[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

第六部 古代への決着

第六章 古代への決着
                2
 秋も深まり落葉の節季――。
 予てより想定していた、本格的な趙の包囲を宰相が示唆、秦は再び戦闘を余儀なくされた。将軍の名を聞いた白起は、懐かしさに眼を細めた。
「王齕? 知っているよ。大層射る力の強い男だった」
 前線を退いて、白起が身を寄せた場所は、かつて口うるさかった老婆の元だった。魏冉の館がなくなったと老婆・劉温は知っており、范雎と別れ、かつての住処に呆然と立ち尽くす白起に、声を掛けた。
 皇宮では皆、白起を避ける中、味方は老婆だけになった。隔絶された荒ら屋で、婆の老いを見届ける日々が続いている。おそらく見届ける老いは、看取る、に変化するだろう。
 こうしていると、白起が殺した事実すら、霞んでゆく気がする。
ぼんやりと見る秋の空は、どこまでも、長閑で、胸を痛めるものは何一つない。
「范雎と軍師たちは咸陽と楚の間の盆地に陣を敷くと。元武安君の意見を聞かせてもらいたくて、儂だけ逃げました。南からは楚軍、北からは趙軍です」
 平和な日々に亀裂が入り始める。
「秦の長城で討てよ! それに、范雎は忘れていないか? 趙の側には、まだ楚が生きているんだ! 迎え撃つべくは、楚だろう! 軍師は、そんなことも分からないのか!」
 いや、分からないのだろう。彼ら軍師にとって、武将は塵芥。
「宰相は和解の姿勢を崩していないのです。すでに麓の村が略奪にあっています」
(范雎は分かっていない。和平? 互いに護りたい者がいる限り、在る限り、和平など有り得ない。殺すか、殺されるかだ。油断すれば、首が飛ぶ。信念と命は常に共に在る)
 傍観するしかない身が歯痒い。それでも、白起は出仕を拒み、老婆と時を共にした。
 秋も深まる霜の月。ああ、しかし、蝙蝠が増えた気がする――。
 楚の攻撃を受けた秦は、范雎の命令で、将軍の交代と、増派を決めた。それでも、白起の周りの時間だけが、穏やかに流されてゆく。
 小さな砂煙が上がり、地を通じて馬が走り去る音が足裏に響く。戦場が近い。
(まさか、入り込まれている?)
「庸拉! まさか、すでに咸陽に入り込まれているのでは・・・・・・総大将は何をしている! 秦は昔から北に弱い! なぜ、補強しなかった! 軍を配置しろ! あー……」
 白起は沈めたはずの武将の血を落ち着かせるべく、呼吸を繰り返す。
「戦いは殺し合いではなく、陣地の取り合いだ。下手に突入すれば、数で叩かれ、あっという間に征服される。趙や韓・魏を奪った僕には手に取るように分かるものだ」
 目の前の武将が嬉しさで肩を震わせた。
「もしや、宮殿には、マトモな武将がいないというか。おまえを遣わせたのは宰相か」
 白起はもはや四十歳に差し掛かる。昭襄王が弱冠の儀を執り行って、早くも二十年が過ぎた話になる。
『いや、武器を持たないで!』脳内に響いた勝ち気な口調に微笑んで、白起は馬に飛び乗った。
「様子を見るだけだ! 僕はもう誰も殺さない!」
 久方ぶりの馬の動きに慣れない。襲歩で小高い丘を選び、馬を羚羊の如く走らせた。
 晩秋の夕暮れ。岳樺が全盛期だ。
「咸陽への砲撃だ。防げまい。攻撃方法を見れば、分かる。敵は双方向。つまり、指揮官は二人。もっと攻め込んで護りより、攻めに応じるべきだが、度胸がないな」
 丘陵から見下ろすと、秦の空は薄い緑の呪の大気に包まれていた。天鼠が飛びながら病の種を撒いているのだろう。
「まるで、廃墟だ。秦の皇宮がみすぼらしく見えるな。まるで自然の驚異に晒され、怯えて身を寄せる虫たちのようだ」
 眼を遠くに向けると、騎兵隊が五頭ほど走り込んでくる光景が見えた。門番たちは実戦に弱いらしく、呆気なく秦の正門を明け渡す。
「ちっ」白起は急降下の山肌を駆け下り、正門まで馬を走らせた。
「そこまでだ! ここから先は僕が相手になろう。名乗ってやる。秦の白起。殺されたくなければ、楚に逃げていい。逃げるものを僕は切らない」
 騎兵たちはどよめきの中、すぐに馬を下りて、走り去ろうとした。その兵の合間を黒馬が駆け抜ける。兵士は滅多切りで倒れた。
「逃げるものは逃げろ」
 ふんと言い放って、武将は剣を納めた。「おまえら如き、俺一人で充分だ」そう剣を震う早さには既視感を覚える。記憶は十年以上も前に遡り、白起は韓の死闘を思い出していた。
