継母、義母

増田朋美

継母、義母

茉莉は、23年しか生きていない。それは、当たり前のことだ。しかし、もう十分生きてきた気がする。というほど、つらい状況にいた。教師になりたい、と夢見て、東京学芸大学までいったのに、学年を重ねて行くにつれて、どんどん希望が薄れていく。教育実習では、楽しかったのに、いざ、教師になってみたら、ただ、国公立大学へ行くように、生徒を操作しなければならない。茉莉は、生徒たちが不憫だった。中にはそれが、本当によいことだと、信じ切ってしまう者もいる。その子が一番かわいそうだった。
茉莉は、次第に無口になって、表情も暗くなった。
「茉莉」
ある時、彼女の母、多香子がいった。
「もう学校は、よしたら?少し休みなさい。お母さんの給料で、二人十分やっていけるじゃない。しばらく休んで、また、別の仕事さがせばいいわよ。まだ、若いんだもの。」
「でもお母さん、」
茉莉は、泣きながらいった。
「わたしは、何かしていたいわ。なにもしないって本当に悲しいわよ。ニートなんかには、なりたくないし。」
「そうよね。じゃあ、提案があるんだけど、」
母は、優しくいった。母はけしてすぐ怒るひとではなかった。そういう多香子を、茉莉は、尊敬していた。
「お母さんがよく教えにいく、生け花の生徒さんで、とてもすてきな古筝の先生がいらっしゃるの。その方に古筝を習ってみない?楽器も、やすいから、すぐ手にはいるわよ。」
母は、生け花の師範だった。カルチャースクールで教えたり、自宅でおしえたりしている。だから、ひとを見る目がある。茉莉は、中国という国はあまり好きではないが、中国楽器は素晴らしいとかんじていた。
「ありがとう。いってみるわ。」
「よかった。先生のお宅は、電車ですぐよ。お名前は清龍先生。お母さん、申し込みするわ。」

翌日。
茉莉は、清龍の家にいってみた。清龍は、三十位の若者だった。そして、男性ではあるが、どこか女性に近い美しく男であった。古筝のうでは抜群だ。日本語は、あまり上手ではないが、通じないことはなかった。彼は、五年前に妻を亡くしていた。息子が一人いたが、妻は出産時に、後産がうまくいかず、なくなってしまったといった。5歳の息子、烈は、人なつっこくかわいらしい子どもだった。強は、少し変わったところがあったが、子どもならみなそうだろう。
茉莉は、古筝をならいながら、龍と、烈と三人で、コンサートや、食事にで向いたりした。いつの間にか、学校よりずっといいようなきがした。
それから二年後、茉莉は、教師をやめて、専業主婦となった。






茉莉の新しい生活がはじまった。夫の龍は、とても美しく、働き者であり、収入の面では、申し分なかった。
茉莉の友人は、「玉の輿」といい、とくに教師をしていた時の同僚には、妬まれた。茉莉は、持っていたガラパゴス携帯を処分し、最新型のスマートフォンをかった。
しかし、絵に描いたようなしあわせではなかった。義理の息子烈であった。
彼は7歳であった。しかし、全く言葉を話さない。いくら本をよんだり、音楽にあわせてうたわせようとしても、ことばがでない。仕舞には、彼の担任教師から、「聴覚障害ではないか。」といわれ、退学させられた。
そこで、茉莉は、夫と話あい、烈を大学病院につれていった。まず、聴力検査をしたが、そこでは全く異常はなく、聴覚障害ではないとわかった。そのかわり、脳検査をすすめられ、その数日後に、脳検査専門病院である、富士脳障害研究所付属病院につれていた。
研究所で、烈は、ありとあらゆる検査を行った。二人は二時間以上して、よびだされた。
「えー、検査の結果をお話しましょう。」
医師がきりだした。非常に淡たんと、していた。
「聴覚にも、異常はなく、声もちゃんとでています、しかし、お子様の場合脳内の、シルビウス裂が激しく損傷しています。つまり、声はでても、音はとれても、ことばとして伝える機能が全くできていない。お母さま、お子様を産んだ際、鉗子をつかいませんでしたか?きっと鉗子で、脳が破損したのだとおもわれます。」
茉莉は、答えることができなかった、
「はい、確かにそうでした。」
龍は、冷静にいった。
「ものすごく難産でした。産道に頭がひっかかり、妻は力めなくなってしまい、仕方なく鉗子をつかったのです。あのときは仕方ありませんでした。僕も、はっきりと、日本語を理解できなかったので、通訳もろくすっぽだったから。」
「そうですか。産道をとおるときの、赤ちゃんの頭はとても柔らかいから、変形しますよね。その医師は、おそらくしらなかったのかも。だから、乱暴に鉗子をつかわせないようにすべきでしたね。」
茉莉は、自分が継母であることをなかなか伝えられなかった。ならばならば、烈を育てよう、と言う気持ちになる。茉莉は、絶対ににげない。と、けついした。
「どうしましょうか?病児施設をさがしますか?」
「いえ、」茉莉はきっぱりといった。
「わたしが、そだてます。わたしは、後妻ですが、自分の息子だと、おもっていますから!」
茉莉は、決意にみちていた。

