白昼夢の終演、僕が見たエトセトラ

些稚絃羽

7.予想外の集い

 遠ざかるパトカーを横目に、再度言い募った。

「おかしくないですか、どうして奥野さんが連れて行かれなくちゃいけないんですか」
「任意だと言っているだろう」
「だからさっきからその任意の理由を聞いているんじゃないですか」

 じわりと、身体に絡み付く眼光が頭の上から降ってくる。少しでも抗ってやりたくて僕も目を逸らさない。サイレンはもう遠く薄れていった。

「部外者は引っ込んでいろ」
「聴取を受けている僕は立派な関係者です」
「ったく……」

 鬱陶しそうに煙草をくわえて自然な流れで火を着けた。口の端から大きく吐き出された煙は、鎮火前の空を思わせる。相変わらずの重い臭い。不謹慎だと言われようが、この人の身体は殺しても死なない強靭さなんだと思う。
 姉川、と煙草の隅で呼んで、あの若い刑事が露骨に嫌そうに顔を顰めた。

「いいんですか、そろそろ上に苦情入れられますよ?」
「そんなもんは知らん」
「ネチネチ嫌み言われてる俺の身にもなってくださいって……」

 姉川といえば、以前の電話で聞いた名前だった。あの人とここに居るということは同じように警視庁から派遣されているのだろうか。若いがあの人に臆さないところを見ると、つい最近コンビになったとは考えられない。
 入れ替わりで近付いてきた姉川刑事が片手で手帳を開きながら、もう一方に握ったペンで頬を掻いている。ペン先が出ていることに気付いていないのか、頬には黒い筋が二本走った。普通なら笑おうかどうか迷うところだが、その姿には見覚えがあった。

「姉川さんってうちによく来てたあの……?」
「へ、あ、君ってガクさんとこの歩くん?!」

 懐かしいなぁ! と一気に顔が華やいだ。黒い筋は笑い顔の皺に紛れてしまった。

 彼は姉川裕あねがわゆたか。こう見えて三十七歳の中堅刑事だ。
 彼が警察官になりたての二十歳の頃に、うちで一緒にご飯を食べたのがきっかけで知り合った。その頃はまだ交通課に配属されたばかりだったのに、「天然だが面白い奴」として一年後にはふたりはペアを組んでいた。あの人の言う「面白い」とは飛び抜けた何かがあるということだから、刑事としての素質があったのだろう。でなければ交通課の新米に注目するようなことはなかったと思う。あの人の目は嫌いだけど、人を見抜く千里眼は確実なのだ。
 僕が中学に入るくらいまでは何度か会うことがあった。相棒のことをまなぶという名前からガクさんと呼んで、子供の僕から見てもよく懐いていた。まさか未だに一緒だとは思いもしなかったけれど。

「本当に大きくなったね。どおりで見覚えがあると思ったよ、そっかそっか」
「お元気そうで何よりです」
「わぁ、そんな気が遣える大人に成長したんだ。月日が経つのは早いなぁ」

 姉川さんは心底嬉しそうに言う。あの人と十七年も行動を共にしてこれほど変わらずにいられるというのも一種の才能なのかもしれない。
 それから僕の後ろを軽く覗いて、僕にだけ聞こえる程度まで声のトーンを落とした。

「じゃああの車椅子の女性ってもしかして」
「母です」
「やっぱり! ……そっか、何かすごいとこに遭遇しちゃったなぁ」

 当然のことながら、うちの家庭のことを多少は知っているのだろう。詳しく話を聞き出せたとは思わないけれど、大まかな事情には行き着いているはずだ。答えようもなく言葉は苦笑いに変えた。
 姉川、と再度厳しい声が飛ぶ。さっさとしろと言い含めていることは明らかだった。姉川さんも一度肩を竦めると、必要な情報だけ、と前置きして咳払いののち刑事の顔に戻った。