――公孫喜! かつて、死闘を繰り広げた韓の大将と同じ顔。
「おまえが……信か。瓏将が命懸けで助けた……」
 黒馬だけが残った。青年は冑を脱ぐと、顔を見せた。父親を彷彿とさせるが、どこか瓏に似ている。
「武将を捨てたとの噂は本当か。――貴方なしでは、秦の咸陽は落ちるでしょう。父が草葉の陰で嘲笑っている」
 信陵君の名が本名だった青年は馬の手綱を引いた。「貴方が再び武将として出て来ぬよう、暗殺計画まで、持ち上がっている。俺と、春申君は先駆けでね。この先の、楚の平野には、連合軍が集まっている。明後日、俺たちは最終軍と合流し、趙国の残党と共に、再び進攻を開始する。防げる手立てはただ一つ、白武将の戦線復活だ」
 緊張感が漲って、白起は足を開き、腰に手を当て、すかっと滑った。
 剣はもはやないはずが、肉体が戦いを覚えていた。腕が、指が、剣の感触と、人を斬るという最悪の緊張感を忘れていない。
「あんたが出てくるまで、俺たちは咸陽を壊す。と言えど、病でボロボロだから、死体整理か? 焼き払ったらぁ」
「春申君。――戦場で、待っている」
 一言残して。楚の大将二人は去って行った。
「明後日……庸拉、宮殿に知らせよ。今からでも、北の守りを手厚くできるだろう。それから、火薬の類いだ。片っ端から捨てるしかない! 武将全員をかき集めて……」
 白起は高揚感に違和感を覚えた。戦いの図法、所謂兵法は頭に入っているが、どこか肉体が……。
(そういえば、ずっと躯は、水を欲しがらない。真夏に季節は移り変わり、残暑であるにも拘わらず……だ)
――殷呪の奇病――。
 血を吐いた。躯は重くて、幼少に担いで見せて、母が喜んだ、米袋の重さだった。
「白武将! 武安君!」
「その名で呼ぶな! 騒ぐな、来るべき時が来ただけだ!」
(楚が恋しい)
 赤い血は、楚王の血を急激に思い出させ、別れた靄姫の泣き顔を思い出した。一緒になって包まれた幸せも、愛される罪悪感も。
 ――人を殺し続けた僕を、愛さないで欲しい。そうは言っても、暖かさは否定できないから、一度だけだ、靄姫、きみが、忘れられなかった――。
 泣き叫ぶ靄姫の優しさは、白起の狂気を打ち砕いた。
 季節は進んで、羊雲が遠くから押し寄せていた。空は一層ぐんと鮮やかさを増す。そんな空は、やはり韓の襲撃で見上げた気がする。美しい夕暮れに、白い一筋の光。
 眩しくて、眼を細めた。
(そうだ、すべて落ち着いたら、もう、帰っていいんだ……)
 何処に? 今は無性に、楚王を眠らせた日の空の白虹が懐かしい。お帰り、と言ってくれた、あの、場所に帰りたい。誰かに〝お帰り〟と言われたい。〝もういいのよ〟と。
「ぐはっ……」
手に吐いた血の向こうから、水を欲しがらない四肢の向こうから、ひたひたと、死が歩いて来る。武将としての死は疾うに超えた。後は、秦を護る。
 白起は母の短刀を手に、動き出す。
(これが終わったら、きみを迎えにゆこう。靄姫――)
 凄まじい呪が秦を蝕んでいた。その渦中において、宰相は奇病の隔離を命じ、王を遠ざける所業で手一杯のようだった。
 ――殺せば、殺しただけ、呪われる。そんな簡単な理屈も分からないらしい。
 使者が来た。大方出仕命令だ。「王自ら頭を下げろ」と悪態をついて、追い返す。
 死が来る前に、やるべき事項がある。
「僕が終わる前に、すべてを聞かせてもらおう」
〝大切なものを、滅茶苦茶にした元凶は何だ〟
 頭上を沢山の蝙蝠が飛び交う。いつしか数は暴発的に増え、夕刻には空を蛇行する龍の如く、大軍が秦の空を埋め尽くす。
 天鼠。かつて、天帝の遣いであると言ったのは、誰であったか――。 王の肩に止まる黒蝙蝠の羽は、もはや役に立たない。死ぬ行くだけの蝙蝠が、やけに眼に映った。
 夜は、老婆の背中を撫でながら、過ぎて行った。
             4
「何だか、賑やかな音がする」
 翌朝を迎え。疼痛に痛む足を動かして、丘陵に登った。大きく盛り上がった場所には、次々と軍隊を示す旗が掲げられ、秦を睨んでいる。
 楚だけではない。魏の特徴ある黒の旗も、韓の緑の旗も、一緒くたに集まっている光景だ。
「やはり、入り込まれたな」
 だから長城で叩くべきだったのだろう。まず最初にやられるのは近隣の村だ。アドバイスはしてやった。僕には関係がないと嫌がる脳を叱りつつ、渭水の細流に降り、樽に水を汲んで戻ろうとした。
