海の声

漆湯講義

190.四角の中の人形

 突然の声に驚いて後ろを振り返ると、そこには海美のお母さんが立っていた。
そういえば俺が記憶を失っている間も、何度か会ったことがあったっけ。
それでもその時は海美のお母さんなんて記憶無かったし…挨拶を交わすだけで特に会話もしなかった。だけど俺も何故か赤の他人という風には思えなかったのもあって、学校帰りに突然"あら、瀧山くん"なんて声を掛けられた時も"あ、どうも"なんて無難な受け答えをとることが出来ていた。
多分、海美のお母さんは俺の事"瀧山さんちのお子さん"としか思っていないのだろうけど。
そんなことよりも、海美のお母さんはお見舞いだろうか。
小さなバッグを手に持ち、もう片方の手には名前の知らない切り花を数本持っている。
その花を枕元に置いてある空いた花瓶にスッと挿すと、優しくゆっくりとした声で喋り始める。静かに眠る海美の髪を撫でながら。

『お医者さんにも原因は分からないそうよ。だって本当に寝てるだけみたいでしょ?…だからね、だからこうやって毎日毎日足を運んでしまうのよ。ひょっとしたら目を覚ましているかも、とか、実は私が居ない時に目を覚ましていて、誰も居ないのが寂しくてまた眠ってしまったんじゃないか、とかね…ふふ、おかしいでしょ?けどね、そんな気がするのよ。そうあって欲しいのよ…』

海美の頬に手を当てて、静かに優しい表情で見つめる母親の姿は、とても寂しそうで、苦しそうで…柔らかな微笑みを浮かべたまま眠り続ける我が娘に助けを求めているようにも見えた。

『この子はね、まだやりたい事があるのよ、きっと』

ただの仮定や推測では無い、何故か確信を持っているようなその言葉に、"それってなんなんでしょうか?"と俺は尋ねる。

『この子はね…』

俺はその瞬間、母親の言葉に耳を疑った。



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