「既にご承知の通り、離れから一人の遺体が見つかりました。顔面に火傷を負っているため人相の判別は難しいですが、履いていたジーンズのポケットから財布と一緒に免許証が出てきました。
 身元は小林拓馬こばやしたくま、三十四歳。住所不定無職。DNA鑑定に回していますが恐らく免許証の人物本人で間違いないでしょう」
「事故ということは絶対にないんですか?」
「後頭部に出血と打撲痕があったんだ。あっと、致命傷となるような大きなものではなかったので、脳震盪を起こして倒れたところで離れに火を着けられたと考えています」

 死因は恐らく一酸化炭素中毒。いずれにしても後頭部の打撲痕が見つかったとなれば、小林という男は何者かに殺害されたと断定していいだろう。警察の考えはもっともだ。
 ということは火災当時ここに居なかった奥野さんが同行を求められたことにも、もっともな理由がある。そんなことは分かっていて、だからこそ知りたくて噛み付いたのだ。
 姉川さんが続ける。

「奥野敏之は害者と親しく、火災時にも害者に会うために、害者の泊まっているビジネスホテルを訪ねていたと話しています。
 害者の方から呼び出されたものの部屋を訪ねても居らず、十分ほど待っていたとのことです。その間二度、害者の携帯に電話をかけていますが繋がらず、帰ってきたら消火活動の真っ最中だった、というのが奥野の供述です」

 本宮さん、小林拓馬についてご存知ですか。
 母さんに質問は向いたが、本人は首を振った。奥野さんの個人的な知り合いらしい。相手はまだ若い。どういう知り合いかは分からないけれど、来客予定があるのにわざわざ会いに行っていることからすると近しい間柄だろうと思う。しかし母さんに話していないことが引っ掛かる。話すほどではなかったというだけならいいが、敢えて話さなかった、または話せなかったというのなら、関係に怪しさが増す。住所不定で無職の若い男だ、真っ当と断言するには謎すぎる。

「親しいというのはどの程度ですか?」
「奥野によると害者は十歳まで身体が弱く、奥野が働いていた病院に入院していたことがあるようで。十年以上会っていなかったようですが、害者の方が訪ねて来てまた交流が始まったと言っています。
 ここ五年ほど害者は金に困っていて、借金取りに追われていたという話もしていました。以前も何度か金の相談を受けていて、実際に金を渡したことも一度。それについては返さなくていいと言って渡したものだから返済はされていない、ということらしいです。
 今日呼ばれたのもきっと金の話だと思ったからそろそろ厳しく言わないと、と思っていたみたいですが、まぁどれもこれもまだ奥野の話しか聞けてないので何とも」

 金絡みか。確かに立場的には一番疑われそうではある。
 向こうから会いに来たくらいだから、入院時にかなり慕われていたのだろう。大人になった姿を見てもらいたいというやつだろうか。しかし世話になった人に金の相談というのはいただけない。一度金を渡してしまったことで調子に乗ったと考えられる。
 それでかっとなって? いやいや、それなら奥野さんがホテルまで行っていることと、小林氏がこの離れで亡くなっていることが繋がらない。奥野さんの計画的犯行、なんてものもなくはないが、可能性の有無を思案できるほど彼のことを知らない。

「ホテルに確認しましたが、古いホテルでフロントにしか防犯カメラが付いておらず、奥野も直接部屋を訪ねているため映っている確率はほぼ皆無、ってことで本当にホテルに行ったのかという点が目下の最重要事項ですかね」
「奥野さんが嘘をついていると?」
「所轄はね。ガクさんが行くとこ皆焦って行動しちゃうんだよなぁ。所轄の力見せてやるー、って」

 あくまで任意の事情聴取なんで諸々裏が取れたらすぐご帰宅ですよ、と姉川さんは締め括った。必要な情報だけと言っていたが恐らくほぼ全部喋ってしまったんじゃないか。加えて余計なことまで。一度も止められなかったということは聞かれて困ることでもないのだろうが、こちらの方が心配になるくらいだ。

