悪役令嬢のままでいなさい!
☆181 掲示板の写真
その日の私は、鈍感にもこれから起こる事件の予兆を感じずに、朝の身支度をゆっくり整えた。
髪をくしけずり、最高品質の椿油で念入りに手入れをする。さっぱり洗った顔には薄化粧を施し、仄かに薫る練り香水をうなじに擦り込んだ。
こんがりトーストしたての分厚い食パンに、少しのバターと国産蜜柑の蜂蜜をたらりとかけ、その甘みと香りを味わいながらもぐもぐ咀嚼する。向かいの席にいる松葉は、カマンベールチーズをのせたチーズトーストを美味しそうに食べていた。
余談だが、個人的には国産のカマンベールチーズは風味が柔らかい気がする。舌が慣れてくると日本人向けに作られていることが感じ取れるのだ。
それが悪いというわけではないし、文句ばかりの環境に適応する為に個性を欠けさせていくのもまた生き残る為の戦略だ。
さながら、自我を殺して周りに合わせる思春期の学生のように。文句や愚痴を封印させて働く会社員のように。
……柳原先生への禁断の恋心を隠す遠野さんのように。
しばし、熱い紅茶を飲みながら考え事をしていると、椅子の後ろから松葉がぎゃはっと笑顔で抱き付いてきた。
「……何よ?」
抱擁を受けた私がトゲのある声を出すと、カワウソは自分の腕からその温もりを伝えながら笑みを深める。
「なーんか八重さまが隙だらけだったから、ちょっとエネルギーをチャージしていこうと思って」
「さっさと離れてちょうだい」
「い・や・で・す♪」
困った。
振りほどこうにも、椅子に座しているこの態勢ではこちらに不利である。しばらく考えた私は、やがて1つの結論に至るともがくのを止めて、勢いよく松葉に頭突きを喰らわせた。
「――――っ」
赤くなった鼻を押さえて、松葉が悶絶している。
それを見て若干の罪悪感を私が覚えていると、母がやれやれと苦笑した。
「八重さま、今のは結構痛い……っ」
「彼氏でもないのに抱き付いたりするからでしょう」
「ぐはっ」
無意識に放った一言によって、松葉がショックを受けた顔になる。顔色は土気色になり、むしろ頭突きを喰らった時よりもダメージが大きかったようだ。
それを見て浅くため息をついた私は、お弁当と通学鞄を持って踵を返す。「ぼんやりしていると電車から遅れるわよ」と一声かけ、運転手である山崎さんの待つ屋外へと靴を履いて出て行った。
いつも通りと云えばいつも通りの朝だった。
何の変哲もない日常が待っているはずだった。そうなる予定でいたから、心の準備なんて出来ていなかった。
そうして、軽自動車で登校した私に学校で待っていたのは、クラスの前の学年掲示板にでかでかと貼られた何枚かの写真と、それを見て顔をしかめる二年生の群衆だった。
気が付いた私は呆然と立ち尽くした。
なんの因果か、そこに映っていたのは、サングラスを身に着けた柳原先生と一緒に街中を歩く、月之宮八重の姿であったのだから。
客観的に観て、2人はお似合いのカップルであるように見え、モラルに反する関係であるかのように皆に取り上げられている。
登校してきた私の姿に、辺りからは悪意のある噂がまことしやかに囁かれた。
……どうしよう。……どうしたらいい?
混乱に私が唖然としていると、群衆の片隅に遠野さんが立っている姿があった。
「と……」
遠野さん、と呼ぼうとして尻切れトンボになる。
とても、とても悲壮な彼女の表情に気付いてしまったからだ。顔色は蒼白で、くらりと立ちくらみを起こしそうになって踏みとどまっている。そのまま、登校した私の方を悲しそうに見つめると悔しそうに俯いた。
……違う。誤解しないで。
心の底からそう主張したいのに、喉につかえた言の葉は出てきやしない。
血の気が引いている私に、その時、誰かが声を掛けた。
「月之宮さん!」
温かく抱きしめてくれたのは、白波さんだった。
「……これは一体どういうことなの?」
「私が来た時にはもうこれが貼られていて……、犯人は分かりません」
眦を下げて、白波さんが不安そうに掲示板を見る。近くに立っていた鳥羽も険しい顔で周囲を眺めていた。
「――全く、こんなことをするなんて、こそこそした陰険な奴がいたもんだなあ? 気にすんなよ月之宮、今の時代いくらでもパソコンで画像なんか合成できるぜ」
張り上げた鳥羽のセリフは、騒動になっている廊下に強く響き渡った。その言葉を聞いたクラスメイト達が、しんと静まり返る。
「そ、そうだよ。月之宮さん」
白波さんも健気に続いてくれる。
その効果は大したもので、みんなが私に向けていた中傷の矛先が、幾分か強さを減らすこととなった。
「で、でも、これが本当じゃないって証拠もないじゃん」
ポツリと静かな人ごみで、誰かがこんなことを言った。
「……確かにねえよ。けどな……」
苛立った鳥羽が反論しようとした時、どこからか眠そうな足跡が近づいてくる。振り返ると、昇降口の方からやって来たのは明るい茶髪をツインテールにし、毛先をくるりと巻いた女子だ。鞄を持って、欠伸を噛み殺しながらこの騒ぎに、じろりとみんなを睨み付ける。
「なにしてんの、こんな朝っぱらから……」
そう口にしたのは、私の親友である栗村希未だった。
「……希未」と、私の途方に暮れた唇から彼女の名前が零れ出る。その姿を一目見ただけで、ホッとして涙が零れ落ちそうになった。
「遅せえよ栗村。見てみろ……誰かが月之宮の写真を掲示板に貼り出したんだよ」
鳥羽の指差した掲示板に、希未が目を走らせる。やがて、そこに何が映っているのかに気が付いた彼女は睫毛を上げて、無理やり群衆をかき分けて掲示板に一番近い最前列まで躍り出た。
「……なにこれ! 誰がこんな悪戯をしたの!?」
驚愕の悲鳴に、再び辺りが騒然とする。
ガヤガヤした人声に私が憂鬱な思いになっていると、希未はそこで大胆な行動に出た。飛び上がってジャンプした勢いのままに貼り紙の写真を剥がしとり、粉々に破り捨ててしまったのだ。
「おい、お前何やってんだよ! それは犯人の大事な証拠に……っ」
「うるさい! こんな悪質なことをしたのはどこのどいつよ! 見つけたら只じゃおかない! 八重にこんなことするなんてぶっ殺してやる!」
止めようとした鳥羽の頬に、希未がマニキュアを塗った爪で引っかく。奥歯を噛みしめた彼女は、まるで獰猛な獣のようだ。
「2人とも、喧嘩するのは止めてくださぁい!」
取っ組み合いになった鳥羽と希未に、白波さんがおろおろ悲鳴を上げる。
そんな光景から目を逸らした私が辺りを見渡すと、遠野さんがいつの間にかこの場から姿を消していた。
どうしようもなく不安になった。
言い訳をしようとしても、何も出てこない。庇って貰えば、貰うほどに罪悪感が増していく。
あの写真が本物だということを、自分だけは分かっていた。
私は、軽率な行動で遠野さんを傷つけたのだということを、沈んだ世界で思い知らされたのだ。
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