[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

第四部 動き出した陰謀

 第四章 動き出した陰謀
             1
 秦・咸陽の空に、天鼠を見ない日はもはやない。尖った耳をした天鼠は、増えつつあるようだった。
「随分、増えたな」と昭襄王も異変に興味を示し始める。更に不思議なことに、蚊も秦を脅かし始める。
 路地には水を飲もうとして、怯えたまま硬直する人々の姿がある。宰相たちは、対応に追われ、医学の知識を持つ人間は徹底的に狩られ、宮殿に押し込まれる。
「何か手立てを!」と范雎は告げたが、誰も呪いには勝てず、幾つもの命が散って消えた。
 昭襄王はやむなく遷都を命じ、咸陽の東の平野は骸の山となる。紫煙が立ち上る。羅患した人間は悉く平野送りとなった。
 人送りと呼ばれる任務を平然とこなすは、王稽。王稽の持つ処刑人の意味合いは、変わりつつある。「陽炎が迎えに来る」言い伝えは秦に伝承した。
 空には蝙蝠、地には溶けた虎、人々の憎悪と足並みを揃えて、呪いは跋扈しつつあった。
             2
 そんな矢先の夜半過ぎに、瓏将が魏冉の館に住まう白起に、久方ぶりに姿を見せた。
「白武将、お久しぶりです」
 白起は趙への出立の準備を拒み、館に引きこもっていた。
「随分と久しいな。息災だったか」
 嬉しい再会に、顔が緩む。
「実はお願いが」と瓏将は男らしい美貌を惜しげもなく晒し、「おいで」と一人の少年を白起の前に引き出した。
「かの、公孫喜の子です」驚きで声が出ない白起に笑って見せて、瓏将は続けた。
「この数年間、探しておったのですが、捕獲され、遠方に贈られた子供の中に見つけました。年は七ともなれば、もはや殺されるも時間の問題でしょう」
 縁側から、白起は寝間着のまま、ぺたりと裸足を地につける。
「莫迦な話を! 王稽に見つかれば」
「死罪です。知っていますよ」
 さらりと言い、瓏将は「楚に逃がします」と決意の籠もった声で告げ、少年の肩を抱いた。
「協力して貰えませんか?」
 白起は首を振った。「殺した者の家族を、殺した者は、護る義務があるのではないですか?」と再び瓏将の穏やかな声が降る。
「同感じゃな」と魏冉が姿を現した。「見よ」と空を見上げ、「殷の悪党が何やら企んでおるな」と覆面から覗く眼を細める。
「王稽さまがですか」
「あの男は誠の悪鬼よ。趙国の虎害も、殷の無謀な呪術のせいだと聞く。各地に散りばめられた、殷の石碑。王朝の最後の処刑人であれば、利用するも容易い話よ」
 のう? といつもののっぺりとした口調のまま、魏冉は少年の頭を撫でた。瞬間、少年の手が魏冉の顔の布を払いのけた。
「何だ、その、顔……」
 魏冉はすぐに覆面をつけ、何事もなかった如く、肩を揺らす。
「秦の空に毒を腹に詰めた呪いが飛び交う。その恐怖に比べたら、俺の顔など何ということはない」
 瓏将も固まっていた。それほどに、魏冉の顔は――……。見間違いだろう、いくらなんでも。白起は強く頭を振った。
「ともかく、范雎らが会議に没頭している間に秦を出よ。唯一無二の機会じゃぞ」
 瓏将は頷いて、「さ」と少年の手を引くと、闇に消えた。
「見上げた男じゃのう」と魏冉は呟き、館に戻ろうとした。
 ――各地に散りばめられた、殷の石碑――
 幼少に、見た円陣に並べられた不気味な石碑を思い出した。そうだ、骨があった。未だにあの骨が何かは分からず仕舞いだ。縋る気持ちで魏冉に語りかけてみる。
「殷の呪術はいったい何が目的で」
「最後に民衆にいたぶり殺された紂王帝辛の呪やも知れぬ。ああ、己は多分生まれておらぬ。趙での話じゃ」