 警察内のいざこざは置いといて、ここに居るふたりは奥野さんを少しも疑っていないらしいということが、救いだと思った。
 所轄の刑事達がどれだけ束になったところで、神咲学の前では烏合の衆だ。もっともらしく仮説を立てて裏付けを提示してみても、ただの一言でそれは覆されてしまう。突飛に思える角度で、ずっと先へと一気に飛び越えてしまうのが、神咲学という男。前人未踏の領域へ当たり前に進んで行くのが僕の父なのだと、その思いがかつての誇りだった。
 簡単に思い出せてしまうものだ。塵ひとつもなくなったと思っていたのに、目の前にしてみれば蓄積されてきた感情の強さに思い至る。全て消えた後の残り香なのか、今も心の真ん中に堆く築かれたままなのか、僕では判断が難しい。客観的に見てほしいなんて、絶対に思わないけれど。


「僕にできることはありませんか?」

 そんな言葉が口を突いて出た。

「市民の義務として警察の捜査に誠実に協力してくれたら言うことはないよ」
「むしろ積極的に協力したいんです。僕は探し物を請け負う探偵を名乗っています。証拠品をひとつ増やすことも不可能じゃないと思いますよ」

 警察相手に何を言っているのかと呆ける姉川さんの反応は正しい。自分が一番戸惑っている。はっきりと耳に届いた声には自信が満ちていたし、脳は本当にそうできると何故か確信していた。
 見栄なのだろうか。これが久々に両親を前にしたゆえの見栄だとすれば、なんて子供じみたものだろう。

「そう言われても……」
「母はここの住人ですよ、母屋に入ることも許されないんですか?」
「奥野が引っ張られている現状ではちょっと」
「でも疑ってないんですよね?」
「う、うーん。ガクさぁん」

 姉川さんが助けを求めるように振り返った先では、携帯灰皿に吸い殻を入れる姿が見える。現場周辺を少しも乱さないのがあの人のモットーだ。
 俯き加減のまま視線だけをこちらに寄越す。

「馬鹿か。少しのまぐれで調子に乗るな」
「本当にまぐれだったか見てもらういいチャンスだと思うんですが」
「自分の仕事をしろ。ここは俺達の仕事だ」

 踵を返して現場へと戻っていくのを眺めていることしかできなかった。
 当たり前だ。当たり前なんだけど、どうしたって隔てられた溝は深く大きいのだと感じた。やはり認めてほしいのかもしれない。どんなに嫌いでも、実力は否定しようのないものだから? ……それ以上は考えたくない。

 母さんはじっと僕を見ていた。ずっと背を向けていたのに、対面して目が合っただけでそんな気がした。

 まぐれ。そうだよ、全部まぐれだった。掘るだけ掘って触れた何かにそれらしい理屈とストーリーを付けて、それに皆が結末を加えただけ。犯した罪に傷付いた心根が本人を正しただけ。ただそれだけだった。
 あの人の言葉に少しだけ悔しくなったのは、きっと心の内で自分の力だと過信していたからなのだと思う。それなら誰かを助けたい気持ちで必死になったのは、ただの承認欲求だったのだろうか。存在意義をそこに見出したかったからなのだろうか。違う、と言いたい。他でもなく自分に。だけどそうかもしれないと確実に思い始めていた。

「歩」
「母さん?」

 手が伸びてくる。車椅子の上で、記憶より弱った母さんが僕に手を伸ばす。
――どうしてこうなってしまったんだろう。
 僕が近付いてやっと、互いの掌が触れ合った。母さんが強く手を握る。
――近付こうとすることすらやめたらどうなっていたんだろう。いや、もう半ばやめていた?
 手を引かれて、空いた手が頬に触れる。慈愛に満ちた瞳は、とても母親らしい。
――怖い。知るのも知られるのも。からっぽだと気付くのが、怖くて堪らない。

「依頼をしてもいいかしら」
「……依頼?」

 現実に引き戻される感覚。
 脳内を取り巻く鈍色の思考を認めるのも退けるのも、これからの僕次第。僕は僕自身に証明しなくてはいけない。それが今だ。

「敏さんが犯人なんかじゃないって証拠を探してください」

 思いは、ただひとつ。

  

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