茉莉は、まず、烈を学校にいかせなければ、とおもいついた。ところが、障害児を受け入れる学校なぞまるでしらない。市役所に問い合わせてみたが、継母である以上、答えは得られなかった。
その日、茉莉は、市役所から失意のあまり、ションボリと家に帰る途中だった。電車は、満員だった。疲れ果てたサラリーマンでいっぱいだった。茉莉は、降車駅に近づいただめに、鞄をあけた。ところが、財布がみつからない。スリにあったのだ、どうしよう、と、パニック状態になっていたところ、彼女の右手に、千円札が握られた。
「これで、降りなさい。」
男性の、優しい声。振り向くと、青い孔雀の刺青がみえた。茉莉は、ぎょっとしたが、その声は決して極道ではなかった。むしろ、声楽家のような感じだった。茉莉は、振り向こうとした。すると、満員電車なのに、そこだけ隙間が開いていた。男性の、顔がみえた。男性は、車いすに乗っていた。そのために、隙間ができたのだ。夫とは、また違う美しさがあり、いかにも苦労したという顔をしていた。歳は夫より、十年以上はなれていると思われ、少し白髪が混じっていた。
「もうすぐつきますよ、これで、おりなさい。」
男性は、微笑んだ。
「あの、どちらまで?」
茉莉は、真っ白い頭で、トンチンカンな返事をした。
「富士ですよ」
「お、同じ駅!」
富士に、こんなにすごい人物がいたのだろうか。二人は富士駅でおりた。男性は、降りるのを手伝ってくれた車掌さんにれいをいい、車いすを自分で動かして、人ごみをかきわけながら、どんどん進んでいく。当然じゃないか、と、思わせるほど、車いすエレベーターにむかった。まったく悪びれた様子もなく。
茉莉は、回転しない頭を一生懸命うごかしながら、
「すみません、今日は、ありがとう、お礼に、」と、男性と車いすエレベーターにのった。車いすを押しましょうかといったら、きっぱりとことわった。
やがて、エレベーターはあき、男性は、障害者用の改札から出て行こうとした。
「まってください!」
茉莉は勇気をだしていった。男性はふりむいた。茉莉はスリにあったことを駅員にはなして、千円払って、改札をでた。男性は、まだ、待ってくれていた。
「すみません、必ずお礼をしますから、お名前とご住所を、」
「名乗るほどでもないけれど、、、。」
「いえ、おねがいします。」
「それなら、しかたありませんね。中島善男です。」そういって、善男は、名刺を差し出した。
「中島鞄製作所、代表取締役、中島善男」
と、書いてあった。裏面に住所と電話番号がかかれていたため、茉莉は、自分の住所と、電話番号を、手帳に記入し、書いたページを破いて彼にてわたした。
「随分近いですね。」と、善男は、いった。
「ええ、まあ、」と、茉莉は、苦笑した。
「どうです。家の教室にいってみませんか?あなた、大分子育てで悩んでいるようですね。カバンのなかに、障害者福祉のしおりがみえますよ。家の革細工教室も、そういうひとばかりですよ。その媒体として、鞄を作って、こどもさんに、プレゼントしたいから、習いたがるんですよ。」
「そんなところがあるんですか?」
鞄なんて、革製のものは、いちどももったことがない。

