海の声

漆湯講義

195.ウミの声

『けどね、この子笑ってたの…今までそんな事無かったのに。おかしいでしょ?お医者さんはそう見えるだけだって言ってたけど、私にはそんな風には見えなかったのよ。しかもね、それから少しした時だったわ、突然海美が泣いたの』

『海美ねぇが?』

『そう、海美が泣いたの。涙をつぅっと流して。だけどね、それは悲しくて泣いたんじゃない、嬉し泣きっていうか、ホッとして流した涙だった、そう見えたの』

その時の事を思い出しているのか、海美のお母さんの目尻から涙がつぅーっと滴り落ちていく。

そして…海美はその時から、再びその鼓動を刻み出したのだという。
誰もが"奇跡としか言いようがない"と驚嘆の声をあげたそうだ。

『嬉しかった…今まで生きてきて一番に。だけど…それからはもう、笑顔も、涙も見てないの…』

そう言って、哀しげな瞳が海美を見つめた。
変化を求め続けられるこの世の中で、変わらない事がいい事もあるのかもしれない。だけどここには"変わらない"哀しみが溢れている。そしていつまでも変わらないままなのかもしれないという不安が、海美のお母さんを包んでいるように思えた。

それから俺たちは海美の手を取って色々な話をした。アレからのこと、この島の学校生活のこと、変わり始めた沖洲の島のこと、そして…俺たちはずっと海美を待ち続けているということを。

…窓の外にはまんまるなお月様が顔を覗かせ"お別れの時間だよ"と静かに俺たちの顔を照らした。
そして俺たちは病室を出る。"またすぐに会いに来るから、と返ってくることの無い言葉を預けて。

あの日から季節が過ぎていく度にどんどんと変わりゆく沖洲の島。
そして変わる事なくあの部屋で静かに眠り続ける海美。
…あの日、俺の元へと現れた夏の少女は今、どうしているんだろうか。
もしかしたら今も俺の側に…なんてな。
そんなふうに突然振り返る事が増えたのもまた、この季節がやってきたからかもしれない。
突き刺すような日差しの中、いつもの白い砂浜へとやってくると、お決まりの岩の上へと腰掛け、深く息を吸い込んでからすぅーっとゆっくり吐き出した。
目の前に広がる景色はいつもと何も変わらない最高の景色だ。
ジメジメと暑苦しい空気とは裏腹に、星雲のような輝きを放つエメラルドグリーンの海面。
その上に広がる透き通った青空には大きなマシュマロのような入道雲がどっしりと腰を据えて俺を見下ろしている。

「それにしても暑いな…この島は…」

ポツリと呟いた俺の一言も、島中から哮り立つ蝉の大合唱に飲み込まれてしまった。

額の汗を拭った手首に光る貝殻のブレスレットも、今ではすっかり馴染んでいる。

俺もこの島に来てもう3年になるのか…

あれから3年…


遠い水平線を眺め、道端に人知れず咲いた野花のような過去の記憶をひとつひとつ摘みあげていく。

"ボォーゥッ、ボォーゥッ"

遥か遠くフェリーの汽笛が島に響き渡る。

…いまから逢いに行くからな。

俺はフェリーのチケットを取り出し空高く掲げた。


                       "キミは誰?"


そんな声が聞こえてくるような気がして振り返ってみても、そこには白い砂浜と、島の中腹に顔を覗かせる建設機械が目に映るだけだった。

あんとき、俺、なんて言ったんだけっけな…

『ねぇセイジぃ、早くしないと船来ちゃうってぇ』

「あぁ悪い悪い。なんかここに来ないと落ち着かなくってさ」

『わかったから急いで行くよッ!!』



俺はいつまでも待ち続けるつもりだ。

本当の"海美の声"が聞けるその日を。

そしたら三人で島中まわって、写真撮って、祭の日には神社にも行って、花火だって一緒に見て…海美が"もう早く寝たい"って言うくらいまで楽しい事するんだ。
だから…早く目、覚ませよ。




…その日は、窓から射し込んだキラキラと輝いた太陽の光が示すように、長かった梅雨が例年よりも4日ほど早く明けた事を報せるニュースが流れていた。

俺はリモコンを手に取り、テレビを消すと薄手のシャツを羽織ってリビングのソファーを立った。

『あんた何処行くの?』

「美雨んとこ、雨上がったし。てか梅雨明けみたいよ?」

『あらそう、今年は早かったのね』

「へぇ…じゃ行ってきまーす」

そう言って玄関を出ると、俺の携帯が鳴った。

美雨かぁ?ったく今出たっつーの…

ところが、ジーパンの窮屈なポケットから取り出した携帯のディスプレイ見ると、"海美母"の文字が映っており、急に得体の知れない不安が押し寄せた…

「もしもし…」

俺の言葉に返事は無く、携帯の向こう側から微かに聞こえるのは、たぶん、海美のお母さんの声にもならない啜り泣くような声…

その瞬間、俺の全身の感覚が無くなるような寒気を覚え、震えだした身体と呼吸を必死に整えつつ、耳に神経を尖らせ、再び俺は小さな声を出した。

「もし…もし…?」

数秒の沈黙に俺の心臓が音を立てて鼓動を強めた。
すると、携帯の向こう側から、消えてしまいそうに小さな、優しくて、懐かしくて、ずっとずっと待ち望んでいた声が…俺の耳へとそっと染み込んでいった。

『たあいま…せえじくん…』


これが、俺の耳に初めて届いた本当の"海美の声"だった。


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