悪役令嬢のままでいなさい!

顔面ヒロシ

☆276 解放された呪縛







 東雲先輩が、ここに来ている……。
そんな夢のような言葉が聞こえて、泣き濡れていた私の意識がようやく浮上した。


 ……会いたい。
もう二度と本心から言葉を交わすことなどできないのかもしれないけれど、彼と会って直接話がしたい。
そんな風に思った八重の本当の気持ちとは裏腹に、奈々子は歯ぎしりをした。


 月之宮家からの正式な招待状を持っている以上、日之宮家の令嬢であっても自分に妨害することはできない。
そのことに気が付き、追い詰められた彼女は必死に言い募った。


「アレはここに呼んではいけません! あの男の正体はアヤカシですわ! あのような汚れたモノを通せば、災厄が襲いかかるやも……」
「ほう、君はその東雲という男を妖怪だというのかね」
 馬鹿にしたように、冷ややかな眼差しを八重の父は奈々子へと向けた。


「妄言も大概にしてもらおうか。この使用人の報告では相手は人間の姿をしているそうではないか……私立慶水高校の首席も並大抵の努力でなれるものではあるまい。私はそういう点では公平に物事を見ているつもりだ」
 そこまで話したところで、
「気の毒だとは思うが、君はしばらく黙りたまえ」と、八重の父親は厳しく言った。


 己のドレスと同じくらいに顔を真っ赤にした奈々子は、悔しさに唇を噛む。そこからは血が滲んでいた。
 どうして、こんなことになるのよ……。
どこから間違えた? どこの手順を誤った? 何をしていればこうならなかった?
思考が頭の中を駆け巡る中、奈々子は屈辱的なことに言葉を発することも許されない。


「通せ。どのような人物なのか興味がある」
 横柄な口調で、八重の父親は目を細めた。心霊の類を信じていない人間だが、今の奈々子の一言で逆に興味をそそられたのだ。


「……恋人なのではありません」
 そこで八重が呟くと、「その辺りはどうでも良い」と父から笑われた。
そう言われてしまえば、何も反論できない。いくら恋愛関係ではないと説明したところでそれは照れ隠しにしか受け取られないからだ。
今まで矛盾のなかった悪役令嬢のプログラムが一時停止する。幾つものログが発生している間、八重は黙って会場の中へと歩くしかなかった。


「……こんにちは」
 髪の色は違えど、そこにいたのはあのパーティーで八重を浚った青年だった。
そう言って綺麗な挨拶をした東雲の容姿を見て、月之宮家当主の顔色が一変する。


「お前は……確か……」
「初めまして、ということにしておきましょう。私の名は東雲といいます。その節は日之宮邸にて失礼を働いたこと、謝罪申し上げます」


「いや、そうか……」
 余りにも潔い謝罪に、八重の父親はどうしたらよいのか分からなくなった。恥をかかされたことを思えばぶつけてやりたい言葉もあったのかもしれないが、何故か自分よりも年嵩の相手に会っているような気分となった。……月之宮財閥の総帥たる人間が、このような若者に気迫で呑まれている。


「この度は、娘さんのお誕生日のお祝い、誠におめでとうございます。よろしければ、彼女にダンスを申し込ませていただけないでしょうか?」
「好きにしたまえ。……私も君には後で聞きたいことが色々とある」


「かしこまりました」
 優しい瞳で、東雲先輩が私に跪く。
しかし、その差し出された手のひらを八重は拒絶しようとした。


「……あなたと、踊ることなんてできないわ」
「何故です?」
 そう問いかけられ、八重は冷たい目を向ける。


「私にどのような価値を見出しているのか理解できないけれど、私はあなたの思い通りになるような人間ではない」


「君は自分に価値がないと本気で思っているのか?」
 ぐ……と、八重が言葉に詰まる。


「そんなはずはあるわけがないな。今の君は、確かに模範的な月之宮の令嬢だ。そのことは確かに認めるよ。……でも、僕らが好きなのは、そんな風に振る舞う君じゃないんだ」
 完璧だったはずの、月之宮八重の表情が崩れそうになる。
囁かれた言葉に、人形にされていたはずの指先がわずかに震えた。


「――みんなは、ちゃんと八重のことを愛していたんだよ」
 東雲先輩は笑う。手を差し出すのを、止めない。


「不完全な君が好きだ」
「……どうして」


「不恰好な君が好きだ」
「どうして」


「どんなに無様でもあがく君が好きだ」
「どうして、どうして、どうして!」


 弱点などない。完璧になったはずだった。誰もが今の自分を称賛するはず。どのような存在にも一目を置かれるような陰陽師であるはずで……、
その矛盾に直面した悪役令嬢の仮面が、少しずつ欠けていく。