 もう一軍の集団が、ゆっくりと近づいてくる光景が視界に飛び込んだ。
 甲すら付けていない一陣は、ちょうど荒ら屋の前で止まった。軍師たちだ。ちょうどいい、水を掛けてやりたい思いで、姿を現し、息を呑んだ。
「――昭襄王――」
 それに、范雎や、王稽に、名だたる大臣たち。総勢三十人ほどが白起を向き、沢山の眼に晒された四肢が僅かに過敏になった。
「多勢に無勢。分かっているのか? 敵、見えているのに」
 今にも敵は踏み込んで来ようと、驪山に集まっているではないか。白起は水の入った樽を持ち上げ、揺れる水面に肩を震わせた。
 喉は渇いている。水が欲しい。だが、脳が激しく警鐘を鳴らす。
「白起、今一度、出陣せよ」
「なんで、お前に言われなければならない、范雎」
 口火を切った范雎を目がけて、白起は樽を振った。
 覿面に水勢を受けた范雎は、咳き込みはしたが、一歩も動かない。いつも自信ありげに揺れていた黒髪は、驚くほど色が抜け落ちていた。
 カランカランと空になった樽が足元に転がって来た。
「白武将! 話を聞いてくれ」
「ちょうど良かった。僕には聞きたい話がある」
 背中を向けた瞬間、ざっと土が磨れる音が響き、やがてそれは、沢山の合唱の如く響き渡った。
「何の真似ですか」
 昭襄王に続き、次々と軍師たちが地に手を突いて、額を乾いた砂に擦っている。
 ――昭襄だ。……元々、周の王族の身内だからな、王と名乗りを赦されておる。
 ――おう?
 ――偉い男のことだ。お前は、秦のために生きる武将になる――
 ――つまり僕は、武将になって、戦って、勝って、幸せになれる、ってことだね――
 遠き会話を思い出して、白起は涙目で、頭を下げ続ける昭襄王の前に膝を突いた。
 同じく手を突いて、頭を下げる。
 乾いた秋の土。枯葉を刻んだ風が頭上を通り過ぎる。
 異変に気付き、驚愕した昭襄王の頬を撫で、白起は眼を細めた。
 指先に皺の感触がする。
「あんた、ずいぶん年喰ったよ。昭襄王の潤んだ瞳なんか、初めて見た」
「お前は変わらずだ。俺に頭を下げろと言っただろうが」
「んー? ああ、言ったな。いっそ、殺すか」
 後の軍師たちが一部びくっと震え上がり、白起は「ははっ」と声を上げて、昭襄王の腕を引いた。
 范雎は勝手に立ち上がって睨んでいる。だが、王の御前だからか、いつもの皮肉は飛んで来ない。
 白起は丘陵を睨み、続けた。
「戦う場所は、人気のない場所にしないと、邑が焼かれる。――僕が産み出した種だ。殷呪とは、僕たちは何に呪われたんだ」
 昭襄王が小さな息をつく。
「数十年、僕が殺した土地で、いくつもいくつも龍を見た覚えがある。今こそ問おう。僕が戦った場所に石碑があった。あれは、偶然か?」
 白起は続けた。
「僕は、誰のために、どうして人を殺した。なぜ、なぜ、護りたかったものばかりが手から滑り落ちた! 見て見ぬ振りか? ――秦など終わっているではないか!」
 我慢の限界だ。白起は両腕を広げた。
「どうしてあんたは、民衆の苦しみを分からない! 病で秦の民は大半が死んだ。生き残ったものも、希望を無くした。昭襄王! 僕はこんな結末のために人を殺し続けたわけではない!」
 昭襄王は深い皺を彫り込んだ眼元をぎろりと動かした。
「秦は終わらぬ。殷呪は、また秦が生きるためのものだ。そうだな。王稽」
 王稽は白髪になった以外に、容姿が変わっていない。
 気付いて、足に震えが来た。そう、王稽は年を取っていない。
「殺して、憎しみが尽きれば、死んだ愛も取り戻せるであろう。すべての狂気を吐き出さねばならぬ。最後には希望があるだろうよ」
「希望が見えるまで、殺すと? ――武器を手にしなければ良かったんだ! 范雎は正しかった! 秦を殺したんだ、私たちは!」
 美しかった季節も、花も消え失せていた。奇病が蔓延し、秦はもはや地獄と言えよう。
「武器を持ってはいけなかった。戦いは無意味だ。止めるべきだ」
 見ていた王稽が白髪を揺らし、進み出てきた。
「白武将、お前、いつから、殷の奇病に冒されておる。初期は喉の渇き、中期は四肢の麻痺、末期は、呼吸困難だ」
 昭襄王が眼を見開いた。心配の表情に不機嫌になって、剣を奪い取った。
 体内で、武将の白起と、殺したくない白起がせめぎ合った。今こそかつての王の言葉が過ぎる。
〝生きるは殺す。殺さねば大切なものは護れない〟
 死がひたひたと近づいている。