「僕は趙の石碑を見ている。片眼がない石碑は、秦の山にも、楚の山中にもあった。秦で病気が流行った話は関連性があるのか」
 魏冉は「さあ?」とはぐらかし、朝焼けを迎えた空を睨んだ。
「あの悪鬼、何を考えておる。小悪魔を一匹、味方につけて」
 白起は不安を拭えなかった。
 石碑は悉く、白起の戦う場所に見つかる。呪術の意はわからないが、これだけは言える。
 ――王稽と、昭襄王は何かを企んでいる。それも、白起を利用して。
〝腰抜けね〟遠くから、忘れていた声が舞い戻ってきた。呪いの場で出逢った少女。彼女と逢えれば、また何か分かるのだろう。
(そうだ、母さまにあげるはずだった宝玉を奪われたんだ)
「瓏将が無事に戻り次第、趙に向かう」
 幼児ですら、圧倒させた巨大軍事国・趙。あの呪術場へ、再び戻る日は近い。白起は趙を思い浮かべた。幼少の水門や、砦。更に円陣の龍――すべてが恐ろしく、胸に残っている。
 いつかは還る。そんな気はしていた。
             3
「宰相・范雎」
 一時解散を命じた皇宮の外は早くも宵の口。門番たちが仁王立ちし、松明を掲げ、不穏な夜を護っている。
 白起が大暴れした魏との会談をようやく成功させた矢先だ。
 王稽は、にんまりと眼を細め垂れさせて、「なあ」と促すように范雎に詰め寄った。
「俺は、無償では動けぬなァ? 宰相さま」
 そんじょそこらの愚弄武将とは違う、王稽は敵に回すべきではない。范雎は静かに言い返した。
「私が貴方に感謝していない、とでも? では、書簡のご用意を」
「見返りを寄越したまえ。お前の地位は、安泰だ。だが、俺が動けば、そんなものは泥濘の中、塵芥になって消える運命。若き宰相、俺を味方とするか、敵とするかで、秦は、歴史は変わる」
 范雎は王稽をよく知っている。強迫的な口調は、かつての一大呪国の特徴であり、王稽には躊躇など存在しない素質も。
 更に先陣を切って秦のために剣を震う白起は、出陣を拒んでいた。
 どうやら、味方の武将の帰還を待っているらしかった。
「では、白起を魏へ向かわせて、魏国を討ち取るよう、伝えてください。私では、あの頑固者は動かないでしょう。瓏とやらを捜索」
 クックックと喉から笑いを漏らし、王稽は足元に這い寄ってきた野兎を抱き上げた。常に生き物が足元に這ってくる。不思議な男だ。
「瓏か、あの、裏切り者なら、半月ほど前から俺の手中にある」
「では、解放を。裏切りとは、何です」
 王稽は白い獣を撫でながら、東の空の暁光を目にし「許せぬな」と呟いた。
 半世紀前の呪いが具現化するような、そんな怖れに満ちた、低い声音であった。
            4
「宰相、ついてきたまえ」
 范雎は大人しく王稽の館の最奥に進んでいる。
 この先にあるものは、王稽の拷問場所だ。一度足を踏み入れ、うんざりして、遠ざけていた。「貴方と違って、拷問を愉しむ趣向はないよ」と告げた范雎だが、やがて辿り着いた風景に言葉を失った。
 ザシュ、と王稽の草履が磨れる音がする。
「白起を探らせていたが、この度裏切りが発覚したので、吐かせている。白起の尻に小火を起こしている元凶だ。毎晩の水責めにも口を割らぬわ。最終的には、家族を手に掛けるしかなかろうと思っていた。運の良い男とは、いるものだな」
 范雎は無言で繋がれたままの男を見やる。気絶しているのか、ぴくりとも動かない。精悍な頬だ。松明を翳すと、微かに頬が動いている状況が見て取れる。
 男たる凛々しい眉は寄せられ、苦痛から逃れようと、手足はまだ動いている。
 過去、こんな風景を見た。
 ――蜘蛛の実験場だ。死す瞬間まで、痙攣し続け、抗った蜘蛛がいた。范雎はその蜘蛛を素晴らしいとすら思った。抗って、抗って生きようとする。