茉莉は、中島に連れられて、商店街の一部にある、小さな鞄店に入った。本当に小さな鞄店だった。売っている鞄も全て手作りであろう。店の中は革特有の匂いが、充満していた。
中島は、車いすを自分で操作して、店舗部分から奥の部屋に入った。
「あ、先生。」
中には二人の女性と、ひとりの男性がいた。ひとりは二十代位の若い女性で、もう一人は三十後半の、落ち着いた女性だった。男性は、四十に届くかとどかないか、という年代と、思われるが、顔つきから年齢を推量するのは、むずかしかった。
「えーと、偶然であった、清茉莉さんです。ちょっと変なこと、といったらおかしいけれど、まあ、よくあることで知り合いました。まず、こちらが、木下結子さん。」
「はじめまして、木下結子です。よろしくお願いします。」
二十代の女性が、発言した。
「そしてこの人は、吉村雅子さん。そのお兄さんの淳さん。」 
「よろしくおねがいします。」雅子は、軽く礼をした。しかし、淳は、反応をしめしたが、言葉がでないようだ。口にだして言えないか、耳が聞こえないのかもしれない。
「兄は、耳はきこえるんですが、言葉として、いえないんです。でも、ピアノは、うまいんです。妹の私が保証します。」雅子は、せつめいした。
「わたしは、結婚して、子供がいるんですが、兄は、何もできないから、わたしとくらしてるんです。両親もなくなったし、夫も認めてますので、しかたありませんね。」
雅子は、ため息混じりにいった。いかにも苦労人だった。すごいひとだ、と茉莉は思った。
「兄は、くも膜下になって、こうなったんです。十年前に。」
「茉莉さんは、お子さんはいるの?」
結子がたずねてきた。
「わたしは、いるにはいるんですが、血は繋がってないんです。夫が連れてきた子供で、ちょっと発達障害みたいなものがあって。」
「まあ、継母さんなんですか、お若いのに、たいへんね。」
雅子がいった。
「どんな障害なの?」結子が馴れ馴れしくいった。
「はい、、、。なんか、、、耳はきこえるんですが、やっぱり、言葉がでないんですよ。」
淳のかおに、笑みがでた。
「なんだ、淳さんの子供版ですかあ、きっと、二代めになるんだわあ。」
淳は、指をうごかした。いわゆる手話である。おそらく、声にだして、という脳の指示がでないのだろう。特殊な訓練で、この技術を身につけているのだろう。これを、取得するには、相当苦労したと、おもわれる。
「通訳すると、僕と一緒ですね、よろしくということです。」
中島がいった。
「皆さん、手話を学んでいるんですか?」
「あたしはできないわ。心でつうじてるから。」ふざけたように、結子がいった。
「本当はそれが一番です。あなたも、頑張ればできるようになりますよ。お母さんなんだもの。血のつながりは関係ないわ。お母さんとか、きょうだいは、必ずそうなるものなんです。だって、一番好きなんだもの。」
雅子は、温かい、優しい口調でいった。
「どうですか?」と中島。
「この人たちと、革工芸まなびながら、悩んでいることとか、話し合ってみては、いかがですか?」
「はい。」茉莉は、即答した。もしかしたら、烈を育てることへのヒントをこの人たちから得られるかもしれない。茉莉は、入会し、週にいちど、この店に通い始めた。レッスンで鞄を作るのも楽しかったが、何よりも雅子がたよりだった。茉莉は、雅子と、淳と一緒に、喫茶店などにこもって、簡単な手話から、少しずつ教えてもらい、指文字を1ヶ月かけて覚え、簡単な会話ができるようになった。茉莉は、これを、烈に伝授し、烈は、子供特有の頭の柔らかさで、継母と言葉が交わせるまでになった。指文字だけでも、ある程度までならつうじあえる。夫の龍は、ちょっと苦手なようであった。不器用ではあるが、龍も、なんとか指文字を覚えて、やっと家族揃って、会話ができるようになった。烈は、特殊学校へ入学した。寮をおいていないため、送り迎えは必要であったが、茉莉は、やっとしあわせをつかんだきがした。なんといっても、雅子と、淳兄妹と話し合うのがたのしいのだ。周囲のひとにはわからない、指文字という会話。なんだか、秘密基地みたい。父親の龍も妻から指文字をおそわり、三人で、会話ができるようになり、意思が通じる、ということは、これだけ、嬉しいことだろうか。そして、美しいことであった。烈が、学校であったこと、龍が自分の弟子にたいしての思い、これを、口にだして語り合うなんて、どんなお金をはらっても、手に入れることはできない。休日は、三人で遊園地にいったり、音楽会にいったり。指文字は、うるさいところでも、静かなところでも、つうじる。それが、嬉しくて、茉莉は、幸せであった。

台所を片づけて、さあ寝ようと思った時であった。そとは、土砂降りの雨が降り、所々雷がなっていた。
スマートフォンがなった。開いてみると、吉村雅子からだった。
「茉莉さん。」
雅子は、早口にいった。
「落ち着いてきいてね。中島先生が、階段から突き落とされてなくなったの。」
「な、なくなったの?」
「そうなのよ。車いすごと突き落とされて、打ち所が悪かったみたい。いま、あたしと兄で、お寺にいるから、あなたは烈くんの事があるから、明日一番の電車できて。南雲寺っていう尼寺よ。」
「尼寺?」
茉莉は、びっくりしてしまった。あんな立派な先生が、尼寺なのだろうか。茉莉は、尼僧さんには、一度も、会ったことはなかった。
「そうよ。とても優しい庵主様よ。木下さんに、連絡をとって、きてちょうだいね、とりあえず、きょうは、きるわ。」
電話は、すぐにきれてしまった。茉莉は、結子に電話をかけた。
「はいはい、なによお。」
「あ、あの、中島先生がお亡くなりになって、明日一番で、南雲寺にきてと、、、。」
「ああ、わかったわよ。忙しいからまた。」
電話の奥では外国語が飛び交っていた。ヨーロッパの言葉ではなく、米国の言葉だった。おそらく、米軍基地と
おもわれた。

