白昼夢の終演、僕が見たエトセトラ

些稚絃羽

1.すり減る何か

 今年の冬は一際寒かった。
 過去形でそう考えるのは、暦の上ではもう春を迎えているからだ。かと言って三月に入った今も、まだ手放しで暖かいと言えるほどではないけれど。

 スリープ状態で置いていたパソコンで今日の天気を確認する。どこもおおむね晴れの予報だ。温度も昨日と大して変わらないらしい、薄手のコートにマフラーもあれば十分だろうか。海の天気は変わりやすいというけれど、そこまで万全の体勢を整えるのは何だか億劫だった。
 パソコンをシャットダウンして、コンセントを抜く。パソコン用の鞄もクローゼットの中にあったと思う。でも持って行くのはやめにした。荷物をあまり増やしたくない。

 最低限の必要なものは愛用のリュックにすでに詰めてある。どの程度ここを離れるかは分からないから、荷物はごく少ない。人によっては一泊か辛うじて二泊できるくらいだろうか。長くなれば現地調達で問題ない。どうせ小さいながら充実した日本の中なんだし、そうした面での不自由や不安は今考える分には皆無と言っていい。

 これまで改良を重ねながら使ってきた仕事道具は、念のためすべて持ち出すことにした。少々かさばるが仕方ない。
 今後の仕事の行く末については何度考えようとしてもどこにも行き着けないままだ。道具を持ち出すのは新しい地に腰を据えるためではない。近くになければ手持無沙汰で少し落ち着かなくなるから、という情けない理由からだ。


 自室のドアを開ける。
 その先には毎朝見るのと変わらない、けれど幾らかすっきりしすぎている僕の探し物探偵事務所がある。自室も事務所も、この機にした断捨離のお蔭でここに来た当初と同じくらいまで簡素になった。心機一転始められそうだといつかの自分なら思えたかもしれない。今の自分ではこれまでのことをなかったことにして無理矢理ふりだしに戻したような、嫌な罪悪感を感じてしまう。
 殺伐とした空間の中で存在感を放つ、壁に掛けられた二枚の絵。画家になりきれなかった才能ある男の絵と、僕を慕ってくれた少女の希望の絵。それだけが、すべてを捨て置いたわけではないのだと言い訳する猶予を与えてくれた。何を捨てても、何を置いて行っても、記憶は持ち続ける。誰と交わすでもない約束を、がらんとした事務所に転がして、鍵をかけて閉じ込めた。

 簡素なアルミのドアに揺れる銀色のプレート。<只今捜索中!>と書かれているはずのその場所に、今は上から<休業中>と書いた紙を貼っている。我ながら汚い字だ、せめて掠れないペンを使えば良かったのに、と他人事のように数週間前を振り返った。書き直さなかったのはやはり、億劫だったからだ。


 そこかしこから落ちたコンクリートの粉が積もる崩れかけの階段を下りて、古びた二階建てのビルを見上げる。
 ここに事務所を構えてもう七年、随分とこのビルにも世話になった。最初は安さに飛びついて選んだのを後悔もしたけれど、今では大切な我が家だ。どんなにオンボロでも、いつまで経ってもひとりきりでも、ここが、ここだけが僕の我が家だった。この七年間、ずっとそうだった。あと三ヶ月もすれば八年目を公言できたが、その日を迎えることはないかもしれない。次にここに帰ってくるのは、荷物をまとめる時だろうか、明日のことを考えることさえ今は難しい。


 歩き慣れた道を進んでいく。目的地は最寄りの駅だ。
 予報通り、空はよく晴れている。山の上には薄っすらとした雲が広がっているが、雨を降らすことはなさそうに思える。珍しく風もほとんどなく、こちらまでやって来ることもないだろう。
 一歩ずつ足を前に進める毎に、身体が重くなっていく。少しも変わらないリュックの位置を直しながら、前のめりに足を出す。右、左、右。念じていなければどちらがどちらかも分からなくなるような気がして、背筋に冷たい汗が落ちた。

――あの手紙が来なければ。
 その考えが間違いだということは、誰に指摘されるまでもなく分かっている。だってあの手紙は、僕がずっと探し求めていた答えだから。しかしある意味、カンニングと言ってしまっても差し支えないものだ。


 奥野敏之おくのとしゆきという人物からの唐突な手紙は、端的に言えばこういう内容だった。
 本宮栞理その人と同居をしていること、勝手に詳細を明かすことは控えるが彼女は病気で余命幾許もないということ、少しでも早く息子に会わせてやりたいと彼女には黙ってこの手紙をしたためたこと――。
 彼は僕がどういう仕事をしているか、それがどういう理由で始めたものかもすでに承知しているようだった。考えるまでもなく、"彼女"から伝え聞いていたのだろう。僕自身はそれを目的としているとはいえ、見知らぬ他人に知られているというのは何だか居心地の悪い思いがした。

