生意気な義弟ができました。
生意気な義弟ができました。35話
「誠くん、表にこれ出してきてくれる?」
店を出ていくお客さんを一礼して見送り手の空いた俺に、恵太さんが立て掛け式のプレートを手渡してきた。どうやら、新作のコーヒーを宣伝するもののようだ。
「新作、今日から出すんすね?」
「うん、そろそろいいかなって思ってね」
俺からしたらやっとか、というくらいこの日を待ち望んでいた。早くお客さんの反応を見たいものだ。
言われた通りプレートを表に立て掛けてから店に入ろうとすると、後ろから誰かに声をかけられた。
「誠さん、こんにちは」
そう呼びかけてきたのは、この間俺が体調を崩したときに一時的に店で働いていた、元バイトの高坂さんだった。
「…あ、どーも」
「あ!やっと新作出るんですね?今日来てよかった」
今俺が置いたばかりのプレートを見て、高坂さんは嬉しそうに両手を合わせて笑った。俺は、その様子を見て店の扉を開けて高坂さんを入店するよう促した。
「どーぞ、新作飲んでってください」
結局、恵太さんは俺が文句を言ったらすぐに高坂さんをバイトを辞めるように話してくれたらしい。高坂さんも、特に不平を言うでもなく素直にバイトを辞めた。
……少し悪いけど、ここのバイトは俺一人で十分だ。
それ以降は、こうして何度か客として高坂さんはこの店へ来店するようになった。とは言えど恐らく、高坂さんは恵太さんに会いたいからこうして足を運ぶのだろう。
「あれ、高坂さん、今日は展示会があるんじゃなかったの?」
恵太さんが、店に入ってきた高坂さんを見るなり少し驚いたようにしてそう問いかけた。高坂さんはカウンター席に座って恵太さんを見る。
「今日雨の予報だったので、屋外でやるはずの展示会も日程変更することになったんです。なので今日はオフで、マスターのコーヒーを飲みに来ました」
高坂さんは、ニコッと笑う。高坂さんは、どうやら美術系の専門学生らしい。
俺は彼女の話を聞いて、店内の窓ガラスから空を見上げた。確かに空はどんより曇っている。
「それじゃあ、早速新作飲んでもらおうかな。記念すべき新作一杯目だよ」
恵太さんがそう言うと、高坂さんは嬉しそうにした。
前に何度か俺も飲んだことがあるが、正式にメニューとして店に出してからは高坂さんが一番目のお客さんだ。俺は少し悔しく思ったものの、バイト中であるからには客としてコーヒーを飲むことはできないと心で言い聞かせる。
「あ、そうだ。展示会のパンフレット持ってきたんです、よかったら見てみてください。日程変更で来週末になったんですけど、二駅くらい先のホールでやるんです」
そう言って鞄からカラフルな冊子を取り出してカウンター越しに恵太さんに手渡した。恵太さんが開いた冊子を、俺も横から覗き込む。
「へえ、なんだか楽しそうな展示会だね。予定が合えば見に行くよ」
「ありがとうございます、よかったら誠さんも来てください」
高坂さんが屈託のない笑顔でそう言うので、俺はこくりとうなづいた。
そんな他愛のない話をして、いつも通り店での時間が流れていく。俺にとってそれが一番落ち着く時間で、安らぎでもある。ここに来る大体の常連客が、俺と同じように思っているのだろう。
最後のお客さんが帰ると、俺は急いで表の看板を店内にしまった。
「けい………マスター、本格的に雨降ってきたっぽいです」
「本当?そろそろお店閉めようか、きっともうお客さんも来ないだろうし」
俺が雨に濡れた看板をタオルで拭いていると、恵太さんがテーブル用の布巾を持ってカウンターから出てくる。
「別に、呼び方なんてなんでもいいんだよ?」
恵太さんがテーブルを拭きながらそう言った。
おそらく今俺が、恵太さんを呼び直したことを言っているのだろう。
「…なんていうか、公私混同?いや、違うかもしんないけど、バイト中はなんとなくそっちの方が落ち着くんです」