「正門に兵を集めてくれるか?」
 驚き頷き合う軍師を片っ端から谷底に落としたくなる。全員いなくなればいい。燻っていた吐き気を堪えられず、いよいよ吐血した。
 今までよりも、ずっと朱い。彩るような鮮血だ。
「白起!」と昭襄王が慌て、「医者を!」と叫ぶ姿を牽制した。目の前に母の残虐な死に態が浮かぶ。
 忘れていたはずなのに、なぜ、今頃――……。そうだ、母は武将になる願いを託して死んだ。今こそ、武将であるべきだ。
 違う、人を殺しては殷呪が増える。わかっていても、目の前に的あらば戦う。護ると殺すは同義だ。
「血を吐こうが、何だろうが、僕は武将で在りたい! 最期までな! そうでしょう? 貴方も、母も、そう願ったのでしょう?」
 懇願する瞳には、昭襄王が優しく頷いている情景が煌めいている。
 王稽は相変わらず、睨みを利かせていた。
 ――もう少し、待ってくれないか、 もう少しでいい。
 誰にと言わず、白起は天に願った。今こそ、秦の役に立ちたいと、昭襄王と共に在りたいと、強く感じた。
 同時に、故郷に帰り着いたような、そんな嬉しさは、苦しみの中に在った。剣を手にした瞬間、脳裏の靄姫が泣き崩れた――。
            5
 人の死は誰にも訪れる。自然に訪れるものか、人に与えられるものかしかない。
 白起は再三訪れた吐血に汚れた衣服を纏め、庭に降りた。
 夜なのに、虹が見える。月虹だ。
 今頃、軍師たちはまた、どうでもいい作戦を、練り上げて顔をつきあわせているのだろう。愚かだと、いつまでも気付かないから、武将の血が流れる。
 流さないと、綺麗にならない。だけど、血はこびり付く。
 ――いってらっしゃい、白起。
 夜の月虹の下、母の声が空から響く。再び手に戻った龍剣を掴んで、一歩を踏み出した。晩秋の、枯葉混じりの風が吹き抜ける。
まだ、武将としての死は終わっていない。まだ天は、僕を許してくれるのだろうか。それでも、何度でも、武将・武安君は、昭襄王の手で甦る。白起、秦を頼む、その一言で大地に血を捧げ続ける。
             *
「王稽さま!」
 范雎は一人靜かに泉に立ち尽くす王稽に声をかけた。振り向いた表情は凍り付いた笑顔だ。
 年を取っているのかいないのか不明の肉体を向け、王稽は眉を潜ませた。
「貴様、この世界に一人残されたら、何を思う」
 絶句した范雎の前で、王稽は腕を広げた。「見よ」と袖をめくると、龍の如く、血管が浮き出て無残にそげ落ちた腕がある。
「俺と、おまえ、昭襄王は、奇病に罹らぬ。永遠を見るための番人には、罪を背負い、地獄を見るための天からの使命があるのだろう」
 王稽は続けた。
「我らの神を殺した。その切断された首から、呪は生まれる。当たり前であろ。神を殺したのだから。呪いは大地を蝕み、大きな呪術場となり、やがて神は再び目覚める」
 狂気のとば口の話だ。范雎はゆっくりと告げた。
「その神とは、殷の王ですか。王稽、今分かった。貴方は、この世を殷王朝に変えたいだけですね。――白起を戦わせた場所すべてに……」
 一呼吸置いた。
「殷の王の骸が眠っていた。龍の石碑は、そのための墓ですか」
 ふわり、と王稽が微笑む。死ねぬ身体など、あるわけがない。老いがない骸など、見果てぬ夢だ。
「人は地に眠る。霊魂も、一度は眠る、今はお眠りになっているだけだ。帝辛が復活すれば、このような地獄はなくなる」
 范雎はもう言葉を返さなかった。王稽の望みは、決して間違ってはいない。
 あまりにもこの世界は地獄過ぎた。皮肉だが、誰よりも、王稽は人を哀しんでいるように見える。
「白起が、殷の龍を壊した事実と、関係があるのでしょうか」
「大いにあるな。あれで〝神になりそこねた者〟を解き放った。それに、おそらく白起は龍の眼を持っている。殷王朝には石神という信仰があった。人は眼に宿り、砡になる」
「そんなに、素晴らしい王朝でしたか。人を殺し、その血で贖っただけの王朝が。――貴方は、殷の、時代の狂気の化け物でしかありません」
 范雎は踵を返しながら、告げた。
「これ以上、昭襄王も、白起も、貴方の巨大実験に付き合わせるわけには行きません。王稽さま、死したものは、どんなに愛おしく願っても、甦らない――」
 王稽は背中を向けた。ゆらゆらと湖の下で、死ねぬ骸が蠢いているさまをじっと見詰めている。
 時代に取り残された後姿には、憐憫を覚える。ああ、こんな時に魏冉がいてくれたなら。