 その中で驚いたのはやはり、病気を患っているということ。しかも余命幾許もないならかなり重度だ、いつからそんな病気を抱えていたのだろう。

 彼からの手紙はその一通では終わらなかった。最初の手紙を受け取ってからのこの三ヶ月、月に一度のペースで手紙は送られてきた。
 それは催促というよりは、純粋に僕の身を案じてのことだった。同時に僕と本宮栞理との関係を案じてのことだろう。勘繰ってしまえば、後者の思いの方が強いのかもしれないが。
 三通の手紙と先週こちらからかけた電話での対応から察するに、奥野という人は決して悪い人ではない。実に紳士的で深い気遣いのできる善い人だと思う。唯一引っかかることはといえば、ふたりが恋人ではないと敢えて明言していることと、男女が生活している空間を同居と記している点くらいだ。

 僕だって二十七歳のいい大人だ。男女が出会った先の結末など大した分岐がないことくらい知っている。彼の言葉を借りるなら「同居」していて少しも感情の変化がないことの方が不自然だろう。勿論強く願うような類ではないけれど、親のそういったことを嫌悪する思春期はとうに過ぎている。そうならそうで堂々としていてほしい。
 ……あぁ、でもそうか、母さんは恋愛に思いを馳せられるような状況ではないのかもしれない……。



「うわっ」

 アスファルトについた両手が痛い。起き上がって貼り付いた小石を払い落す。どうやら道路に穴が開いていたらしい。考え事に集中しすぎるとこうした弊害がある。再会を果たす頃には傷だらけになっているのではないだろうか。想像すれば本当になってしまいそうで、気を引き締め直すことにする。駅はもうすぐそこまで近付いていた。

 足を止めたまま周囲を見渡す。通勤通学の波が引いたあとの街はとても静かで、僕と同じように歩いている人はさほど居ない。聞こえるのは遠くに見える大通りを行き交う微かな車の音と、電線にお利口に並ぶ鳥のさえずりだけだ。深呼吸をすれば、ひんやりとしつつも丸みを帯びた柔らかな空気が肺をいっぱいに満たした。先程より足が軽く思えた。

 思い返せば、この街を拠点として選んだのは、この優しい空気が故郷に似ている気がしたからだ。
 あの地を出たのは父親の存在から離れるためだったけれど、探し物探偵を始めるにはどうしても故郷の安らぎが必要だった。逃れたいものと追い求めるものの両方が同じ場所にあって、結局求めるものにだけ目を向けることにした。鼻の利く神出鬼没な男を相手にすれば、そんな抵抗が無意味だったと最近になってやっと気付いた訳だけど。

 こうして僕は、二つ目の故郷さえ失うのだろうか。
 誰が拒んだ訳でも、追い出される訳でもなく、旅立とうとするのはいつだって僕自身だけれど、そんな言葉が自然と頭を過った。七年もの間、僕は一度だってこの街に受け入れられていないなどと感じたことはなかった筈なのに。あの手紙が来てから、僕は僕がよく分からなかった。
 それを見つけるために、僕は行くのだろうか。母さんに会えば何かが分かるのだろうか。
 今は何も分からない。



「探し物屋さん……?」

 そう呼ぶ声に、駅の構内へ入ろうとしていた足を止めた。振り返ろうとする身体に、一瞬緊張が走る。それから何でもないように、声の主と対峙した。

「高橋さん、こんにちは」

 思いの外声は震えず、いつもの僕だったように思う。ただ高橋さんが泣いてしまいそうに目尻を落としていて、本当のところはどうだろう。

 この人には何も打ち明けていない。
 彼女はお得意様で、探し物探偵という特殊な仕事をする僕のためにこれまで懸命に活動してくれた。お蔭で沢山の出会いがあり、仕事の域を広げることができた。その恩は一言ではとても言い表せるものではない。
 しかし薄情だと言われても彼女に打ち明けることはできなかった。寧ろ恩がありすぎる彼女だからこそ、言えなかった。
 これは僕自身が向き合わなければならないことだから。誰かに相談して楽になることでもなく、誰かに助言を与えてもらうようなことでもない。こんな話はきっと重荷になるだけだ。

 それなのに、それが間違いであるように思えてしまう。僕のことを心配して泣きそうになっている高橋さんを見ていると。


「あの、ねぇ……帰って来るのよね?」

 大きな身体を縮こめて重たい表情で答えを待つ姿は、いつか探した熊のストラップを思わせた。
 こんな風に言ってもらえるくらいには、この街や、高橋さんの中に、僕という存在を根付かせることができていたらしい。抱えた不安を、こうして知らない内に否定してくれる高橋さんが居てくれたから、僕はやってこられた。そんなこと思い返すまでもなく、過ごしてきた月日の記憶に染み付いていて。なのにこうしてありありと見つめてしまえば、考えるのをやめてしまいたくなるじゃないか。立ち止まってしまいたくなるじゃないか。
 だから逃げないように、ここから旅立つために僕は言う。言葉の真意は僕にもまだ見えない、ただ唇が震えるままに。

「探すべきものは、もう見つかったんです」

 それだけ言って、駅の中へと一心に進む。人気の少ない構内へ、人波に攫われるように半ば足を縺れさせながら。この街から追い出されることをほんの少し願いながら。
 最後に目の端に見た高橋さんの表情は、もう覚えていない。

  

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