翌日。
茉莉は、PCで南雲寺を調べ、電車でむかった。最寄りから離れた、竹林の近くにあり、数個の墓石を置いた、小さな寺院だった。本堂をあけると、すでに、中島は棺に入っていた。
「茉莉さん、」
と、淳が、指文字で話しかけた。
「あまりにも、とつぜんて、おどろいています。いったい、なにがあったのですか?」
「いわゆる、おやじがりみたいな、ものでしょうか。はんにんはちゅうがくせいだったときいてます。さんにんとも、しょうねんほうで、すぐにけいきはおわってしまうでしょう。はんせいするよちもない。」
指の動きは、どんどんはやくなり、顔つきも、かわってきた。
「兄さん、お経が始まるわ。」
と、雅子が二人を座らせた。本当に小さな寺だ。本堂のまえには、緑色の苔が蒸した、小さな庭があり、なんとなく寂しい感じがした。ここが本当に、、中島先生の菩提寺だろうか?
尼僧が、袈裟をきてあらわれた。完全に髪を剃ってはいたが、おばあさんではなかった。まだ、四十にもなって、いないようだ。尼僧となってしまうと、年齢もわかりにくいが、おばあさんではない、それだけは確かだった。
と、そのときだった。
ハタアンと、本堂の入り口があいて、真っ赤なドレスに身を包んだ結子が飛び込んできた。
「あたしだけが、のけものですか?」
「わたし、メールいれておきましたけど?」と、茉莉はいった。
「ええ、うけとりましたよ。でもあのあと、携帯こわれてしまって、連絡がつかなかったんですよ。大急ぎで、こっちにきたけど、だれにも、連絡できないから。」
「もし、そうなってしまいやすいのなら、PCに、保存するとか、できないですか?やり」
やり方をおしえようか、と言おうとした茉莉は、淳に口をふさがれた。
「いいですわね、奥様。スマートフォン何かもてちゃって。あたしは、いくらやっても、スマートフォンなんて、
持てないんですよ!」
結子は、吐き捨てるようにいった。
「静かに!」
尼僧さんがいった。
「すみません、庵主様。」
茉莉は、あわててあやまった。
「仏様は、うまく川がわたれませんよ。」
庵主様のお叱りのもと、告別式がおこなわれ、霊柩車と、軽自動車で火葬場にむかった。
火葬場で、昼食をとりながら、茉莉は、結子に近づいた。
「先ほどはすみませんでした。」
「まあ、金持ちにはわからないわよ、中島先生も、すごいまずしかったから。」
「どういうことですか?」
「中島先生って、死牛馬処理権をもっているのよ。わかるでしょ?」
「つまり、、、。」
「新平民なのよ、あの人。だから、鞄屋になるしかなかったの。そういう人ってさ、ずるいわよね。立場はあたしたちより下なはずなのに、牛や馬の皮を剥いで、鞄にして、お金儲けして、挙げ句の果てにあたしたちにおしつける。」
「わかるわよ。私の夫も、日本人じゃないから。たから、やめましょうよ。鞄の作り方なんて、あたしたちは、全くしらなかったんだから。それを教わりたいから、結子さんもここまで、きてるんでしょう?」
「へっ、あんたもいつまでたっても、お子ちゃまね!あたしはそんなこと求めちゃいないわよ、あたしは、この教室、潰すためにきたんだから。」
「二人ともやめて!」
と、雅子がいった。
「ふたりとも、こんなところで、ケンカなんか、しないでよ、庵主様も、仰っていたけど、三途の川はわたれないわよ!」
「ああ、そうでしたわね、皇太子妃殿下。みんな勝手よね、あたしだけ、これっぽっちもいいことがない。」
結子は、バタアンと、ドアを閉めてでていった。

葬儀は、無事におわった。中島は、小さな墓に葬られた。
「先生、逝ってしまわれたんですね。」と、茉莉はいった。
「茉莉さん」
雅子が茉莉の方に顔を向けた。
「私たち、ここで、友達にならない?せっかく出会った仲なのだから、ある意味仲間でしょう?烈君のこともあるし。ねえ、兄さん、いいでしょう?」
「これからも、よろしく。」
淳は、指をうごかした。
「また、れつくんをつれてきてよ。あのこ、かわいいもの。」
「まあ、そんなこと。」
「いえいえ、ぼくも、まさこも、けっこんできなかったから、れつくんにあうのを楽しみにしているよ。」
淳は、屈託のない顔で、そういった。
鞄屋の建物は、とりこわしてしまったが、そこは、小さな喫茶店にかわった。特にブランドがあるわけではなく、雇われ店長が店を取り仕切っていた。オーナーは、誰かなんて、みんな気にしなかった。雅子、淳、そして茉莉は、喫茶店で、他人には分からない秘密の会話をして楽しんでいた。まあ、交通の便が良いわけでもないから、客はそれほど多くなく気軽に楽しめる場所であった。時には、龍が合流して、音楽会にいくこともある。雅子は、龍に、中国語を習い、やがて流暢にはなせるようになった。淳は、古筝を習った。手話の概念がまだ普及していない中国では、意思の伝え会いに多少苦労したが、音楽が、カバーしてくれた。ああ、幸せだ。と茉莉は、思った。結婚してよかった。この町にきてよかった、こんな人たちに、出会うことができたから。茉莉は、そう思っていた。なにより、烈が自分のことをお母さんとよんでくれることが、嬉しかった。