「俺を処罰するつもりか。答えたまえ」
 王稽はくっと笑ったようだった。「おまえはそれだけの権力があろう。だが、俺は一つだけ、おまえの心を折る方法を知っている。――鄭安平はおまえを地獄までも、許さぬだろうな。夢を奪った」
 ちら、と鋭い目を向けられて、范雎は言葉を失った。
(鄭安平が嬉々として王稽の事項を語っていた姿は忘れられない。主従というには、濃すぎる忠誠。むしろ隷属だ)
「俺と鄭安平は共に秦の敵に回るぞ。血は充分に流した。趙に赴き、石碑を全て破壊して、殷呪を解き放つ。貴様がどこまで昭襄王を護れるか、見ていてやろう。貴様はどうあっても殷呪には罹らぬ」
 驚いた范雎に向けて、王稽は眼を細めた。
「貴様は遙か昔、どこかで、龍の液を飲んでおる。天鼠の嫌う水だ。白起がどこで奇病を拾ったのかは知らぬが、どこかで……」
 鄭安平。言葉はずしりとのし掛かった。いつしか、決壊した信頼の橋。魏から逃げた范雎の、張禄の、叔の、唯一の味方だった。優しく微笑んでくれた人間は、鄭安平だけだ。
 心を折れては負ける。自分が選んだ道だろう――。唇を噛みしめる范雎の前で、王稽は嘲笑を零し、踵を返した。
「もはや秦に用は無し。さらばだ。愛おしいものたちよ」
「行かせませんよ。貴方は、秦を裏切る気ですか」
「最初から従う気などないがな」
 范雎は、恐らく生涯最初で最後であろう、短剣を握っていた。
 貫いた先で、「無駄だ。俺は死ねない」と冷静な嘲笑が降った。カラン、と手から短剣が滑り落ちた。
 素早い足が、范雎に伸びる。「ぅあぁっ」と痛みに腹を押さえた范雎に満足そうに微笑んで、王稽は立ち去った。
 その後、鄭安平の軍も一緒に消えていた事実を范雎はすぐに理解した。
(鄭安平……とうとう最後まで、悪鬼の主に従うのか……)
「あんたを、解放したかった。王稽なぞより、貴方は……」
 范雎の瞳に、魏で剣を震った犲の如くの鄭安平の姿は宿り続ける。憧れたというのなら、昭襄王よりも、何より近くにいた――……
 思考を止めた。甘い感情は捨てよう。――今は白起の戦いを支援せねば。共に秦を護る、と言った盟友を支え、最期の花道を作ってやろう。
(何も言えなかった私からの償いだ。済まない、済まない白起……!)
 范雎は涙声を張り上げながら、人が疎らになった後宮を歩き、正門まで辿り着いた。階段の上で両腕を広げ、言い放った。
「白起の軍に総力を上げて支援を行う! もう呪いは止まりません。ならば、せめて、せめて秦を護る! 私の王、昭襄王の元に! 今こそ王の役割を果たして戴きましょう。王が前線に立つ。異例の事態ですが」
 やり取りを見守っていた昭襄王に范雎は向いた。
「総大将は、貴方です。どうぞ前線に遊ばれますよう」
 昭襄王は無言で頷いた。爬虫類の瞳に初めて光が宿り始める瞬間を見る。
 思えば、昭襄王はいつでも、白起と共に戦いたかっただけではないのではないか。
(年を取らんのですね、貴方も、白起も。武将は常に前を見ている。軍師が適う理由など、万のひとつも、ない)
 剣を受け取った昭襄王は、先に秦の軍旗色、紅の布を縛り付けた。同芯結。命を共にすると誓っている。
「私にはやるべき使命があります」
 昭襄王と家臣たちが出てゆくと、後宮はおろか、皇宮に人はいなくなった。懐かしい追憶が過ぎった。范雎は眼を伏せた。
(どれほど前になるのか……魏冉がいて、王稽がいた。白起もいて、鄭安平や瓏将、その他、みなが秦のために秦ゆえに生きた――)
 だが、今は范雎だけだ。王稽は趙へ逃げ、鄭安平も追っていった。
「范雎さま、貴方はどうされるおつもりですか」
 小姓が聞いてくる。范雎は軽く笑って、その場を後にした。
 ――白起なら、何としても秦を護る。おまえは、殷呪の奇病にすら、負けないだろう? 誰より人を殺し、愛した。神に近い者ゆえに。
「楚に向かう。気になる報告があってね」
 范雎は若々しいとは行かないまでも、まだ生力の残る四肢を向けた。楚には、秦の咸陽から逃げた者どもが創った村がある。
 ――趙の生き残りの残党が身を寄せていると、聞いた。
(ボクの勘がまだ生きているならば……)
 藁を積んだ畦道を馬で走る。季節は春だが、呪の大気は植物を枯れさせるのか、春の花は見当たらない。
 霞む山々の向こうに、靄のかかった空が見えた。山の輪郭をぼかして、黒くたゆたっている。不意に後方から馬の蹄の音。振り返ると、小姓が幾人かの武将を連れて、范雎を追いかけていた。
