない。

 でも――

「ガウウウゥ!」

「うわっ!?」

 一瞬の内に目の前に来た野犬に向け、慌てて木の棒を振る。

 しかし、当然のように簡単に躱されてしまった。

「バウッ!」

「っうわ!」

 野犬が俺に向かって勢いよく飛び掛かり、そのまま押し倒してくる。

「悠斗くん!」

「来るな!」

 俺の名前を叫び、駆け寄ってくる茜を声で静止する。

 何とか木の棒を噛ませた事で野犬の牙は俺に届いていない。

 だけど、爪までは防げない。胸に肩に顔に、幾重もの赤い線が入り、血が流れていく。

 ……くそっ。何だコイツ。こんな犬見たことないぞ。

「ぐううっ! 痛い……痛いよお……な、何でこんな……」

 滲んでいた涙が頬を流れる。痛い。痛いんだよ。それに怖い。駄目だ。

 ……女の子の前ではいかなる時も格好つけるべし。

 お父さんからそう教わってから、ずっと俺はその教えを守ってきた。

 でも痛いし、怖いんだ。本当は俺だって逃げたかったんだ。今だってそうだ。

 もしかすると、沙織ちゃん達だけだったなら俺は……。

 だけど……側に茜が居たから。俺の大好きな茜が居たから。
 
 なのに……。

「悠斗くん……」

「な、何で逃げて、くれない、のさ……これじゃ、俺……」

 茜は震える足で俺に近づいて来ている。

 何で逃げてくれないんだよ! 今も! あの時も! 今度は逃げてって俺言ったじゃないか!

「待ってて……も、もうすぐだから」

「駄目、だって! 馬鹿! 近づいちゃ駄目だって!」

 茜は少しずつ近づいて来ている。

 駄目だ駄目だ駄目だ。

 野犬が茜に噛み付いたらどうするんだよ……。そりゃ野犬は死ぬかも知れないけど、茜だって無事じゃ済まないよ……。

 俺は……それだけは……。

「…………」

 そうだよ……茜は、茜だけは守らないと。誓ったんだから。絶対に幸せにするって。

 このままだと駄目だ……。覚悟を決めるしかない。

「っっ! う、うううわあああああああ逃げてええええ!」

 俺は木の棒から手を離し、野犬を肩に噛みつかせ、その頭を力の限り押さえる。

 あまりの痛さに絶叫してしまうが、それでも茜に逃げるよう叫ぶ。

 でも、それでもやっぱり茜は……。

「っ! ゆ、悠斗くん!」

 野犬に近づき、手を当てる茜。

 やっぱりそうなるか……なら、俺が押さえてさえいれば茜には……いや。

「本当、お願いだ。逃げてよ茜。もう大丈夫だから。早く」

 ……最悪だ……もう力が入らない。押さえていられない。なのに、なのに一番大事な人が側にいる。

「……もう、駄目」

 茜の力で野犬が死ぬまでどれぐらいかかるだろう。

 お願いだから俺の方に……ってあれ?

 いつの間にか野犬の頭から力が抜けている。暴れていた手足も、力無く俺に乗っかっているだけだ。

「こ、これって茜……」

「悠斗くん! 悠斗くん!」

「ちょっと待って、茜……うっ……」

 茜は野犬をどけようと、その体を押している。

 だけど、野犬は少しも動かない。

 早いところ、復元で傷を治して手伝わないと……痛いし、意識が朦朧としてきた。

「…………悠斗くぅん……!」

 はぁ……また、泣かせちゃったな。最低だ。俺は。

 いや、とにかく……今は。

「…………」

 目を瞑り、裂かれた肉も流れ出た血液も、全てが俺の体に戻るようイメージする。

 復元だ。

「…………あれ?」

 だけど、戻らない。

 血液はどんどん流れていっているし、傷だらけの顔や胸や肩からは相変わらず激痛が襲って来ている。

 まさか……嘘だろ? 体力が足りないのか? そんな、馬鹿な。それとも、別の……駄目だ。もう何も考えられ、ない。

 最後に、最後に茜に伝えないと……。言わないと、俺の……。

「茜……」

「ゆ、悠斗くん、早く復元を……」

 茜は俺が呼びかけると、焦った顔でこちらを見る。

 頭がいい茜は、俺がいつまでも傷だらけのままでいる事から気づいているはずだ……。

「聞いて、茜」

「嫌だ、嫌だよ! 早く傷をどうにかしなよ! 悠斗くん!」

 茜の大粒の涙が俺の顔にいくつも落ちてくる。

 もしも、もしもこれが漫画や映画なら、この涙によって俺の体も元通りになったのかも知れない。

 だけど、現実は厳しい。

 依然として俺の顔も体も傷だらけ。でも、それでも、最後の力を振り絞る。

 言わなきゃいけないことがあるから。

「茜……。俺は、俺はね……初めて会った時からずっと……そう。ずっと。茜の事が、大好きだったんだ……」

 ……やっと言えた。今まで気付けなかった、いや、気づいてはいた、か。

 ただ、言えなかったんだ。 
 
 俺は……だって、本当は、茜と同じ照れ屋、だから。

「……うぅ……。ボ、ボクも……ボクもそうだよぉ……だから、お願いだから死なないでよ……ボクを一人にしないでよぉ!」

 茜は野犬を押すのをやめて、すがりつくように俺の服を掴んでいる。

 良かった……。茜も俺の事が好きだったんだ。こんな時なのに、腹の底から喜びが湧き上がってくる。

「……嬉しい……本気で。……大丈夫、俺が、こんな、こんなところで……俺が……死ぬわけ……だって……まだいっぱい……まだ茜と、一緒に……誓った、んだ……」

 見えなくなっていく視界に映る茜の顔は、あの時のように涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。

 やっばりこれじゃ駄目だ……。でも、もう眠た、い。次……絶対……笑顔、で

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