輪ゴムが泣いている

さ、

エピソード1 三味線

彰は床に落ちている輪ゴムを大事そうに拾い上げた。
嬉しそうに、愛おしそうに。
その輪ゴムは飴色の綺麗な輪ゴムではなく、踏まれて汚れた一個の黒い輪ゴムだった。
持っている紙袋は黒い輪ゴムでもう一杯になっている。

安西彰は1916年、大正5年、滋賀県栗見荘村の出身である。実家は農家で貧しい生活が続いていた。4人兄弟の末っ子で姉二人と兄がいた。次男である彰は、8歳の時に船場の糸問屋の「千成屋」に奉公に出された。
昭和3年の事であった。
糸問屋と言っても糸など触らせてもらえず、毎日掃除と子守りと母屋の雑用の仕事に明け暮れた。
彰はこの仕事が好きとか嫌いとかの感情もなく、何もわからずに丁稚になっているので、彼にとってはこれが日常であり、普通の当たり前の生活だった。
ある時、こんなことがあった。
近くに芝居小屋が出来て、その宣伝にチンドン屋がやってきた。顔はどうらんで真っ白。色とりどりの着物を着て三味線、太鼓、尺八などを鳴らしながら、町中を練り歩く。彰はチンドン屋というものをを初めて見たこともあり、一緒に後を付いて回った。
季節はもう秋。彰が千成屋に奉公にきてから半年が経っていた。
そのチンドン屋の芸人たちは難波旅館という安宿に泊まっていた。
彰はあの華やかなチンドン屋が忘れられない。なぜか耳に残る旋律が頭の中で駆け巡る。それに合わせて体から揺れる。
こんな気持ちの良いことを感じたことがない。
三味線は知っている。実家で一緒に住んでいた祖母が時々三味線を弾いていたのを良く覚えている。あの時は、なんとも退屈に聞こえたのに、今日はどうだ。彰は興奮した。
店のおかみさんの一番下の赤ん坊、八重の子守をしながら、チンドン屋の泊まっている宿まで行ってみた。二階の窓から三味線の音色が聞こえて来た。
それは昼間の練り歩いていた時の旋律ではなく、なんとも優雅なものだった。
その時、二階の窓から「小僧さ〜ん」と女の声が聞こえた。見上げると、ひとりの女が手招きしている。
「こっちまで上がっておいで。金平糖があるよ。」
金平糖の響きにつられて、宿の入り口をすり抜け、すぐ横にある階段を上って行った。彰の身長では、その階段は一段上がるのも厄介だ。しかも、八重をおぶっているためバランスが悪い。
八重は、さっきからぐっすり眠っている。
ぐずっていないのがせめてもの救いだった。
可愛いねぇ
三味線弾きの女が甲高い声を上げた。
誰の子だい?
ごりょさんの。
そうなのかい。

ちょっと抱かせておくれよ。
抱っこ紐をほどくと、女は八重を包むように抱き上げて頬摺りをした。
いい匂いだ。
赤ん坊には独特の甘い匂いがある。
こんべいとう…
ああそうだったね。
ほれ、そこの紙袋を開けてごらん。
好きなだけお食べ。
赤や黄や青や白。色々な星が踊っているように見えた。
金平糖を食べながら、ふと窓の方を見ると、今まで見たこともない景色が見えた。こんな高いところから表通りを見たのは初めてだ。窓の桟に乗り出して表通りを見渡すと、街がこんな風な作りになっているなんて、初めて知った。
あっ、火の見櫓まで、あの辻を曲がった方が早く行ける。なんだか、小さな発見があって嬉しかった。
金平糖が口の中でゆっくり溶けていく。
もったいなくて、一度に一粒しか口に入れられない。
しかも、噛んだりできない。下の上に乗せて、上顎との間に金平糖を挟む。唾液が溢れて金平糖をゆっくり溶かして行く。甘い唾液が口の中を満たしていく。
こんな幸せな気持ちになったのは初めてだった。
千成屋でも、彰は二階に上がることは許されてなかった。
二階にはこんな世界があることを知った。
その次の朝、チンドン屋の芸人達は仕事が終わり、また別の町に旅立って行った。

彰はいつもの日常に戻って行った。
しかし、彰の頭の中に三味線の音色がいつまでも響いていた。


昭和13年、18歳の時に、労咳を患い、千成屋を辞め滋賀県の自宅に戻り療養することになった。

この当時の労咳は不治の病で、死を覚悟しなければならなかった。

千成屋を辞める日、皆が表通りまで見送ってくれた。
大旦那は、餞別だと言って十円を包んでくれた。
番頭の大松は、通りの真ん中で万歳三唱をしてくれたが、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。





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