             *
「ここは……」楚の居城跡で、范雎は馬を止める。城壁はたたき壊されて、代わりにいくつもの土の盛り上がりが見て取れた。乱雑に薄い板が立ててある。
「墓か」と持っていた数珠を鳴らし、范雎は馬を下りた。壊れた戸の部屋から、老婆が姿を現す。
「仙人さまですかの」と崩れた唇が動いた。殷の呪いに冒された顔だ。「ここには、地獄はありませんのじゃ」と眼を細めた。
「ここは、何なのですか」
 震える声で聞くと、老婆はふぉふぉふぉと笑い、「靄、靄さんや」と部屋によぼよぼ戻ってゆく。
 また戸口から、藁布に載せられた死体が運ばれてきた。
 土の上に落とされた骸に、もくもくと人々は土を掘り返し、骸を埋めてゆく。誰もが涙を浮かべていた。男たちが骸を埋めると、今度は女たちが花を持って現れる。
「花など、どこにもないはずだが」
「靄さまが育てているのじゃ。死体に咲いた花だが、見事な色をしている。死に行く者を弔う、暖かい花じゃ」
 女たちもみな呪いに罹っている。その内の一人の女性が、足を止めた。籠に花を沢山摘めて、女たちは葬列を準えているらしかった。
「靄……靄姫ですか」
 つん、と勝ち気そうな表情には見覚えがある。若かりし頃に、趙で出逢った趙活の妻だ。范雎の目の前で、花籠が落ちた。
「失礼、知り合いに似ておりましたもので。――いるはずがないのに。性懲りのない身体は、ずっと待っていますの」
「趙の、靄姫ですね」
 途端に目の前の瞳に怯えの光が浮かぶ。「私は捕まえに来たわけではありません。ご無事で何よりだ」
 范雎は熟した四肢を抱き締めた。皮膚は崩れ、それでも勝ち気な瞳の光は喪っていない。
「ずっと、楚におりましたの。――敵味方、関係なく弔いを続けているのです。死して、弔われるならば、ここは地獄ではありませんわ」
 靄姫は唇を震わせ、また運ばれてきた死体に花を添えるべく足を向けた。
「見さらせ。これが、戦いの末路ですわ。どんなに欲を叶えようと、死すだけ。私の手の中で、いくつもいくつも死が通り過ぎる。ふふ」
 靄姫は何度も枯れ始めた手を握りしめ。俯いた。横顔は生に疲れた兆しはなく、むしろ命に輝いていた。
「死す命もあらば、生まれる命もありますもの。さあ、おどきになって。次の人々の埋葬が始まります」
「秦に、来て戴けませんか」
(何を言い出すの、あんた)と言いたげに、靄姫は眉を寄せた。趙で出逢った時間が甦る。范雎は告げた。
「白起に逢いたいと、言って下さい。秦のために、彼は最後、立ち上がろうとしている。趙での惨殺は許されるものではないですが」
 靄姫は動かなかった。ただ、胸元に下げた碧玉を強く握り、肩を震わせていたが、やがてゆっくりと首に提げていた砡を外し、手にした。
 ほっそりとした手で、范雎の大きな手に、砡を乗せてくる。
「白武将に、ずっと、お返しせねばならぬものがあります。秦の宰相さま」
「行きましょう」
 靄姫は首を振った。「私も、呪われた一人です。移りますわ」
「大丈夫。私はその病には罹りません。白起は既に罹っている。それでも、秦を護ると、剣を手に……」
 言葉が詰まった。吊られた靄姫も、涙を浮かべる。
「みなを護ろうと、願いを背負っておるのです」とようやく伝えた。
 と、靄姫が振り返った。背中に隠れた存在に、范雎の眼は釘付けになる。
 ――似ている……あのこまっしゃくれた口元に、人を疑わずに前を向く気怠げな瞳――
「おわかりですわね?」と靄姫は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「過去に飛び込める勢いなど、もはやないのですわ。殷の后として、やるべきことは、ここにございます。立派に、生きてゆくことです」
 范雎は駆け寄った少年の頭を撫でた。(もはや、何も言うまい)と。
 手の中にしっかりと握った砡は、范雎をただ、見詰めていた。
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「白武将さま!」の声に白起は首を傾げた。
 正門にさしかかり、呼ばれた覚えのない呼び名は、聞いた覚えのない声に包まれていた。だが、どこかで……。白武将と呼ぶ将が居たような……。
「お会いしたかったです!」
 ようやく分かった。瓏将だ。その隣に瓏にそっくりな青年が騎乗している。
