悪役令嬢のままでいなさい!
☆197 方向音痴の悪党
いざやるとなったら遠野さんは手加減するような性格ではなかったらしく、ビシバシ白波さんをしごき始めた。あっという間の二週間。劇の準備は少しずつ形になってきた。
「……ほら、表情が強張ってる」
「ふ、ふええ~」
ぐにぐに白波さんの頬っぺたを引っ張り、遠野さんは無理やり笑顔を作ろうとする。いつもなら助け船を出すはずの鳥羽は、あちこちから助っ人を頼まれててんてこ舞いになっていた。
「八重は一体何を描いているの?」
「……暖炉の薪よ」
「……私には巨大なフランクフルトにしか見えないんだけど」
足を怪我したことになっている私がアクリル絵の具で描いた小道具に、希未が励ますように肩に手を置いてきた。
私は、むすっと呟く。
「やっぱり、私には芸術的才能がちょっと足りないのかしら」
「今更それに気付いたの!?」
認めたくない事実に息を吐くと、希未がびっくりした様子で叫ぶ。
「その内上達すると思ったんだけど……」
だって、絵は描き続ければ誰でも上手くなると美術部の部長が語っていたのだ。それなのに、それを信じて描いても落書きはいつまでも落書きのままだった。
私は騙されていたのだろうか。そろそろ、敗北を認めた方がいいのだろうか。
……負けるのは嫌いだ。戦闘もそうだけど、甘えた自分自身に負けるのが一番嫌いだ。
「あれ、ガムテープもう終わっちゃったの?」
その時、希未が困っている様子のクラスメイトを見つけて驚きの声を洩らした。
「ペンキも幾つか足りねーぞ」
鳥羽が渋面で空になった缶を幾つかこちらに見せる。そうして、腕組みをしてフンと鼻を鳴らした。
「誰かに頼んで買ってきてもらわねえと……」
「だったら私と八重で行ってくるよ」
勝手にそんなことを申し出た希未に、私が苦笑する。
「そうね、どうせここに居ても役に立たないみたいだし、買い出し係で行ってくるわ」
「でも、月之宮さんは足が……」
「いいサポーターを付けているからちょっとぐらい大丈夫よ。ホームセンターなんて目と鼻の先だし」
矛盾することを言って、手のひらをひらひら動かすと、白波さんが眉尻を下げる。困惑した様子の彼女を見なかったフリをすると、
「心配ですし、だったら私も一緒に……」と言い出した白波さんの耳を遠野さんが怒ってつまむ。
「……白波は、もっと稽古に専念しないと、ダメ。今のままでは、使い物にならない」
「……は、はいい」
しょぼんとした白波さんに、遠野さんが台本を見せてダメ出しをしていく。あっという間に再開されたお稽古の光景に、私は苦笑いしてそれを見守った。
遠野さんは厳しいけれど、理不尽な指導はしていない。それによく白波さんは食いついていると思う。その成果は恐らくもう少しで花開くだろう。
私は、私にできることをやらなくちゃ。
「じゃあ、買ってくるわね」
「行って来まーす」
そう言って私と希未が教室を出ると、鳥羽は鷹揚に頷いた。
市街に出て学生の目が少なくなると、希未が話しかけてきた。
「……まあ、荷物は私が持つよ。流石に捻挫をしている八重に持たせたら、みんなに疑われちゃうからね」
「多分、勘のいい人ならもう気が付いていると思うけど」
「鳥羽以外は信じてるんじゃないかな? こういう嘘はね、日頃の行いがモノを言うわけだし」
にしし、と希未が悪巧みをするように笑った。
「そーいうものかしら、ね」
「やっぱり、真面目な八重がこんな卑怯で小ズルいことをするわけないっていう信ぴょう性があるからね!」
「卑怯で小ズルくて悪かったわね」
ムッとした私に、希未はニヤニヤしている。