「水を」と容赦ない王稽の命令が飛んだ。激しい水音と、冷たさに、罪人の瞳が開いた。
「俺の間諜でありながら敵の子を逃がした。もう一度、問う。公孫喜の子を何処へ隠した。答えねば、おまえの子を一人ずつ血祭りだ」
 王稽は自ら柄杓を掴み、鋭く水責めを繰り返す。慣れた様子で、生かさず、殺さずの水量だ。眼を狙い、真横に柄杓を振った。
 水勢は鞭のように、瓏を襲っていた。
「うぅ」と束縛された四肢が痙攣する。寒さと、ひっきりなしにかけられる水のせいだ。
「止めろ。死んでしまうだろう! 白起を動かせなくなる」
 怒鳴った瞬間、後で何かが立ち去る足音と気配を感じ、范雎は振り返ったが、王稽はニィと笑うだけだった。
「いや、白起を動かす人間は他にもいる。適役が」と、穏やかな声が夜に溶けた――。
               *
 月が静かに魏冉の館の庭を月光で包み込む。
 冬の夜は、星がより綺麗だ。空気が澄んでいて、特に、今日のように雪がちらついた日の夜は、大気が凍てついて輝く。
 氷の夜だ。大気にも、星が舞う――。
 再び重く草を踏み分ける足音がした。
「何時だと思ぅとるのか」と庭から魏冉が疲れ切った表情で歩み酔った。やんわりと訊いてきた。
「白起、動けるかのう」
「うん、動けるけど、戦いはしないよ」
「瓏の居場所が分かった。生きておる、まだな」
 魏冉は含めた言い方をする。(まだ?)と首を傾げる白起に頷いて、手を引いた。
              *
 歯を食いしばって夜の皇宮を抜け、最奥にある王稽の館に魏冉は向かっている。
「瓏が、こっちに……?」
「儂は信じられんかったがな。王稽の血の色は恐らく青よな」としっかりと厭味を空に投げつけて、魏冉は手にした剣を振った。門番が二人、音もなく倒れる。
「悪魔に吹き込まれた者ども、眠っておれ」といつもの口調で告げた。
 谷に向かう途中には、ぽつんと井戸があった。
 ――この井戸には鄭安平に水責めにされた記憶がある。
(嫌な記憶、思い出したな)と思い、魏冉には言わず、砂利を踏みしめた。
 真夜中に、水をかける音が響き渡る。
「そなたの眼なら、そこから見えるじゃろ」と魏冉は足を止め、また覆面を指で少しだけ下ろし、続けた。
「楚から戻った直後、鄭安平により捕獲。あの状態に置かれておった」と視線を上げながら、魏冉が促す。
 松明を掲げた男が二人、吊された男を照らしている。
時折飛びかかる水飛沫に、火が消えかけては、蜻蛉のように揺れていた。
 ――瓏……っ!
 中央の梁からは何重もの麻縄が編まれ、屈強にした上で、罪人を吊していた。両手をつられるような格好で、足を引き摺られ、瓏は束縛されて、水責めに合っていた。
「王稽の眼は節穴ではないでな。ずっとあの状態よ」
 悠々と魏冉は告げる。怒りが腹部の痛みを凌駕した。白起は無言で、魏冉の胸ぐらを掴みあげた。「助けたいか」と隠された口元と、晒された虎の瞳が問う。口調をがらりと変えて、魏冉は白起を見下ろした。
「王稽が求めるは、公孫喜の子供を何処に隠したかだ。だが、瓏は頑として口を割らず、最終的には、瓏の家族が殺される。さすがにそれは目覚めが悪い。それでも、瓏は口を割らぬ」
「どうしたら、助けられる」と震える声で、白起はようやく聞いた。
「どうしたら助けられるって聞いてるんだ!」
 こんな真冬に水をかけられたら死んでしまう。実際に瓏の顔色は土色で、白起は傍に王稽の姿がないかを涙目で探した。
「卑怯な蜻蛉は、死の断末魔にしか現れぬ。やれやれ。儂は昭襄王に刃向かう気はないのじゃが。子飼いが泣いてはのう」
 魏冉が剣を引き抜き、握った。白起も剣を抜き、松明を奪いにかかかった。拷問を止めさせなければ、瓏は死んでしまう!