ある日のことだった。
龍は、音楽大学の非常勤講師となり、古筝を教えるようになっていた。
4月だった。もう、桜は散っていた。日本の桜は3月以内に散ってしまうような時代になっていた。
龍のクラスに、新しい生徒がきた。すでに、30を超えている社会人学生で、女性だった。新しい生徒は、木下結子といった。
龍は、木下結子と対面した。木下結子は、とても三十にはみえなかった。豊胸で、細身で、顔立ちもととのった、ある意味女性美がにじみ出ており、傾国の美女、といったらいいのかもしれない。それほど色っぽい女性であった。
「こんにちは。」
龍は、挨拶した。
「こんにちは。」
媚びるような笑顔だった。龍は頭に雷が落ちたようにみえた。しかし、自分の立場は、教育者だから、そんな感情は、もってはならないけど、龍はもってしまった。それは、もしかしたら、中国人だったからかもしれなかった。偏見というものではない。でも、日本の大学生は、大半は眠たそうにやってきて、何かいえば人権侵害だというし、授業をうけるというしせいが、みられない。日本の妻は、「今の子はみんなそうだから、結局、聞き流すしかないわよ。」というが、龍は、どうしても、それが理解できなかった。中国では、そもそも、音大にいって、勉強する子どもは、一握りしかない。だから、勉強は面白いし、退屈しないのだ。だから、「授業がすべて」で当たり前だ。しかし、日本では、通用しないため、龍は、苛立っていた。そのなかに、美しい笑顔を放つ女性が、あらわれて、龍は、なぜかほっとしてしまったのであった。
結子は、優秀な生徒だった。講義では、きちんとノートをとり、実技でも、難曲をこなす。さらにその甘ったるい表情は、龍を虜にした。
「ねえ先生。」
結子は、毎日質問にきた。その日も、ノートを開いて、得意の笑顔でやってくる。
「ああ、もしよかったら、どこかカフェにでも、はいろうか。」
龍は、思わず言ってしまった。
「いいんですか?」
「ああ、この課題は、説明するには、非常に時間がかかるから。」
「うれしいわ。先生と、お話したいと、おもってたから。じゃ、行きましょうか。」
二人は大学のキャンパスをでて、近くにあった、ドトールコーヒーにはいった。龍は、課題を説明した。真剣な表情でみつめる結子は、大学でみるときよりさらに美しかった。龍は、興奮をおぼえた。
「こんなせつめいで、わかったかな、もし、わからなければ。」
「いえいえ、先生の説明はとてもわかりやすくて、嬉しかったですわ。ねえ、、先生。」
「どうしたの?」
「私、こう見えても、三十五なんですの。いま、主人と二人暮らしなんですけど、ちょっとわけかあって、大学のことで、もめてるんです。わたし、中退したくないの。長年、大学にいきたかったし。いろいろ、訳があって、このとしまで、大学に入れなかったの。でも、主人が体を悪くしてしまって、大学にいけるか、危ういの。ちょっと相談のってくれないかしら?」

