本日は性転ナリ。

漆湯講義

69.重なり

 「ママぁ、ぬいぐるみ落ちてる」

 私は横を通り過ぎた子供の声でふと我に返った。咄嗟に周囲を見渡すも、やはりそこには彩ちゃんの姿は無い。
 "そっか、行っちゃったのか"
 売店の時計に目をやると、私が売店を出てから数十分も経っている事に気付く。
 私は地面に転がったぬいぐるみをそっと拾い上げると、胸に強く抱きしめた。投げ捨てられたそのぬいぐるみと一緒に"彩ちゃん"も捨てられてしまった、そんな気がしたのだ。
 すると私の目には自然と涙が溢れ、それを髪のカーテンに隠しながらも、自分の無力さに息を殺して泣いた。

 「何で……だよう」

 誰の耳にも届かない声がまた私の胸を締め付ける。きっとあれはもう一人の彩ちゃん。私が初めて出会った"天堂彩"だ。そして何故かは分からないけど、彩ちゃんは再び私へと憎悪を抱き、私の元を去って行った。
 少しだけ肌寒い風が私を包む。
 何度も何度も頭の中で整理をしようとするも、私にはどうしてかが分かる事は無い。地面に張り付いたその足が僅かに震えている。そして時間がその胸の戸惑いを和らげると、ようやく私の胸が落ち着きを取り戻し、私は重い足を進めたのだった。




 バスを降り、ほんのりと茜色に染まり始めた街並みの中をとぼとぼと足を進めていく。私の目に映るその景色は朝とは打って変わりどこか寂し気で、そんな景色に自ずと小さな溜息ばかりでてしまう。
 ……私はいつからこんなにも感傷的になってしまったんだろう。昔ならこんな事があってもすぐに割り切って何事も無かったかのように振る舞えていただろうに。
 すると虚な目にある店の看板が留まった。
 "お探しの本必ず有り〼"
 そして私は引き寄せられるようにその店のドアの前へと足を進めていた。両開きのガラス戸を押し開けると、カランカランと鈴の音が店内に響く。
 薄暗い店内には幾つもの本が整然と並べられており、その一番奥のレジでは、眼鏡を掛けたおじさんが客である私には見向きもせず、熱心に本を読んでいるのが見える。
 そして私は、迷路のような本棚に囲まれた狭い通路をゆっくりと歩いていく。
 文芸……、実用書……、絵本……、参考書……、専門書。
 そこで私の足が止まる。視線を右から左、それを上から下へと動かしていく。

 "多重……人格を知る"

 私は本を手に取った。そこには多重人格……、解離性同一性障害についてがイラスト付きで記されていた。
 "自分の中に複数の人格が現れるものを多重人格障害(解離性同一性障害)という……。そしてある人格が現れているとき、他の人格のときの記憶がないケースが多く、生活面では様々な支障が出てきます"

 私は食いつくように読み進めた。もしかしたら彩ちゃんを元に戻す手掛かりになるのかもしれない、と期待を抱いて。
 ……その時、コンコン、と机をノックするような音が響いて、私は視線を店の奥へと向けた。

「此処は本屋だ。本を読むのは図書館」

 しゃがれた声が静まり返った店内にやけに大きく響いた。さっきまで私なんか無視して本を読んでいた癖に。そう思いながらも、私はその眼力に圧されて逃げるように店を出た。




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