 こんなにも、誰かのために、剣を震った記憶はない。嗚咽を堪え、人を斬る。敵相手にはなかった焦りと、哀しみが押し寄せた。
 良心が痛まないわけではない。ただ、これは怒りと、焦り。大切なものを取り返したいと願う気持ちだ。
〝では! 私の子は!〟脳裏に公孫喜の悲鳴染みた声が響き続けた。
「どけ! 左更の僕に刃向かうは、秦の王に刃向かうも同じだ!」と大嫌いな権力を口にして、ようやく止めさせたが、今度は「王稽さまの命令です」の一点張り。
 両手で剣を振り回した魏冉剥き出しの地を踏みしめた。
 両腕の剣を一人の男の首に挟み込むように構え、傍観をかなぐり捨て、獅子のように咆吼した。
「門番風情が! 穣候の俺に逆らうな! さあ、そこを退け!」
「魏冉さま!」と相手は慌てて引き、魏冉は忌々しいと唸りを上げた。獣の咆吼だ。
「白起、今の内だぞ」魏冉が剣を納める音を合図に、白起は小屋に駆け込んだ。一連の騒ぎで、濡れた髪が揺れて、瓏の瞳が微かに痙攣した。
「瓏! 僕だ! 白起だ!」
 薄ぼんやりと開いた瞳には白起が映っている。小さく名を呟き、瓏ははっきりと口元を動かした。動く度に、繋いだ麻縄が軋む。
「なんで……逃げなかったんだよ……。敵の子供なんか、斬り捨てれば良かったんだ!」
 瓏は優しく笑い、また気を失った。瞼は白く、唇は赤味を喪っている。下ろそうにも、どう縛られているのか、結び目が見つからす、剣で切るには太すぎた。
「下ろして、休ませないと駄目だ。魏冉?」
 魏冉の動きが止まった気がする。ああ、月明かりは暗すぎる。
「動くな、謀反で処刑する」と潰れた声がして、白起はゆっくりと振り返った。背中から首元に剣を突きつけられ、魏冉は動きを奪われていた。
 剣を構えている男の蜻蛉の簪が月光に煌めいている。その後から、人陰がゆっくりと白起に歩み寄った。
「元気そうだね、白起」
 ――范雎……。ゆっくりと冷淡に喋るは、范雎も王稽も似ている。ただ、范雎の声は澄んでいて、すぐに分かる。理路整然とした甘やかな口調も特徴だ。
「秦は楚を取り返す。そのためには、きみがまた人を斬らないと」
 剣を翳したままの王稽の手の前で、魏冉が唾を吐いた。王稽は手を引っ込め、渾身の力で睨み上げている。魏冉よりも背が高い王稽が、剣を握る姿は異様だった。
「俺は二度と、手は下さぬと誓ったが、貴様には手を下せる。魏冉よ。そろそろ、退場時ではないか? 貴様も俺に負けず、謎めいている。正体を明かせ」
 手つきが違う。殺意を具象化するならば、今の王稽になる。
 思わず剣を抜いていた。ほう? と王稽の瞳が懐かしいような風情になる。
 時折、王稽はこんな風に、慕情を溢れさせる瞳を向ける。
「白武将、久しいな。瓏を解放せよと、宰相が命じたからにはここまでのようだな」
(宰相が命じた?)驚きで范雎を見て、背筋を震わせた。范雎は薄く笑っている。「よくも唾を」と王稽は最後に魏冉の頬を張り飛ばし、魏冉は慌てて覆面を押さえ、飛び退った。
「きみには魏に向かってもらう。今すぐ兵を整え、魏を殲滅。代わりにその男の謀反は許してもいい」
 白起は視線を逸らせ、剣を地に投げ捨てた。
「僕に戦いに出て欲しいなら、その龍剣を持って、昭襄王が逢いに来ればいい! 僕はあんたの命令なんかじゃ動かない!」
「瓏がどうなっても、いいわけかい」
 白起は唇を噛み、意識を取り戻した瓏を見つめた。すまなく思って、龍剣を再び掴んだ。
「瓏を解放しな」と范雎に剣を向けて詰め寄った。じり、と爪先を向けると、范雎は明らかに狼狽した。
「魏でも、趙でも、楚でも、滅ぼしに行く! あくまで秦を護るためであって、言い分を聞くわけじゃない」
 わなわなと范雎の唇が震えている。白起は再度言った。
「さあ、瓏を離せ! 宰相になった瞬間に死しても構わないなら、それでもいいけど、秦の行く末、見たいだろう」
 さすがに王稽が顔色を変えている。范雎が武力に弱い事情はお見通しだ。
「王稽! その兵を解放しろ! ――白起。この私によくも……っ」
