初めての恋

神寺雅文

解き明かされる過去42

「何か勘違いしている様だけど、呼んだのうちのお父さんだから」
 なんて言われたのは昇降口を過ぎて送迎専用の駐車場に来た時だ。全身にドッと疲れを感じたのは、目の前に白いワンボックスタイプの自家用車が横付けさらたからである。そして、車体の脇に「佐藤空手道場」と黒いペンキで荒々しい書きなぐられた文字を見たからだ。
 そう、奈緒の家は空手の道場を営んでいる。奈緒の言動を見ていれば誰もが納得いく事実だ。車体が傾くと運転席から胴着を着たままの熊が反対側からノソノソとこちらに歩いてきた。
「オッス! お久しぶりです!」「事情は聞いてる。乗りたまえ」「ありがとうございます!」
 奈緒に文句の一つでも言う前に視線で乗車を命じられては素直に従うしかない。出来るだけ避けていただけに、よりによってこの状況で密室に押し込まれるのだ。生きた心地がしない。その心情を逆手に取る如く勢いで奈緒が追い打ちをかけることを言いのけた。
「お父さん! やっとみやびが鍛えてほしいって! だから、お願いね! 私は友達待たせてるからバスで帰るね」「おい奈緒!」「一回頭冷やしてきなさい」
 あっかんべーとは古典的なことを。後部座席のスライドドアを勝手に閉めた奈緒が惜しげもなく舌を出している。薄っすら曇る窓の向こう側で悪戯っ子の本領をいかんなく発揮してそそくさと歩いて行ってしまう。
「ようやく覚悟が出来たのか」
 娘があれなのに寡黙なのがこの人だ。ボソッと呟いただけでそのあとは一回も言葉を発することはなかった。
 朝方から降る雨はまだ雨脚を止めず、車のライトに照らし出され光の筋の様に大地へと降り注いでる。その光のカーテンを潜り無言で溢れる四角い動く監獄は見慣れた道路をひた走る。言い訳も出来ないほどの沈黙、呼吸する音すら場違いと思えるほどの静寂。カーステレオくらいかけてほしいものだが、この胴着をきた熊がそんなハイカラなモノを聞くわけもない。
 正直、僕はおじさんが苦手である。昔から。そう、物心ついたころからおじさんが苦手なのだ。理由は簡単だ。堅物で硬派なおじさんの頭の固い言動がどうも苦手でならない。
「女を悲しませるなど、男の片隅にも置けない」「すみません」
 どこまで聞いているのか分からないだけに、上手く返答が出来ない。車体に雨がぶつかる音だけが静まり返る車内に溢れる。
「昔の君はもっと骨のある男だった」
 男の片隅だとか、骨があったとか。そんな男臭い言葉を聞くのが嫌で距離を置く様になったんだよ。奈緒がそれを知っているとは思えないから、偶然こんなシチュエーションになってしまった。胃に穴が開きそうだ。
「やり返したのか」「何をですか」
 聞き返すことか! って一喝してくれればいいものを、おじさんは沈黙でその意を返してきた。
「やり返すわけないですよ。そもそも、そんなことしたら活動停止になっちゃいます」「好きな女を泣かされても、お前はいつも人のことばかり考えている。いつになったら自分の気持ちに気が付くんだ」
 それから長い長い沈黙が続き、停車したので菅野家に着いたのかと思ったが、そこは道場であった。
「お前はそれでいいのか」
 最後におじさんがそういい車から降りて道場の中に入っていた。
 ここに来るのは久しぶりだ。家から歩いて十分もかからない距離。ここからは好きにしろってことだろう。

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