相殺性理論

北西時雨

相殺性理論

 人の歴史というものは、常に戦いの歴史でした。
 人というものは、すぐに対立し、争い、お互いを傷付けてきました。
 しかし、それからは決別しなくてはなりません。限りある尊い命をもっと大切にしなくてはいけないのです。
 人々は争いをやめ、武器を捨て始めました。人を傷つけるための道具など要らないのです。
 剣を捨て、銃を捨て、軍事を撤廃しました。学校や病院を増やし、福祉を充実させるために、資源や人員を当てるようにしました。
 しかし、いきなりは上手くいきません。建前では武器を捨てても、争う本能は簡単には消しされないのです。
 剣がなくとも、拳をふるいます。
 人々は法をつくり、拳をふるう者を罰しました。ある者は牢に入れられ、ある者は財産を剥奪されました。
 されど、また拳をふるいます。ひどいときは、人を殺してしまうこともありました。
 人殺しを死刑にしても、暴力はなくなりませんでした。人の心を操ることはできません。いくら教育をしっかりしても、刑を厳しくしても、暴力は減りません。人々は頭を悩ませました。
 度重なる会議の末、
「手があるから人を殴る。殴るような手は、切ってなくしてしまえばいい」
 と結論が付き、新しい刑罰である「撲滅刑」が考案されました。
 「撲滅刑」は、暴力の撲滅を目的としてつくられました。犯罪の元を根絶するために行われます。
 それからは、殴った者は腕を切られました。罪人は、その先一生、殴った腕を忌みながら過ごしました。
 次第に、腕のない者が増えていきました。罪人だけでなく、「殴りたいわけじゃない。だが、手があると殴ってしまう」と言って、自ら腕を切り始める者もいました。謙虚な彼らは賞賛され、福祉の手が差し伸べられました。
 しかし、暴力はなくなりませんでした。
 腕がなくとも、足が出ます。足を出して、蹴る者が現われ始めました。
 蹴る者は、足を切られました。次第に、足のない者が増えていきました。
 腕を切った善人の中に、足を切り始める者もいました。そして、腕も足もない者が、たくさん増えました。
 福祉の手は差し伸べられましたが、腕も足もない者が増えすぎて、だんだん追いつかなくなってきました。
 このままではいつか滅びてしまう。やはり、人の争う本能に屈するしかないのか。人々は頭を悩ませました。




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「人々は悩んだ挙句、一つの結論を出しました」
 教壇に立つ教師が続ける。
「――『何も見なければ、腹を立てることも手を出すこともない』――それから、人々は見ることをやめました」
 教師は、手元の教科書に指を当てて、点字を読みながら授業をしている。周りを見渡すと、私以外の殆どの学生が点字で教科書を読んでいた。


 外界との接触を絶った小さな村で、「撲滅刑」が執行されて二百年余り。今では殆どの者がその刑を受けなくなった。
 村の人口の七割が今では盲目である。多くは、胎内にいる時に、親の意思で投薬により視力を失い産まれてくる。
 盲目者には介助用のロボットとコンピュータ、多少の補助金が支給される。外を歩くと、多くの者はロボットに手を引かれるようにして歩いていた。
 私は、この村の中では珍しく盲目ではなかった。父親が投薬を拒否したためだ。母親も最初は反対していたが、最終的には投薬をしなかった。
 母親は盲目だが、父親は盲目ではなかった。父は、唯一の子どもであった私をよくあちこち連れて出かけ、色々なものを見せてくれた。
 父は「撲滅刑」や今の村の状況を否定はしなかった。それでも、
「もし、自分も初めから盲目なら、何も悩まずに皆と同じように生きていたかもしれない。でも、色んなものを、景色を見られて……何より、母さんやお前の顔が見られて、良かったと思ってる」
 と、まだ小さかった私を肩車して、何度も言っていた。自分の背よりずっと高いところから見た景色は、いつもワクワクして綺麗なものだった。


「――私たちは、発達した科学力のおかげで豊かな生活を送ることができます。また、撲滅刑の効果もあり、罪を犯す者は殆どいません。福祉も充実しています。たまに起こる犯罪は、殆どが目の見える者たちです。私たちは目から入る光は失いましたが、未来への希望の光は目の見える者よりずっと見えています」
 教師の演説が聞こえる。無意識に、私は膝の上の手に力が入る。
 目の見える者が珍しいこの村では、私は奇異な存在だった。投薬を行わなければ、盲目にならない。投薬を行わなかったのは、隠し子や孤児が多い。実際、私の父親は孤児だった。
 だからか、幼い頃はあることないこと噂された。中には直接――主に私や両親のことを――悪く言ってくる者もいた。
 なので、進学してからは、あまり自分が盲目でないことを言っていない。言わずに静かに過ごしていれば大抵はばれなかった。
「私たちは、『暴力』とは無縁です」
「先生」
 色々考えるより先に声を上げていた。
「なんでしょう?」
 優しい声色で教師が尋ねる。
「……私は、小さい頃よく悪口を言われました。確かに直接殴られたり、蹴られたりすることはありませんが、何も見えなくても、ひどいことを言われたり言ったりします。これは、」
 普段異論などしない私の口が震えている。
「これは、『暴力』ではないのですか?」
「はい?」
 教師の低い声。教室中がざわざわとし出す。
 教師が教壇から下りて、杖を突きながら近づいてくる。コツコツという靴が床を突く音。カツカツという杖が机を突く音。
 音が近づいてくる度に手の震えが止まらなくなってくる。
 音が私の横で止まる。教師が私の耳元で、こう囁いた。
「ならば耳と口を潰しましょう」

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