 なんだ、と白起は剣を納め、笑顔になった。
「安心した、范雎、変わってない」
 ぎろりと范雎が瞠目した刹那、掠れた笑い声が響いた。「王稽!」と范雎が窘めるが、王稽は笑いを納めず、魏冉すら唖然とさせている。
「完敗だな、宰相」
 告げると、足を山の方面に向けた。いい加減朝陽が昇ってもいい時間だが、今日は陽光は射し込まない。瓏は王稽の手で下ろされ、脱力した四肢は長く伸びた。
「長期の責め苦だったが、とうとう口を割らず仕舞いだ。大した男だな、瓏。白起にやるのが惜しい」
 背中を向けた王稽が低く、呟いた。蜻蛉の簪が揺れ、闇へと誘う。
「覚悟があるならば、ついてきたまえ、白起」
 なんの覚悟だ。疑問を口にしようとしたが、瓏は解放された、目的は果たせたと白起は顔を上げた。
 雪雲の向こうの陽光は鈍く、ぶ厚い雲に遮られている。
 ――人を信じなさい、そして、あなたは護って、立派な武将になるのよ。
 龍になった母さまの声はいつもこの胸にある。
「王稽! まさか、白起を、あの、〝場所〟へ?」
 范雎は呟いたが、「まあ、それで覚悟が決まるなら」と有耶無耶な返答した。
            5
 行く手には、無数の蝙蝠――天鼠が飛び交っている。王稽は腕を振り上げ、天鼠を追い払った。文句を言わせぬ迫力で、歩み続ける。
 白起は途中、枝にぶら下がった死体をつつく鴉に襲われながら、王稽に従った。時折鴉が王稽の肩に止まり、羽繕いをして見せる。
「どこまで行くんだよ」
 来たことがない山奥の、更に山麓の山肌は凍っている。それでも、王稽は迷わず進んでゆき、ふと瞳を優しくさせた。
「ああ、そうか、冬だものな」とゆっくりと足を止めた。
 眼の前には、白く濁った泉があった。真冬を呼び込んだ泉には純白の氷が張り、水の時間を凍てつかせていた。陽光が当たれば、きらきらと輝いたのだろう。
 白靄が溶けた水面から立ち上り、視界は良くない。そのぶ厚い氷の上に立ち、王稽は剣を振り下ろした。
「危ないな!割れたらどうするんだよ。見せたかったのって、ここ? 単なる泉じゃ」
 水面に亀裂が走った。咄嗟で王稽の腕を引き、間一髪で地に飛び込んだ。背後でけたたましく氷が割れて、氷水が跳ねた。
 ようやく陽光が水萌を七色に光らせ、銀色の飛沫を上げさせる。水面は陽光が照らす度、黄金に揺れ、空を歪めて映し、割れた氷の破片は水晶の如く、反射し続ける。
涙が出るほど、美しい泉だ。
 王稽は静かに氷が沈む様を睨んでいた。時折大きな黒い影が水中を流れている。
 水中を見抜いた瞬間、動悸が走った。泉の下には魚などいない。
 無数の、人だったもの。
「し、死んでる……っ。こんなにたくさん……っ?」
「あの辺りか? 俺の妹が沈んでいる」
 冷たいな、と王稽は片足を氷の割れた泉に浸らせ、う、と顔を顰めた。
 ゆらゆらと溶けた人型たちが水面で揺れている。直視できずに、白起は震えながら聞いた。寒さも手伝っているが、震えは心の底から這い上がってきた。
「ここに、家族、が?」
「ほう、良く分かったな」と王稽は暫く水面に足を浸らせ、白起を振り返った。
「水面が綺麗だと思うだろう? 水中に、雑菌が生きておらぬせいだな。強い菌はすべてを食い尽くし、他の生存を許さぬ。ここは、殷の呪いに冒された人々が見つけた安住の地だ。何故か、俺だけは発症しなかった」
 王稽はいつもの嘲りを取り戻すと、続けた。
 片眼の石碑をたたき割って、手を血に濡らして振り返った。
「殺せ、すべてだ。趙は殷の呪いを振りまくつもりだ。こちらも、迎え撃つ! 莫迦な頭にもわかるように説明してやる。魏を足がかりに、すべてを叩け」
 王稽は、一度だけ、泉に視線を注いだ。
「さすれば、この者たちも、安心して眠れるであろうよ」と告げた声は、聞いたことのない慈愛深さだった。声がかけられず、白起はただ、王稽の蜻蛉のような姿を見つめている。
 王稽は俯き加減になり、「……後は任せました」と急に敬語に戻り、一礼すべく膝を折り、動かなくなった。
