悪役令嬢のままでいなさい!
☆160 最後の告白、凍てつく怒り
全てを見終わったとき、私はへたり込んでいた。瞳には自覚のない涙が浮かび、ガンガン響く頭痛が今の情報を拒もうと抗っている。桜が見せてくれた記憶は、これまで前提であったはずの常識を全て否定するものだった。
身体に重く疲労感がのしかかり、恐れに汗が滲んでくる。言葉を失い、微動だにすらできなくなっていた私の意識に、桜の思念が流れ込んできた。
『わたしは……ずっと、貴女を見ていた。笑っているときも、悲しんでいるあなたも、この場所でいつも共にあった』
「私は……そんなの全然覚えていないわ」
『でも、本当のこと』
――怖がらないで。
そう悲しく頭を撫ぜられた気がして、私は揺れる瞳で前を見た。
「……もし、も。これが真実なのだとしたら……、東雲先輩と過ごした時間をどうして私は覚えてないの?」
『わたしの知っていることはここまで。この妖力を使い果たすまでに残った猶予も、もう……』
微笑んだ桜が、様々な感情や想いを伝えてくる。
その渦巻く思念に、融合していた私は戸惑いながらも、大きな悲しみに襲われて唇を閉ざした。暖かで、優しくて、どこか心の奥底では懐かしくって……。もしかしたら、もっと違った未来もあったはずなのに、この桜が全ての妖力をここに捧げてしまったことに不条理を感じていた。
「……ねえ……」
いつの間にか、私の頬には涙が流れていた。こらえなくちゃいけないと分かっているはずなのに、透明な雫が伝っていた。
「あなたは……なんで、こんなことをしちゃったの……?」
私なんか、そこまでしてもらえるような者じゃない。白波さんほど綺麗な心を持っているわけでも、慈愛に満ちているわけでもない。
奈々子の云う通り、弱くて、情けなくて、無様で、いつだって後悔しながら生きている醜い化け物なのだ。
何が月之宮の陰陽師だ。大事なモノを守れないことだらけのくせに、よくもそんな名乗りを恥ずかしげもなく言えていたものだ。
笑えない。泣けてくる。
一体となっているこの桜と離れたくなくて、この優しい場所から出たくなくて、弱くなっていく妖力に悔しくて。
子どもみたいに膝をついて泣いていた私に、桜の終わりの思念がそっと笑顔になった。
『今までありがとう。八重姫』
会いに来てくれた。咲かせた花に喜んでくれた。忘れてもまた、こうして別れを惜しむほどに愛してもらえた。募るばかりであった恋心が溢れ、【生まれてきて良かった】と桜は、泣いている少女を感じながら天に感謝した。
『……ずっと、お慕いしておりました』
その切なく響く告白に、泣きながらも頷くと。
それを合図に、私は精神世界から浮上して現実に帰った。
肌に触れた地面の冷たさを感じた。
転ばされていた私の肉体は、意識が囚われていた間は桜の根元に寄り添うように眠っていたらしい。
それは長い時間を旅していたようであったけれど、立ち返ってみると一瞬の出来事だったことに気付いてしまう。頬に濡れる涙に土がつき、頭痛を堪えて身体を起こすと、私は目の前の桜の異変に嫌でも気付かされた。
あんなに美しい緑であった枝についた葉が、黄色く変わっていくのだ。紅葉というよりは萎れて枯れそうになっている。先ほどまでの生気がすっかり失せて、風が吹いてもカサカサと鳴るばかりだ。
「な……っ」
なんという有様だろう。
潜在エネルギーを使い果たした桜の大樹に私が絶句していると、ずっと沈黙していた東雲先輩が蛍御前を殴り飛ばした音が神社に鳴り響いた。
振り返ると、頬を赤くした神龍が居心地悪そうによろめき立っていた。
「ぐ……っ ……ご挨拶じゃのう、東雲や」
「…………」
暴力を振るった東雲先輩の青い両眼が爛々と光っていた。足元を震わせ、怒りの目つきで蛍御前を睨んだ。
誰が見ても、直視しなくたって分かる事実。
唇を歪ませた妖狐、東雲椿は爆発的に激怒していた。
「よくも……」
その美しい声が怒りの紅に染まる。
神社に響き渡ったのは、紅蓮の炎にも似た絶叫だった。
「……よくも余計なことをしてくれたっ!」
蛍御前は弱体化した桜をチラリと見て、口角を上げる。
「これがこやつの望みだったのじゃ。妾は、願われたから叶えただけのこと。そなたこそ、この現状に手をこまねいていただけではないか」
「僕はこのような末路など望んではいなかった! 恋敵だというのに、こんな風に塩を送られるような真似があるか……」
「もう遅すぎる」
枯れた葉を散らし始めた桜の木に、蛍御前は酷薄な笑みを作った。
その態度は開き直っているというよりも、龍という存在の秘めていた本性が垣間見える表情だった。
「お前には分からないだろう! 僕がこれまでどんな思いで……っ」
そこで先輩は息を深く吸いこみ、
「――僕は、八重がこのまま思い出さなくてもそれで構わないと思っていたんだ!!!」
神社にこだました東雲先輩の慟哭に、呆然としていた私は衝撃を受けた。
こちらまでも悲痛さがこみ上げてくる凍えた怒声だった。
「うそ、嘘よ」
這いつくばりながらも、私は桜を見上げてうわ言のようなものを洩らす。
「妖力を使い果たすって、あなたが枯れてしまうだなんて云ってなかったじゃない……、こんな、に葉っぱが黄色くなってしまうだなんて……」
吐息が震える。
「あれは遺言だったの……? 答えてよ。 あたしにそんな神様の力があったのなら、どうして、今、枯れそうなあなたの言葉が聞こえないのよ……!」
自分自身の言葉で、切り刻むように希望が絶たれていく。
真っ黒に塗りつぶされていく。
アヤカシと戦って肉体的なダメージを受けるより、よほど今の方が辛かった。
肩を震わせた私は、焼けるような胃の痛みに襲われて口元を押さえた。心は冷たくなり、全身の体温が下がっていく。
痛い、痛い、何が痛かったのかも思い出せない。
それは内臓だろうか。古傷だったのか、それとも失ったものの大きさか。
悪役令嬢というのは何だったのだろう。
この『世界』の正体とは……。
そこまで思考がいきついた時、強制的にシャットダウンされるように世界がノイズが走っていく。切れ切れになった視界、一触即発になった人外、零れ落ちていく命数。
踏切に通り過ぎていく電車が起こしたような刹那に涙を落としながら、私はぐらりとよろめいて、夏の終わりに頼りなく意識を失ったのだった。
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