「二番目の息子です。私は、もう引退をして、彼に将の位を継がせますので。もうじき元服です。昭襄王は来期で最後の元服をなさるそうで。私の最後の戦いは、白武将と共に在りたかった……」
 嬉しい再会に、涙がにじんだが、時間がない。眼の前に差し迫った連合軍は夜明けと共に秦に突入する。
「瓏、話は後だ。作戦はどうなっているんだ」
 それが……と瓏は口篭もった。代わりに「オヤジ」と子息が歩み出て、ぺっと唾を皇宮に吐いた。父親に窘められて、口を尖らせる。
「全て白武将に任せると。総大将はその――」
 鄭安平あたりだろう。ごめんだと言い返した白起は思わず龍剣を落とし、指で眼の滴を拭き取った。
 月明かりの下振り返ったのは、平伏すべき対象の昭襄王だ。
「老兵は引っ込んでなよ、昭襄王さま。あんた、莫迦じゃないだろ。王が殺されたら、秦は終わるんだ! 僕は絶対に許可しない!」
「指揮をここからするだけだ。戦いに参加できるほどの躯じゃないが、老兵も役に立った」
「白武将さま、秦の冑をお受け取りに」
 受け取った冑を被り、後で仁王立ちで武将を見守る昭襄王を振り返った。
 立ち姿は、楚王の骸を抱え、通り過ぎた瞬間に重なる。
 月が陰る。暈が霽れて、夜空に幕雲が広がり始めた。
 静寂の後――、色とりどりの軍旗が見え始めた。
「秦軍! 全力で楚・魏から秦を護れ!」
 昭襄王が吼え、構え大きく振り上げた銀剣が月光を跳ね返す。呪いに打ち勝ち、戦える武将は僅かだった。その中に、砂煙を突破し、咆吼を上げた武将がいる。
「おらおらおらおらぁっ! 国を作るのは軍師じゃねえ! 俺が勝ったら、土下座だ、クソ兄貴! 見てろぉぉっ」
「誠申し訳ない。尊敬していた兄が軍師になっておるので、気に入らんのです」と瓏が頭を下げた。
 何となく、白起と范雎の関係に似ている。そういえば、范雎はどうしているだろう?
 振り返ると、大切なものが視界を埋め尽くしていた。秦の皇宮、後宮、大好きな渭水、堂々とした正門、その中央に立つ人を、心から護ることこそが、武将だ。
 願いを背負い、いつだって前を向く。殺す所業すら、後は向かない。
「では、僕らも行」
 どくん、と身体全体が大きく震えた。
急激な体温の低下を感じた刹那、ぐらりと視界が歪んだ。
 ――いつもより、激しく、大きい。これは――。
(いよいよ来たか)と察するより早く、どくどくと躯が脈打ち始めた。命を少しでも早く押しだそうと、負の運動を始めたのだ。
(駄目だ、こんなところで終わりたくない!)と眼を強く伏せた。
「白武将!」空気が流れる中、瓏の声が大きく鼓膜を震わせる。どさりと腕に転がり込んで、ぼんやりとした視界で数十頭の馬が止まった二匹の前を、横を駆け抜けて、戦地に赴いていった。
 土に爪を立てて、ようやく馬の汚れた足に齧り付いた。馬は嫌がり、齁を吹いている。
「……乗せろ……僕を乗せろって言ってんだ!」
 ゲボォッと激しい音が聞こえるほどの吐血を吐き、霞んだ眼で馬に縋った。はあ、はあと自分の体内の音すべてが自分の行動の邪魔をする。呼吸がうるさい、胃がうるさい、鼓動がうるさい、ああ、世界のすべてがうるさい。
 その霞んだ向こうに、泣き腫らした靄姫を殺そうとする自分の画が浮かんだ。
 ほっそりとした首に、血に塗れた手が絡みついた情景が見えた。
 ――そうだ、僕の本当の裏切りは――……
 四肢は言うことを聞かない。(どうして待ってくれない!)悔しさで唇を噛む白起に、ぼんやりと大量の顔が空中に浮かび上がった。
「あ……」
 殺した皆が顔だけになって笑っている。たった一人の悪鬼の死の訪れを、百万の人々は悦んでいる。僕の死を、皆は悦んで居る――違う、武将としての死を悦んで居るのだ。
「斬るよ……殺してやる!」
 瓏の涙が頬に落ちた。「もういい! 貴方は充分傷ついていた」との瓏の頬を引っ掻き、首を振った。つぅ、との声に手を止めた。眼をえぐり出してやりたくなった。
 感情の、制御が利かない。
 死んでしまえ! ああ、そうさ、全員僕が殺してやるよ……?
殷の呪い? 僕は趙活を許さないよ――。趙活の妻になった靄姫を許さない。僕を暖かく包んだ靄姫をゆるさない、許したい、だれか僕を許して。傷ついてる? 僕が? でも、そうしなきゃ、何も、護れないんだよ……護るために殺す、生きるは殺すだと何故分からぬ!――そうだ、だから僕は間違ってなどいない! 誰ができた? 秦を、誰が護れた!