それに、"恵太さん"と名前を呼ぶと、どうしても甘えたくなってしまう気持ちがある。ただのマスターとバイトという関係だった時から恵太さんは何かと俺に甘かったが、それ以上の関係になってからはこれまでに増して俺は甘やかされている気がする。家に泊まりに行けば大抵のことは恵太さんがこなしてくれる。コーヒーを淹れるのはもちろんだが、お腹がすいたといえばすぐに何か作ってくれるし、泊まりに伴う送り迎えは必ず車でしてくれる。
そんな俺の最近どんどん培われていく怠惰を、バイトにまで持ち込むわけにはいかない。最も、俺が言えばバイトだろうがなんだろうが快くYESとしか答えなさそうな恵太さんだからこそ、俺はバイトでは甘やかされないように心掛けている。
「あ、そうだ。そういえば真澄、仲直りしたっぽいですよ」
俺がふいに思い出して口にする。
「あぁ、あのときはびっくりしたよ。零央くんが突然来たから何事かと思った、体調も悪そうだったし…」
「うちにも来ましたよ、すごい形相で」
「大丈夫だったのかな、零央くんは」
「あーなんか、零央くんの方は平気だったらしいですけど…今は真澄の方が熱で寝込んでるって聞きました。…まぁ、仲直りついでに風邪がうつるようなことでもしたんだと思いますけど」
俺が笑って言うと恵太さんも察したようで、早く治るといいね、と一言だけ言った。
何があったのかは知らないけど、真澄と零央くんのバカップルさには呆れるほどだ。お互い好きでたまらないくせに、すれ違いが起きてしまうらしい。
店を片付け終わると、店を出て扉を施錠する。それでから恵太さんは、こちらを振り返っていつものように聞く。
「誠くん、明日大学は?」
「明日は午後から講義っす」
俺がそう答えると、恵太さんは少し微笑んでから俺を車の助手席に乗るように促した。促されるままいつものように乗り込んで、シートベルトをつける。
バイト終わりに明日の予定を問う恵太さんの質問は、お泊まりの誘いだ。
恵太さんの車に乗るのももう随分と慣れて、バイト先のマスターの家に泊まりに行くのも、違和感なんてとっくに無くなっていた。いや、最初からそんなもの無かったのかもしれない。
「……恵太さんて、なんで俺のこと好きなんですか?」
ふと気になって、唐突にそんな質問をぶつけてみる。恵太さんは赤信号を停止して、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
「…どうして急にそんなこと聞くの?」
「いや、特に深い意味は無いんですけど、今まで聞いたことなかったなって思って」
どうやら恵太さんは俺を溺愛しているらしいが、いつからそんなことになったのか、何がきっかけなのか、全く知らない。
しばらく恵太さんが考えていると、赤だった信号が青に変わって、ゆっくりと車が発進する。そして恵太さんがやっと口を開いた。
「なんで、か……好意に理由をつけるのは難しいな」
「……そういうもんですかね」
恵太さんがそう言うならきっとそうなのだろう。確かに、少し難しい質問をしてしまった。俺だって、なんで恵太さんと付き合ってるのかと聞かれればきっかけはただの好奇心としか答えられないし、どこが好きとか、どれくらいとか、そういうことは明言できない。そもそも、俺の恵太さんへ対する好意が、恋愛なのかただの敬愛なのか、まだ曖昧な気もする。
俺は車の窓を伝う透明な雨粒をじっと見つめたまま考えた。耳には車のエンジン音と、硬い鉄のプレートに弾かれる雨音が大方を支配している。
そもそも、恵太さんはナオさんと恋人関係にあったわけで、俺のことなんか頭の隅にも無かったのではないだろうか。
「…恵太さん、なんでナオさんと別れたんですか?」
俺がふいに気になったことを口にすると、恵太さんは、え?と聞き返してきた。
「あーいや、ただ気になっただけで、別に言いたくないなら言わなくていいんですけど」
突然変なことを聞いてしまったと思い、俺は急いで引き返そうとする。しかし、恵太さんはまるで逃がさんとばかりに俺の質問に食いついてきた。
「どうして?」