夜遅く、茉莉のスマートフォンに、電車が人身事故のために、一晩動かないと、メールがきた。その日、龍はかえってこなかった。

龍が、結子の家にいったのは、その一度だけで、二度と龍は、彼女を訪ねることは、なかった。それからの龍は、毎日、授業が終わればすぐ帰ってきた。本来大学に勤めていれば、生徒と関係を持つなんとことは、多少あるだろう。茉莉も、どうしても分からない授業があり、教授の家にいって教えてもらい、夕飯を頂いたら、大雨になってしまい、そのまま教授の家に泊めてもらったことは、ザラにある。特に音楽大学であれば、その傾向は強いだろう。学校の中で、アンサンブルの授業があり、それだけでは、練習がたりないから、教授の家にいく、というケースだろう。と、茉莉は、考えていた。
しかし、龍のほうは、次第に大学に行くのが辛そうになった。毎日朝おきてこないし、起こしにいくと、頭が痛い痛い、などをいう。学生が待っているからといわれて、やっとたちあがる。表情も、落ち込み気味になり、まっすぐかえってくるが、家では、酒でうさをはらし、古筝に触ることは、ほとんどなくなった。
「あなた」
と、茉莉は、聞いた。
「あなた、最近どうしたの。ばかに、落ち込んでいるみたいだけど。」
「うん。少し上官ともめごとがあってね、」
「どんなこと?ねえ、教えてよ。こんなにたくさんのビールのむより、話したほうが楽になるわよ。あたしだって大学いったんだから。」
「君は生徒だろ!教える側は教える側の苦労があるんだよ!君には、わからないよ!」
龍は、テーブルをばんと叩いた。そして、洗い桶と、バスタオルを用意し、鞄をもった。
「どこいくの?お風呂なら沸いてるわよ。」
「今日は、銭湯にいくよ。」
龍は、出て行ってしまった。数時間後にもどり、すぐねてしまった。翌日は土曜日で、大学は、休みだったが、龍は、またでかけていってしまった。
茉莉もなんだか、気持ちがしずんでいた。烈が、
「お母さん」と、話しかけた。
「お茶でものみにいこうよ。ぼく、欲しい楽譜があるから、買いにいきたいんだよ。」
烈は、指文字だけでなく、手話を覚えていた。淳から教わったのだ。烈は、淳に非常に憧れていた。ひとにきかれたくない、秘密のお話も、ほとんどのひとには、分からないから、平気な顔でできるのだ。それが強みだった。淳の影響で、雅楽に興味をもち、龍笛をはじめた烈は、雅楽師たちからも、可愛がられ、毎日練習にかよっていた。学校の成績は良くないけれど、茉莉は、きにしていなかった。勉強は必要な時にすればいい。勉強でしばりつけていては、子どもが萎縮してしまう。それが茉莉のコンセプトだった。
烈と茉莉は、雅楽器店にいった。店のおじさんも、指文字を覚えてくれたおかげで、スムーズにかいものができるようになっていた。烈は、龍笛の楽譜を一冊買った。
その隣に、ドトールコーヒーがあったから、茉莉と烈は、お昼をたべて行くことにした。二人が、雅楽の話をはずませていると。
「茉莉さんではありませんか?」
と後ろから声がした。振り向いてみるとふくよかな体格をした、色っぽい女性がいた。
「あら、結子さん!全然連絡なかったから、どうされたのかとおもっていたわ。」
「いえいえ、こちらこそごめんなさい。何も連絡できなくて。こちらもいろいろあったのよ。」
「まあ、いまは、どちらにいらっしゃるの?」
茉莉は、結子が何度も腹のほうへ目をやるのがきになった。
「お陰様で、7ヶ月なのよ。」
結子は、得意気にいい、腹を撫でた。
「じゃあ、もうすぐね。お父様は?」
「ちょっとワケがあっていえないわ。でも、この子はあたしが、立派にそだてる。もしかして、アドバイスもらうかもしれないけど、よろしくね。」
結子は、こびるような顔でいった。
「いいわよ。でも、お産のことは、全然わからないから、他を当たってね。」
「それなら大丈夫。ちゃんと病院決めてあるし。あたしは、自然分娩がしたいわね。あんまり、手術は、したくないわ。やっぱり、こればっかりは、女の特権よ。でも、あたし、中毒症が少しあるのよ。それでも、いいから、自分で産みたいわ。」
「昔の結子さんとは、ちがうわね。」
「そうよ。女は身ごもると強くなるものよ。」
「そうかもしれないわね。」
「烈くん、お姉ちゃんの赤ちゃん、触ってみる?」
ところが烈は、楽譜に熱中していて、まるで二人の話とは、別世界にいるようだ。
「ごめんなさいね、夢中になると、すぐこれよ、この子。」
「いいのよ、打ち込めるってことは、いいことよ。あたしも、烈くんに負けないように、打ち込めるものを与えられるお母さんになりたいわ。」
「ありがとう、あ、もうこんな時間。お夕飯の買い物しないと。また会いましょう。」
茉莉は、時計をみて、烈に、かえろうか、といった。烈は、やっと我にかえり、楽譜をカバンにしまって、さようならの挨拶をした。茉莉と烈は、家に帰った。
龍は、夕飯のころ帰ってきた。茉莉は、かつての友人結子に偶然会い、彼女がもうすぐ赤ちゃんが産まれるといっていたから、出産祝いをおくろうか、と持ちかけた。龍は、真っ青なかおであった。本人は、風邪を引いたからだと、ごまかした。その真夜中、烈がトイレに起きると、父親はスマートフォンでメールを打っていた。

それから、3ヶ月たった。結子は、エベレストに登ったような、恐ろしい苦しみのはてに、女児を出産した。しかし、その子に対して、かわいい、という気持ちは、えられなかった。これが、出産だろうか?ただ、痛みと苦しさと、いきみとの戦いしか感じられない。結子の母親は、妊娠中毒症が悪化したため、自然分娩は、無理だと、口をすっぱくして、いいきかせたが、効果なしであったから、そうなった、とすぐわかったのだが、結子本人は、わからないようであった。

結子の母親は、彼女の命令どおりに、雅子と、茉莉に電話して、産まれたことをつげた。すると、茉莉の家は、数日後に黒い旗がたてられた。
そう、清龍が自殺したのだ。茉莉は、彼の日記から、結子との顛末を全て知った。しかし、烈を一人にさせてはいけない。あの子は、私がなければ。茉莉は、中島の菩提寺である尼寺で、女中奉公することにした。一方女の子は、鏡子と名付けられた。 



鏡子は、よく泣いた。よくなくタイプの赤ちゃんだった。結子の母親は、うるさく泣き叫ぶ方が健康だ、といい、よくあやした。いわゆるシンママなので、おばあちゃんがいたほうが、本人も楽だろうという、病院の医師から言われたために、同居をはじめた。しかし、母の史にとっては、初孫。かわいいのは、当然のことう。史は、結子に、アドバイスした。それは、確かだ。しかし、所謂「育児本」には、載っていることとは、正反対。結子は、母の存在が嫌になった。鏡子は、赤ちゃんだから、一人では何にもできない。ただ、こうしろああしろと、せびるだけ。ただの、何にもできないやつとしか、おもえない。
どうしてこうなんだろう。これでは話がちがう。実の子を作って、継母であるはずの、清茉莉に対抗することが、目的だったのに。実の子であれば、継母より、自分になつくはず、ところが、まったく楽しくないし、つらいだけ。母親の史にとられてしまったような、悲しみもあった。
「自分の子なのに。」
なぜ、こんなにも苦しいのか。

