海の声

漆湯講義

122.海の雫

たったそれだけの言葉に、どれだけの想いが込められていたんだろう。

俺はその言葉を聞いた瞬間、1枚の板に積もった埃がさらさらと風に攫(さら)われて隠されていた色鮮やかな絵画が姿を見せていくような気持ちに包まれた。

"ほら、やっぱりそうだったろ?"と俺は得意げに美雨の顔を見たが、すぐに視線を下へと移した。
何故ならその2つの大きな瞳は真っ直ぐにおじさんへと向けられ、薄暗い蛍光灯の光を滲ませていたから。

俺は海美と顔を合わせて"ふッ"と微笑みを交わすと、ゆっくりと立ち上がって美雨の側へと歩み寄る。そして耳元で"なっ、言った通りだろ?"と囁くと、美雨が小さく頷いた。

『さぁ、いつまでもこんなとこで迷惑かけちゃいかん。君もはよぅ来な。』


俺は今にも声を上げて泣き出してしまいそうな美雨の腕を引き、おじさんの後を歩いた。

港の暗闇に一隻の船が停泊しているのが見える。そして近くにつれだんだんとハッキリしてくるその船の姿に美雨がふと立ち止まる。

『あ…ぅ…』

美雨の言葉にもならないような声の後、スゥーっと掠れた吐息のような声を俺は確かに聞いた。

"とーちゃん…かーちゃん"

おじさんが乗ってきた船は…そう、あの港で出航をただただ待ち続けていた美雨の親の船だったのだ。

エンジンがかかり、ゴポゴポという音と共に船が進み出す。

だんだんと小さくなっていく待合室の光をぼーっと見つめ、あそこに置いてきた美雨の"キモチ"に心の中で手を振った。

"良かったな…美雨。"

美雨はまだ泣くのを必死に堪えているようだ。

『美雨ちゃん良かったね…』

そう言って美雨に寄り添う海美の頬に付いている"海水とは違う雫"が風に乗って海に溶けていった。



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