さっきと同様、質問に質問で返してくる恵太さんに、俺は少しムッとした。
別に気になったのだから聞いてもいいだろう。
「恵太さんはなんで、どうしてって聞いてくるんですか」
俺が口を尖らせるようにしてそっぽを向いて言うと、運転中にも関わらず恵太さんは少し目を丸くしてこちらを見ているようだった。俺は思わず、前見てください、と忠告する。
「…あはは、ごめんね。なんでそんなこと聞くのか気になっちゃって」
俺がこんな子供っぽい態度をとったところで、大人な恵太さん相手には何も意味をなさないようだった。恵太さんはいつものように柔らかく笑って困った顔をするだけだった。
「誠くんが、ちょっとは僕のこと気になってくれてるのかなって思ったら嬉しくて。思い違いだったら謝るんだけど…」
「え、なんすかそれ」
そりゃあ気になって当然だろう、恋人なのだから。
恵太さんの言うことに腑に落ちないでいると、恵太さんは落ち着いた声音で喋り出した。
「誠くんはほとんど勢いで僕と関係持ってくれてるでしょ?もちろん、信用してないわけじゃないよ。この間僕のこと蔑ろにしたりしないって言ってくれたの、嬉しかったしね。…それでもやっぱり実感が無くて、まだちょっと複雑なんだ」
穏やかな表情のまま、恵太さんはそう言った。
「………コーヒーと、同じっすね」
俺が呟くようにそう言うと、恵太さんは、え?と疑問の意を向けてくる。
「ほんとはめちゃくちゃ美味いのに、いつもなかなか新作を表に出せないでいるじゃないですか、恵太さん。それと同じです。俺のこと、もっとちゃんと見てくださいよ」
少なくとも俺は、恵太さんに少しでも拒絶の意を示したことは一度もないはずだ。それなのにこの人は、やっぱり自信が足りていない。
すると恵太さんは、また困ったように笑った。
「…あはは、難しいな、誠くんってポーカーフェイスなところあるから…。……でも、誠くんのことはいつも誰よりも見てるよ?」
当然のように、平気でそんな恥ずかしいことを言ってのける恵太さんは、やっぱり俺よりもかっこいい大人な表情をしていた。たぶん俺は、この人には一生適わないんだと思う。
「浮気だよ」
唐突に、恵太さんはそのままの調子で呟く。俺は思わず何も言えないまま恵太さんを見つめてしまった。
「さっきの質問、どうしてナオと別れたのかって。きっかけは、ナオが他の男と関係を持ったことだったんだよ」
別に暗い顔をするでもなく、恵太さんは道路の向こうを見つめたまま話す。なぜだか俺は何も言えなくなって、ただ黙って聞いていた。
「ナオはちょっと盲目的なところがあってね。一途ではあるんだけど…振り向いてもらう為に、手段は問わない、小悪魔的な一面も持ち合わせてる」
確かに言う通りかもしれない。ナオさんは誰よりも行動派だし、現に今は恋人のいる俺へすら、猛烈なアプローチを仕掛けている。
けれどそれは、お互いが想い合っているなら何ら問題は無いのではないだろうか。そのとき既に恵太さんとナオさんは恋人関係であって、振り向いてもらう必要も何も無いはずだ。
口には出さなかったが、俺のその疑問を汲み取ったかのように恵太さんは話を続けた。
「原因は、僕の方だったと思うよ。僕の中でも無意識に、ナオとは別の子に惹かれていたんだ。それに僕よりも先に気づいたナオは、他の男と関係を持つことで僕の気を引こうとした」
良く言えば健気だが、確かに、ナオさんらしい気もする。
「僕に原因があるのかもしれないと考えたこともあったけど、もうその時点で駄目になってたんだと思うよ。そこで僕から別れを切り出したんだ。……何より、僕も気づいたから、僕の気持ちはもうナオの所にはない、別の子にあるんだって」
そう言ってちらりとこちらを伺うように視線を向けてきた。
おそらく、その別の子っていうのが、俺のことを言っているのだろう。
けれど俺はあえて何も言わずに続きに耳を傾けた。
「ナオはもちろん拒否したよ。それからナオとの攻防戦は結構長く続いたかな」