「黙りなさい!」
 それを見ていた奈々子が止めようとする。


「昔のあなたに価値なんかないの! 理想のあなたはこうなの! こんな男の甘言に惑わされるだなんて……っ」
 昔の私に価値なんか……ない?
東雲先輩の言葉が脳内でリフレインする。ぼんやりと目の前の妖狐を眺めているうちに、目から静かに涙が溢れた。


 私は、どこかで思ってやいなかっただろうか。
理想的な陰陽師として周りに認められたいと、考えたことはなかったろうか。
いつも失敗ばかりで救いたいものも救えないような、無力な本当の自分が嫌になってはいなかっただろうか。
 悪役令嬢としての私が怖くて仕方がなかった。
アヤカシと敵対して破滅するのを恐れていたくせに、その理想像に陰陽師として心の奥底で憧れていたのだ。
それが、呪い。
私にかけられていた、真の呪縛。


 ……でも、違う。
今までだって、誰にも愛されていなかったわけじゃない。
認められなかったのではない。


 ――私は、みんなに愛されている。
模範的な月之宮家の令嬢が求められているのではない。私は怖いと思っていた人間のこともアヤカシのみんなも愛して、愛されているのだ!
その瞬間に、囚われていたものから自分が解放されたことに気が付いた。
曇っていた八重の瞳の焦点が徐々に合う。








「……東雲先輩……っ」


 気が付けば、幼子のように泣きじゃくっていた。そうして涙を流しながら、私はようやく思い通りに動くようになった肉体でその手をとった。


「わだ……っ わたしは、私のままでいいのかな……」
「いいんだよ」
 涙で顔も見えなかったけれど、東雲先輩の優しい声が聞こえた。彼は、ようやく安心したようで、立ち上がって手のひらを強く握りしめ、
「君は、君のままで生きていいんだよ」と穏やかに言われる。


 その言葉に、なんだか救われたような気になった。これから先に何があったって、自分をやっていけると思った。
それぐらいに、魂の底から嬉しかった。


「みんな、八重のことを待ってる」
「うん……」


「この会場の入り口に行けば会えるはずだ。このパーティーが終わったら、二人で会いに行こう。協力もしてもらったから、お礼をしなくちゃいけませんね」
 改めて差し出された手のひらに手を乗せると、涙を指先で拭われる。いきなり泣き出した私の様子に会場の人たちは驚いた目で見てきたけれど、そんなの少しも気にならない。
大事なことは、あなたと私が此処にいること。それさえ確かなら、何も怖くない。


「八重。良かったら、踊ろう」
 瞳を上げると、照れくさそうに東雲先輩が笑っていた。
 私は、くしゃりと笑って頷いた。


ステップを踏み始めた二人を黙って見守っていた八重の父親は、複雑な思いになった。その心中を察した妻が静かに微笑む。


「いいのではありませんか? ……あの子と彼の関係を認めてさしあげれば」
「しかし……」


「あなたは自分の部下と結婚させればずっと手放さなくてもいいと考えていたのかもしれませんけれど、かわいい子には旅をさせてあげるべきですわ。
今のやり取りに何も感じなかったわけではないでしょうに」
 綻ぶように笑いながら、咲耶は夫に寄り添った。苦渋の決断をせざるを得なくなった月之宮家の当主は、仏頂面でそっぽを向く。


「……私は、自分のことばかり考えて、娘に余計なものばかり押し付けてきたのかもしれん」
「いつでもやり直せますわ」
 意味深に微笑んだ妻は、夫の手のひらに指を絡める。
「この気持ちを忘れなければ、何度でも……」


 そんな会話を耳にした奈々子は、衝撃に目を見開きながら現在の認めたくない現実リアルを視界に入れる。


「嘘よ……」
 あの洗脳が解けるはずがなかった。
理論的には、全て思い通りに進んでいるはずだった。
あんな風に、一言声を掛けられるだけで仕掛けが壊れるだなんて、そんな不都合な現実……!
 奈々子は悲痛な声を洩らした。


「こんな茶番、認めない……!」


 陰陽師の家の配偶者がアヤカシであっていいはずがない。
 胸の中に宿った感情が痛いほどに焦げついてくる。
逃げるように会場から走り去った奈々子には、誰も気が付かないままだった。







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