 王稽が敬語を使うは、ただ一人。膝を折り、頭を下げる相手は此の世で一人だけだ。
 秦の王、昭襄王――。
「范雎が、すぐに向かえと言うのでな。王稽、ご苦労だった。こいつの操縦は俺にしかできんだろう、なあ、白起。韓の件は聞いた。派手にやらかしてくれたな。それでこそ、俺の子飼いだよ」
 ふ、と頬が緩んだ感覚を自覚した瞬間、豪雨のような勢いで、言葉を叩き込まれた。
「では、厳命を下す。武安君白起。魏へ進軍し、滅ぼせ。民衆を全て逃がし、豪族を抹殺し、都の機能を殺して来い」
 今頃雲が霽れ、残酷な太陽が、昭襄王と秦の咸陽を一緒に照らし始める。どうしても、逃げられない悪鬼の王に、白起はどうすることもできず、ただ、自分を一縷逸らさない瞳を見つめ返した。口元がゆっくりと動く。
 微かな言葉はいつだって、願いだった。夢だった。
 共に、秦の未来を信じて、ゆこう――。 
 昭襄王の言葉だけを頼りに、繁忙の対極にある。失墜へ続く道を全力へと走り出してゆく。
 失墜を人々は、時に夕映えと読むのだった。
             *
 以下は秦の名もなき事務が気まぐれに彫った白武将の軌跡である。
 紀元前二九〇年、白起十九歳には魏を攻め、垣城攻にて大勝。
 紀元前二八六年、白起二十三歳には趙を攻めて光狼城を攻略し、戦略の元、打破。
 楚を攻めて郢を陥とし、夷陵を焼いて東の方竟陵まで秦の領土になる。楚を攻略し、巫郡、黔中を平定し、民衆三十万人を逃がし、犠牲十四万人。この功績により、武安君に封じられる。
 紀元前二八四年、白起二十六歳。范雎二十七歳を迎えた春の終わり。除目の日の気候は桜桃の花びら舞い散る、玉蘭香る、見事な春嵐だったという――。
             *
 紀元前二七七年――白起三十二歳、范雎三十六歳。白梅の美しい季節、時は花朝節。
(春は苦手だ)
 出仕して、次の戦場の作戦を待ちながら、ぼんやりと庭に咲き誇る白梅と紅梅を見やると、小振りな花は、ちょうど満開。隣接して、天香国色が咲き誇る。
 皇宮では庶民との差か、牡丹とは呼ばない。桃源郷に倣って、花はすべて天界名で呼ぶらしい。薔薇は庚申花、金木犀は金花と呼ぶ。
 ――幻の素晴らしい場所。昭襄王さまは夢見がちだな。
 それにしても、いつ、戦場が決まるのだろう――。
 かつて魏と韓を叩き潰した白起の行動は、問題視され、武将は徹底的に軍師に監視され、軍師の許可なしには兵すら与えられない仕組みとなった。
 遠征には、兵力・兵糧力・情報力の三つが不可欠。どれも、個人では手に入れられない。
 完璧な軍部構造を提言した宰相は、范雎。御年三十五歳。
(思いの他、時間が掛かっているようだ)と上の軍師の方々に心で呟き、顔を上げたところで、貴妃と眼が合った。
「華耀さま、うろうろしては駄目ですよ」
 姉妹貴妃は、長年に亘って昭襄王の傍で、栄華を欲しいがままにしている。華耀は姉だ。妹が姫と呼ばれる対角で、姉は女豹に近い印象がある。
「白武将。昭襄王が呼んでおる。妾はちょうど白梅を摘みに来たまで。秦の天香は妾のために、植えたものぞえ」
 香料を髪に焚きしめた華耀が動く度、ふわりと雅な香りが辺りに漂い始める。
「趙への進軍が、頓挫している」
「范雎が何やら画策しておったな。間もなく出立になるであろうさ。凛々しいのであろうねえ。皆、白武将の出陣姿に酔いしれるわ」
「僕の格好が? はは、飛んだ詭弁ですよ」
 返答を聞くなり、柳眉を少しだけ下げて、華耀は眼を貴妃らしく嫋やかに細めた。不愉快だと口には出さず、女らしく、表情で訴えている。
 麗しさに、求婚が殺到すると噂だが、白起にはどこが良いのか分からない。華耀は今度は、あからさまにむっとさせて言葉にして見せた。
「戦いばかりで己の美にも気付かず、三十路になっても、女の色香にも惑わされぬ。片割れは男に囲まれ、色気より策略? 頭でっかちの堅物にも、無神経な童子武将にも、妾は用はないわ」と怒って去って行った。そういう話か。
 ――女か。興味、ない。だが、最近は、何故か幼少の記憶が浮かんでは消える。