その結果が、あの日の修羅場に繋がったのか。確かにあの時、別れる別れないで言い争っていた気がする。
まるでもう笑い話のように恵太さんは笑った。そこで俺はやっと、言葉を発することが出来た。
「…ナオさん、方向転換早くないですか」
もうきっかり立ち直って俺へと切り替えているのだ。そういう所は心底尊敬する。
「ナオは執着してただけで、別に相手は僕じゃなくてもよかったんだと思う。それに、あの時その場しのぎだったとしても、誠くんは優しい言葉を掛けてくれてたでしょ?きっとそれに救われたんじゃないかな。僕はそのときしばらく優しい言葉なんて掛けてなかったしね」
「………そうなんすかね」
「うん、僕は心配だよ。次は誠くんがナオに狙われてるって思うと、どんな手段に出るか分かったものじゃない」
呆れるようにして、恵太さんは心底不安そうな顔でため息をついた。
けれど言うほど、今のところナオさんに危害を加えられた記憶は無い。ただ喫茶店に来たり遊びに誘われたり、積極的なアプローチを受けているだけだ。
「別れることになったのは僕が原因でもあるし、ナオには幸せになって欲しいと思うよ。……まぁ、誠くんを譲る予定は無いんだけどね」
どこか真剣な顔をしてそんなことを言う。
「恵太さんも物好きっすね」
「え?…誠くんもあんまり変わらないと思うけどなぁ」
いや、恵太さんほどの物好きはいないと思う。ナオさんのように綺麗な人なら納得はできるけど、相手がこのどこにでもいるような男子大学生の俺なんだから。
他愛もない話をしていればあっという間に恵太さんのマンションに着いた。相変わらず雨は降り続けていて、むしろ悪化しているようにも思える。
「誠くん、晩御飯すぐ食べる?それとも先にお風呂入る?」
「んー、風呂入ってきていいっすか」
俺がそう言えば、恵太さんはうなづいてくれる。
「…あ、一緒に入ります?」
俺が笑ってそう聞いてみれば、恵太さんは少し目を丸くしてから、こちらをじっと見つめた。
「…誠くん、大人をからかうのも大概にしてよ?」
「えー、別にそんなつもりは無いんすけど」
「誠くんってたまにすっごく無邪気、っていうか…悪戯仕掛けてくるよね」
恵太さんがなんとも言えない複雑な表情を浮かべてそう言った。
「ふふ、悪戯仕掛けられるの嫌いですか?」
「…ううん、そんなことないよ。むしろ誠くんからの悪戯なんて大歓迎。……ただ、ちょっと試されてるみたいでドキドキするな」
恵太さんはどこか不敵な笑みを浮かべてそう言った。いつもと違った雰囲気で見つめられ、少しドキリとする。
あの、いつもの頼りなさげな雰囲気を消し去った恵太さんは、なんというか、行為中の恵太さんに近い。
俺は恵太さんの変なスイッチを押してしまわないうちに、そそくさと着替えを持って脱衣所に入った。何度も泊まりに来ているので、もちろん自分の着替えだってこの家には置いてある。初めに私物を持ち込んでいいかと恵太さんに聞いたとき、恵太さんはすごく嬉しそうな顔をしてもちろんと答えてくれた。洗面台に置かれた二人分の歯ブラシを見ると、自分にも恋人ができたのだとなぜだか今更実感する。
お風呂から出れば、恵太さんはソファで何かを読んでいた。俺はその後ろにまわって肩越しに覗き込む。
「あ、それ高坂さんの」
「そう、来週末にやるって言ってた展示会。よかったら誠くん一緒に行かない?」
恵太さんは昼間にもらったカラフルなパンフレットをこちらに見せて言った。
「ん、何気初デートじゃないですか?」
「そうだね、いつもバイトか家でしか過ごしてないからね」
「楽しみにしてます、恵太さん」
俺が笑ってそう言うと、恵太さんは穏やかに微笑んだ。
そして展示会当日、事件は起きた。
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コメント
きつね
まってました!!!!!最近たくさんお話が読めて嬉しいです!次回も楽しみにしてます!(๑• ̀ω•́๑)✧