どちらかというと自分は手段を選ばないタイプだと自負しているのだけど、周囲からはそんなにお堅く見られているのだろうか。猫かぶりが成功していることを喜べばいいのか、それとも窮屈に感じればいいのか分からない。
チカチカしている赤色の横断歩道が、青に変わる。一斉に群衆が歩き出したスクランブル交差点を斜めに渡ると、開いているのか定かではない薬局の前を通り過ぎた。
視線を先に向けると、希未が不思議そうに口を開いた。
「……ねえ、あそこの外国人、地図を持って困っているみたい」
希未の言う通り、黒のフルフェイスヘルメットを被り、大きなナップザックを背負って登山用ブーツを履き、ミリタリージャケットを羽織った背高の白人が、折りたたみの紙地図をぐるぐる回して首を捻っていた。
この街では外国人観光客は珍しい存在ではない。見なかったことにするべきか私が悩んでいると、天真爛漫な希未が止める間もなく声を掛けてしまう。
「どうしたんですか? お兄さん」
「ちょっと、希未……っ」
いかにも人が良さそうににっこりした友人の声に、バイクの隣にいた外国人が顔を上げる。ヘルメットを脱いだ彼の容姿が見えた。
結構若い成人男性だ。遊んでいそうな稲わら色の髪に、白い肌。青紫色の瞳がこちらを捉えた。耳にはイヤーカフとピアスが幾つも開けられ、ガーネットの石が揺れている。
「君たちは……」
「私立慶水高校の二年生です。何かお困りですか?」
警戒心を持った私が表情を取り繕って訊ねると、稲わらの髪をした彼は戸惑ったように笑う。
「……俺、ちょっと久しぶりに友人に会おうと思ったんだけど、この辺って宅地開発でもしたのかな。前に来た時とは随分変わっているから、すっかり道が分からなくなっちゃって」
「わあ、日本語お上手ですね! えーっと、道路なら何個か出来ましたけど、戦後に開発した後は基本は変わってないはずなんですけどぉ」
希未が笑いかけると、お兄さんはため息をついた。
「……それじゃあ、俺には分からないわけだ」
「え」
戸惑ったように瞳を揺らした希未に、不気味に男性が笑い出す。握手を差し出してきた彼は、私たちの手をそれぞれ握った後に口端を上げた。
「とりあえず駅前に出たいな。可愛くて親切な君たちとお茶もしたいし」
「それはダメです」
「ええ、つれないなぁ」
軽口を叩いてきた彼の言葉を受け流していると、希未が手を挙げて元気よく言う。
「はい! 私、クレープがいいです!」
「こら! 何を考えてるのよ、希未!」
たしなめようとしたこちらの心境をいざ知らず、遠慮のない彼女の様子に名前も分からない男性は大笑いをした。
「ツインテールちゃんの方は素直でいいね! 美味しい店があるのなら教えてよ、一緒に行こう!」
「にしし、私は結構お高いですよ? お兄さん」
「それで、駅前ってどっち?」
「それならあっちの方ですけど……」
希未と意気投合した男性に私が警戒していると、彼はウインクをしてバイクを引いて歩き出した。
……教えた方向と90度間違えた方向に。
「ちょっとお兄さん! そっちじゃないっての!」
慌てた希未が制止すると、お兄さんは首を捻って瞬きをする。まるで、冗談ではなく本気で方向を誤ったかのようだ。
「ん? こっちじゃなかったっけ?」
その瞳に他意はなく、本気の本気で道を間違えたらしい。
唖然とした私たちに、アチャアと肩を竦めた彼は真剣そのものな表情で告げた。
「ゴメンね、俺、極度の方向音痴で正しい道に進めた試しがないんだ」
その後。
私たちに聞こえない無音に近い声で、
「――悪党すぎて天国にも地獄にも辿りつけたことがないからね」
……と彼が付け足したことに気付けていたなら、これからの未来は変わっていただろうか。
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