茉莉は、尼僧さんのもとで、女中奉公をしながら、精進料理を習い始めた。尼僧さんは、中島のことを、檀家の一人だけとは、みていないようだ。
「中島さん」、尼僧さんは、話し出した。
「一番、信心深い方でした。やっぱり、新平民でしたからねえ、カバン屋にしても、うまく行くこともなかった。教室はじめても、うまくいくことは、なかったから。」
「うまくいかなかった?」
「そうでしたね、みんな、お体の不自由な、ひとばっかりきて。すごく嫌がらせされて。仕方ないって、ごまかして笑ってるしかないんですよ。あの人は、そういう生き方しかできなかったんですよね。仕方ないですよ。あの人は、そういう身分しかなかったんですよ。でも、彼はよく、「マイナスは、必ずプラスになる、それまで、がんばらなければ。」と、口にして、一生懸命行きてきて、でも、ああいう、なくなり方でなくなったから。」
「庵主様」
と、茉莉は、いった。
「中島先生は、どんな生涯だったのですか?」
「中島さんはね、いい家の息子でしたけど、歩けなくなって、革細工の職人の、かわた部落のひとに拾われて、学校にも通わないで、ずっとやってきたんですよ。ご両親なくなっても、ずっと革細工の道をいきましたよ。で、いつかは、出家して、ご両親の弔いをしたい、と、私のところへ、訪ねにきたんですよ。彼は、親思いで、本当にまじめな子でしたよ。親が、本当の親じゃないのにね。大金持ちの方に捨てられて、かわた部落の人間になって、それでも、彼はいつか見返してやるんだと、意気込んでいました。彼のご両親も、彼を普通の人間として、育って欲しい、と、うんと厳しくそだてたけれど、彼は、それをしっかり受け止めた子でしたよ。」
「そうだったんですか。」茉莉は、
泣き出した。
「きっと、仏様が、あなたを、導いて下さったんですよ。」
尼僧さんは、優しく微笑みかけた。
「あなたのことを、彼はよく知っていましたよ、学校の先生だったけど、気持ちが優しすぎて、悩んでると、よくきかせてくれましたよ。こんなこといったら、ストーカーみたいになるから、いえないって。あなたが、龍さんと結婚したときは、とても喜んでいました。」
「すみません、私をどこで、みつけたんですか?」
「あなた、大雨が降って、いえに帰れないで、パニックになって、駅で、倒れてしまったことがあったでしょう?」
そういえば、、、と茉莉はおもいだした。一度そういうことがあった。あのときはものすごく、大雨で、新幹線もバスも止まってしまい、もう、どうしていいか、わからなかったのだ。気づいた時は病院にいた。
「あのときは、精神科があまり無かった頃だから、駅員さんたちも、途方にくれてね。そうしたら、車椅子に乗った、中島さんが、あらわれて、テキパキとやってくれて。でも、名乗りでることは、しなかったの。彼は、かわた部落の人間だから。しなかったというか、できなかったのよ、仕方なかったのよ。」
そんなことがあったなんて、全くしらなかった。
「見えないところで、人はつながっているものなのよ、一見、なにもないようにみえるけど、これからであうのかも、しれないし。」
尼僧さんは、やさしくいった。茉莉は、涙がとまらなかった。

結子は、史があまりにも、鏡子を可愛がるために、史が買い物に言ったすきを狙って、鏡子をつれて出て行ってしまった。もう、売春だってなんだってやろう、そうして、お受験させて、東大へいかせ、「血のつながり」をあの継母に知らしめてやろう、という魂胆だった。結子は、まず、渋谷にいってしばらくホテル暮らしをしながら、体を売って金をかせぎ、仕事をさがした。しかし、高校を卒業していない、結子には、非常にむずかしかった。大学は、替え玉受験だった。鏡子がうまれて、あの中国人を茉莉から奪えば、自分は、よい暮らしができるだろうと、思っていた。しかし、1日体をゆるさせ、子供をもうけた、といってゆすったが、繊細過ぎた龍は、亡くなってしまった。これが、予想外だった。さらに、龍が亡くなって、義母と、子は、仏様の弟子の家で厳重に守られている。どうして、自分は、こんなにも、つらいのだろう。子供をもつ、とこんなに。だんだん彼女は、「子供なんか、うまなきゃ良かった」とおもうようになった。鏡子の存在が、疎ましくなり、鏡子がなく度に、タバコの火をつけた。いわゆる根性焼きであった。
一週間渋谷に滞在して、やっと働けそうな場所がみつかった。スーパーマーケットのレジ打ちだ。二人分暮らしていけるには、申し分なかった。結子は、新幹線にのり、その町へいった。
駅からでたら、もう茶畑ばかり広がるその町に、なんとなく見覚えのある、景色があった。なんとなく、革の香りがした。そこは小さな喫茶店であった。少しいくと、小さな尼寺、
そして、公園。公園を通り過ぎたところに、職場があった。
職場の、スーパーマーケットは、劣悪であった。なによりも、上司は、仕事を覚えられない結子に、次々に文句をつけては、おどした。これが、だめだ、あれがだめだ、こんなこともできないのか、他の従業員は、その上司の癖を知っているから、聞き流す術をみにつけていたが、結子は、どうしても、できない。結子は、ここまで、自分は、不幸なのなら、もう自分は、いきている価値がない、と、おもい、立体駐車場の、屋上にいった。鏡子も、道連れにするつもりだった。この駐車場は、大売り出しでも、しなければ屋上には車は来ない、としっていた。結子は、フェンスに足をかけた。