〝やまの かみさま〟
 手を引いた暖かさをよく、思い出すのは何故だろうかと、白起は大きい自身の手を見下ろした。人を斬り続けたにしては、綺麗な掌だ。
(何人を斬っただろう。もう、覚えてもいない――楚王、以外は)
 白起はしばらく白梅を瞳に映していたが、決意したかの如く、龍剣を手に、回廊に向かって行った。背中で天香国色の淡い桃色の花びらが散る。立てた膝に頬を寄せた。
 趙への進軍はなされぬまま、秦の時は流れつつあった。
 ――機を見るに敏、と宰相・范雎は言う。白起にしてみれば、ただの時間稼ぎだ。
(趙は何をしようと、崩れない)
母と訪れた趙の大きさは、子供で在りながらも圧倒されるほどの迫力があった。
「気が狂いそうだ」
 ――腰抜けね。なら、従いて来なさいよ。
 幻聴が聞こえて、白起は、ふ、と笑った。そういえば、名前を聞けなかった。
 名前の分からない少女の膨らんだ頬と、僅かに触れた指先。あの時どうしても言い返せなかった言葉。
『誰が腰抜けだよ!』
 再会できたら、いの一番に言ってやる。僕は腰抜けなんかじゃないと、戦えれば、証明ができるのに。
つまらない用事は、うんざりだと白起は小さく唸った。
             *
 秦の皇宮への回廊には、絶えず兵が立ち、防壁以上の迫力を醸し出している。入れる者は、爵位が七等級以上。国府の称号を抱く白起に、全員が頭を下げた。
 全体が物々しい雰囲気。以前と違い、少しだけ、緊張感がある。
 ――秦の咸陽で、奇病が広まっているせいだ。王稽の館は封鎖され、都も少し移動している。渭水のさざめきは、以前よりも小さい。
 遷都という大袈裟な程度ではなく、皇宮は少しずつ拡張しては、無人になった区画を取り壊して移動を重ねている。それでも、いつだって王の宮殿は最奥にある。
 片眼の龍の石碑を象った柱二本の向こうに、台座がある高台が作られ、石版と、台座の上にも趙の水門を彷彿とさせるような龍が彫り込まれている。
「国府。白起、参上しましたが」
 台座で何やら宰相と話し込んでいた昭襄王ではなく、堂々と座った宝麟が、視線を向けた。それで、姉がウロウロしていたのかと、気付いて可笑しくなった。
「きみの土地は、大層に見事な収穫と聞く。楚の土地は、合っているようね」
 人を殺して貰った武勲など、どうでもいいと、瓏に任せたままの土地だ。
 子沢山の瓏は農耕の才覚もあったらしい。収穫の半分を上納し、残りをいそいそと詰めていた。
 白起は、また伸びた髪を揺らす。
「僕を呼びつける理由、いい加減、是正してくれませんか」
 宰相・范雎が顔を上げた。隣には相変わらず王稽と、魏冉の姿がある。
 全員の視線にむっとして、強く言い返した。
「僕は、武将だ! 秦のために、人を殺しに行くのは構わない。だけど、祭りの監督だの、収穫の手伝いだの、はたまた、国を封じろだの! 先日も民族に畑、潰された挙げ句、踏み込まれていたでしょう!」
「あれは門番の仕事。武将の仕事は、敵国の武将が相手だ」
 范雎の言い分に、食いかかるように怒鳴り返した。下品だと言われ、だから何だと渾身の力で声を響かせてやった。 
「僕が動けば、ちまちました国の反乱なんか、叩けると言っている! 軍師連中は、こぞって莫迦揃いか」
 白起の生来の無自覚な言い方は、じっと耐える宰相の努力も虚しく、時には笑いを呼び起こす。
「まあ、急くな」と王稽が笑いを滲ませて動いた。
「手を拱いていたわけではない。俺との約束を思い出したまえ」
 ――瓏を助け、謀反をなくす代わりに……。思い出して吐き気がした。
 王稽は、瓏をタテに、白起の行動を制限した。勝手に戦えば、瓏を処罰する、勝手に咸陽を出れば、瓏の命はないと思え。勝手に楚へ連絡すれば直ちに瓏とその家族、一族すべてを殺す――。
「王稽」と范雎が諫めると、王稽はすぐに口を噤んだ。
 白起は再び昭襄王に向いた。
「何度も言う。僕は武将だ。趙は何しても崩れないなら、総力戦しかない」
「それが、崩れた」