 それなのに、秦は内側から崩れてゆく。殷の呪は凄まじい。
(もう、終わりだよ、武将)ふるふると頭を振った。考えるはずのない考えが脳を塗り替える。吐血など、どうでもいい。
 自分を殺されたくはない。だが、それこそが殷の呪いの怖さだとしたら――?
「違う! 僕は傷ついてなどない! 昭襄王さまと約束したから! 母さんと約束したから! 離せ! 嫌だ、僕は、あっちに確かめに行くんだ!」
〝ならばそうしなさい 行きなさい〟
 遠き母の声が、急に甦って、四肢の疼痛と、狂気を和らげた。「気を取り戻しましたか」と瓏の安堵した声が嬉しかった。きょと、と子供の如く瓏を見上げる。
 ――なんと優しい子、他人の死で、泣けるのね……。
 瓏は白起の腕を抱え上げ、唇を噛みしめて立ち上がった。
「白武将を皇宮へ。俺が連れて行きます! 王よ、良いですね! 反論はせんで結構!」
 貸せ、とかつて大きくみえた背中が動いて、両側から白起は抱え上げられた。「そなたの次男、大層な働きをする。任せよう」の声と一緒に、自分の躯がゆっくりと進み出した。
 歩いている感覚がしない。膝が磨れる。その情けなさに涙が止まらなくなって、白起は飴色の瞳を向けた。優しい瞳は、何十年ぶりか、白起への優しさだけに溢れていた。
 もう限界だろう。
「昭襄王さま、一つ、僕は言わなければならないことが」
 ん? と兄の瞳がちろりと向いた。皺が増えたが、目付きは変わらずの爬虫類の態だ。
「人を殺して、人を愛した……か?」
 昭襄王は老体ではあるが、腕力は衰えてはいない。片腕をしっかりと支えながら、相変わらずの表情で嘲笑った。
「見てりゃわかる。秦に敵対した子供を産ませたなら、おまえの雄の度胸を褒めてやる。ふん、どうせそこまではできなかったのだろうに」
 もう限界だった。楽になれるのなら、吐いてしまおう。汚れた血を吐けば、楽になる。
「殺せなかった……それだけですよ……」
 瓏はただ無言で嗚咽を堪えていた。とうとう感情の袋の緒は飛び散り、白起は訴えた。
「僕は趙の人々を埋めました。それしかなかった! 秦に連れ帰るは不可能だった! 少年たちを逃がしました。それが、今回のような悲劇を生むのなら、殺すべきだった! そうして、みんなが笑って僕の死を悦ぶんだ!」
 見慣れた正門の前には、何もしない軍師たちが並んでいる。
「並べ! この殺人鬼が全員叩き斬ってやる……」と呟いた白起の龍剣を昭襄王が取り上げた。糸が切れかける。
「いずれ、返そう。だから、もう、いい、ご苦労だった、白武将」
 眼を見開いた白起に、昭襄王は頷いて、子供のように頭を撫でた。
「おまえは、殷の呪いに罹っておる。吐血も、感情の抑制ができぬのも、すべてそのせいだ。もう休め。もう充分だから」
 体内は身を焦がすかの如く、沸騰していた。泡を噴いた症状で、殷の呪いへの罹患は確実になった。
 眼の前に、趙活との地獄の場面が甦った。
(靄姫を庇い、血を浴びた、あの瞬間……)
 趙活は本当に王だ。数十万を殺した民衆のために、仇を取ったのだから。
            *
 衝撃的な白起の戦線離脱は一時秦軍を窮地に陥らせたが進攻は、食い止められ、再び武将の地位が確立した。
 同時に、秦の軍師が緊急会議により、昭襄王の勅諚を承る。通常では、武将の処分は宰相の直属機関、少府が行うが、宰相・范雎にはもう一つの処分があった。「趙へ亡命したと思われる鄭安平並びに、王稽の処分だ。
 かくして、白武将への決議は遅れ、再び春を迎える。一年半に及ぶ他国との抗争と、殷呪の影響で、秦の人口は半分に減っていた。
 そんな中、白起は最後のやるべき事項を練り上げる。残された時間はない。
 ――すべてのはじまりへ。白起の足は自然に動いた。
(まだだ、まだ。僕は真実を知らない!)
 なぜ、母が、魏冉が、その他の人々が死ななければならなかった?
『腰抜けね』
 〝あの骨は、何だったのだろう〟――思考は過去と現在を繋ぐ。
 趙へ行くべきだと。
 だが、白起には、最後の鉄槌が口を開けて待っていた。軍師たちは罹患した悪鬼の武将に危惧を覚え、全員一致で死刑を決議、昭襄王の決断待ちとなっていた事実を白起は間もなく知る事態となった――。

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