と、そのとき。
「木下さん!」
「結子さん!」
二人の女性の声がして、強いうでに、ガシッとつかまえられ、結子は、赤ん坊といっしょに、フェンスからおろされた。捕まえたのは、明らかに男性だ。しかし、声が女性しかない。
「結子さん!」
目の前に茉莉の顔が見えた。
「じゃましないで死なせて頂戴よ、継母って、なんで実の親子よりも、綺麗なのよ!」
「なにバカなことを、いっているの!」
もう一人の女性が結子を平手打ちした。雅子だ。そして捕まえているのは、兄の淳。そして、もう一人は、、、?
「烈?」
少年は、しっかり頷いた。
「そうだよ!」
彼の指文字がそういった。
「どうしてあたしは、、、。」
結子は、力が抜けてしまった。
「兄さん、烈君と、彼女を庵主様のもとへ。あたしは、この赤ちゃんを、病院につれていく。きっと、何日間も、ミルクを飲んでいないわ。」
雅子は、テキパキと、しどうした。
「わかったよ。」淳と、烈は、茉莉の車に、気を失った結子をのせ、全員車にのり、尼寺にもどった。今日は大売り出しの日であったが、屋上に一番のりだったのは、茉莉たちだったのだ。
茉莉は、尼僧さんに連絡をいれ、尼僧さんに、布団を用意してもらった。
結子は、その日1日眠っていた。蝕んでいた体の疲れが、大爆発したように、眠った。
結子が目をさますと、茉莉、雅子、淳がまわりに座っていた。しかし、鏡子は、いなかった。しかし、うまうま、と何かしゃべっている声がする。そして、烈もそこにいなかった。
「鏡子は!」
と、結子は、さけんだ。
「鏡子を返して!」
「烈、」茉莉がいった。烈は、鏡子を抱いていた。だきながら、こけ庭を散歩していた。
「戻ってらっしゃい、」
烈は、鏡子をだいて、戻ってきた。あやしかたも、男前だ。いわゆるイクメンというやつか。
「烈は、いま、看護師なのよ。精神科の。男が看護師になるなんて、ちょっと恥ずかしい気もしたけど、いまは、男性の看護師も、おおいわよ。特に、精神科はそうみたい。」
雅子がせつめいした。
「まあ、それだけ、傷ついている人も多いということだろうね。僕らが若い頃とはまるでちがう。茉莉さんが継母であっても、不思議ではない時代になったなあと、庵主様はおっしゃっていただろう。」
淳が付け加えた。淳と、雅子は、発言したが、茉莉は、全く発言しなかった。
「茉莉さん、良かったね、結子さんに、戻ってきてもらって。」
雅子は、柔らかく、語りかけるようにいった。茉莉は、ふっと微笑むだけだった。
「おかあさん、よく、結子さんの顔を覚えていたね。もう、わすれていると、おもったけど。そして、なんであのときだけ、車を飛ばすほどの、力がでたのかな。庵主様も、不思議がっていたじゃないか。」
烈は、不思議そうにいった。
「友達だからよ。」
茉莉は、噛み締めるようにいった。
結子は、布団から跳ね起き、茉莉のほうをみた。茉莉の顔は、この世の人間の悲しみも喜びもわすれた、天人のかおだった。
「神様が一度だけ天の羽衣をとってくださったんだね、おかあさん、よく、頑張ったもの。お父さんがなくなって、おかあさん、一日中働いて、昼間はレンタカーの斡旋とかして、夜は旗振りを、僕が大学を出るまでつづけたもの。神様が天の羽衣着せてくださったと考えれば、認知症も怖くなんかないさ。お母さんへのご褒美だよ。そうさ、お母さんだもの。大好きだよ。」
烈は、ゆっくりと、手を動かし、継母に語りかけた。
私の負けだ。と、結子はおもった。もう、茉莉は、空飛ぶ車が迎えに来るのをまつ、それだけでいいだろう。烈をここまで育て上げたのだから。
「茉莉さん、」
結子はいった。
「烈君のお母さんに、させてくれませんか?」
「Kirei na Okasan」
天人は、結子に微笑んだ。
それから、二日後、空飛ぶ車が彼女を連れさっていった。

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