 昭襄王は、范雎と目線を合わせ、「俺が言うほうが、こやつはいいだろう」と呟き、不愉快なままの白起の前に歩いてきた。
 白起は絶対に跪く真似はしない。
 理由がないからだ。別に、昭襄王に従っているつもりはない。この態度こそが、宰相・范雎を後年に憎悪の海に突き落とす予兆でもある。
「昭襄王さまあ」と貴妃が疼々しながら、一本の剣を昭襄王に手渡している光景が眼に映った。
 ――新しい龍剣。涎が出そうになった。剣を換えたいとは思っていた。しかし、呪いのように、昭襄王からの剣でないと、護りながら斬る決意ができない。
 眼の前に、ずいと昭襄王は剣を差し出した。
「受け取れ、白起。同じように作らせた龍剣だ。この剣を持って、趙の軍務最高者、趙活を叩け。魏冉、すぐに趙への兵糧と、準備の予算を立てよ! 王稽、范雎、相応しい兵の格上げと編制を開始せよ! 勿論、瓏に関しては、武将の冠を許可しよう。白武将、行ってくれるな?」
 差し出された剣は以前よりも大きく、柄には龍が絡む彫刻が施されている。その上、研磨力の上がった刃は大きく、鞘から抜くときですら、凛々しい音と輝きを放っている。
「どうだ? 気に入ったか?」
「これでなら、戦える」
 すまぬな、と小さな声がして、昭襄王は頷いた。
「今後だが、趙の趙活を叩けばいい」と話が始まった。白起は頷いて、剣を見下ろした。
 外に大きな黒い蝶が飛び回っていた。獲物にちょうどよさそうな大きさ。楽しそうだから、見逃してやろうか――。
 遠くの景色までも、抜いた劍身は美しく鏡面させている。磨かれた度合いが知れる。
 秦の中でも最高級の青銅だ。貴妃の持つ〝鏡〟にも似ている。空が綺麗だ。こうして見ると、春も悪い季節じゃない。
 さっきの蝶々発見。
 春風が頬を掠う。秦の皇宮には以前は存在しなかった、大きな風通しのための穴が開いている。病気が多いせいかもしれない。
 范雎が何やら喋っているようだ。
「趙の状勢が変わる時代を待っていた。こちらの作戦に乗るまでに随分と時間が掛かったが、間もなく趙は、有能な趙櫃を処分し、無能な趙活を軍務最高者に任命する。鄭安平にも、長策については労おう。趙櫃の軍事力は侮れぬのでね。少々小汚い作戦だったが――おい、白起?」
 外の揚羽蝶を刃に映し、眼で追いかけていた白起は、名前に慌てて顔を上げた。
「話が長すぎる」と白起は龍剣を掴んで、構えてみた。一斉に貴妃たちが色めき立ち、范雎が咳払いをしてみせる。
「趙に行って、趙活を叩けばいい。それだけしか頭に入らなかった」
「ああ、そうだ。すまぬな。お前は、軍師ではなかったね。分かった。それをやるから、玩具を持って趙へ行け。以上!」
 ああ、分かりやすい――と頷いた前で「それでは、簡素過ぎじゃ」と魏冉が補足した。
「そなたの役目は趙を潰し、秦に殷呪を持ち込ませぬ狙いがある。趙はもはや終わるじゃろうて」
 ――殷呪……先日からしきりに魏冉は口にしている。
 魏冉が口を挟むと、大抵は王稽が正反対の意見をぶつけてくる。
「玩具遊びは、そこまでだ」と案の定、冷水をぶっかけた後、無情に白起の縛り上げた髪を鷲掴みにし、蜻蛉頭を「便利な髪型よ」と嘲り揺らした。
「秦の命運を分けるであろう趙の大戦だ。水に漬けても眠らせぬぞ」と王稽が伸びた髪を掴んで強く引いた。
 だが、しっかりと大地につけた両足は、簡単には動かない。いつだって、動かせる相手は、一人だけだ。
「あんたの命令は聞かないよ。昭襄王さまが言うから、行くんだ」
 このやりとりも、毎回、飽きずに交わされる。
 以降、白起の帯剣は三つになった。どれも想いの籠もった剣だ。
想いの籠もった剣だから、護るために殺せるのだと、昭襄王は分かっていたのかも知れなかった。だから労いや武勲は要らない。金も、富も何も要らない。
〝秦のために、白起、再び頼む〟
 それだけで、充分だと、白起は充足感を噛み締めた――。

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