本日は性転ナリ。

漆湯講義

65.フツウ

"次は動物園前、動物園前です"

 バスのアナウンスに顔を上げた私は、顔色を伺うようゆっくりと隣に視線を向ける。すると同時に顔を上げた彩ちゃんが私へと顔を向け、早口にこう言った。

「衣瑠っ、もう到着するみたいだわっ。私たちも降りなきゃっ」

 心配を他所にあっけらかんとした態度の彩ちゃんに困惑しつつも、私は胸をそっと撫で下ろす。もしかしたら"アヤちゃん"の事は私の考え過ぎだったのかもしれない。
 その時、私はハッとして咄嗟にバスの降車ボタンへと指を伸ばしたけど、いつものように競うように隣から伸びてくる指は無く、"今日は莉結じゃなかったっけ"と空回りした指でボタンをそっと押した。思えば莉結以外とバスに乗った事なんて無かったんだな、と自分が少しだけ恥ずかしくなる。
 それから間もなくして車内に降車を知らせる音が響くと、隣から彩ちゃんの遠慮がちな小さな声が響いた。

「降りたい時はこのボタンを押せばバスは停まるのね?」

 そう不思議な事を言った彩ちゃんに私が返答に困っていると、彩ちゃんは"恥ずかしいけれど初めてなの"と、長い睫毛を光らせて耳に掛かった髪をかき上げる。
 私は"さすが豪邸に住むだけはあるね"なんて冗談を言おうとしたけど、喉まで出掛かったその言葉を脳裏に浮かんだあの写真たちが押し戻した。だってもしかしたら"庶民的なバスが初めて"という意味じゃなくて、"出掛ける事自体が初めて"という意味に思えたから。
 そんな私が哀愁を帯びた視線を向けると、彩ちゃんはそんな事気にもしていない素振りで笑ってみせた。私はぎこちなく微笑むと、タイミング良く車内に鳴り響いた動物園への到着を知らせるアナウンスに助けられ鞄を掴んだ。
 バスが甲高い音を立ててゆっくりと停車する。ぐらん、と揺れた後、足早に席を立つ人達の背中を見送ってから私は席を立った。
 前の人達はみんな電子マネーのカードみたいなものを機械にかざしていくけど、病院以外でバスに乗る事のない私は、汗の滲んだ指で整理券を持って順番を待った。
 そして私の番になったとき、運転手のおじさんに「二人分一緒で」と私は言う。
 これもひとつのエゴかも知れないけど、ここで私が払ってあげなかったら、もう元の姿に戻れないような気がしたのだ。そう、私は男としてのつまらない見栄を張った。
 でも、慌てて私にお金を渡そうとした彩ちゃん。しかしそこで受け取ったら男が廃る。
 私は格好をつけて"今日は私に払わせて"と相反した女らしいウィンクすると、彩ちゃんは申し訳なさそうに、それでも少し嬉しそうに小さく頷いた。
 バスを降りてすぐに目に映った大きな動物園の入り口には、春休みということもあって子連れの親子や学生らしきカップルの姿が目立っていた。
 いつかぶりの動物園。変わらないあの頃のままの景色が朧げな記憶を彩る。
 そして自然と早まる足を落ち着かせながらも何歩か足を進めた時、左手に柔らかな感触が伝わった。

「いい……でしょ?」

 私を見上げる彩ちゃんに視線をやりつつも、手を包んだ柔らかな感触に私の意識が集中する。
 そんな中、不覚にも私はそんな彩ちゃんに可愛らしさを感じていた。クラスメイトには無い、真っ白なキャンパスみたいな純粋な子供のような可愛らしさが。
 そんな私は"これは自分の気持ちを確かめる為に必要な事だ"なんて言い訳みたいな事を頭に浮かべながらもその細くしなやかな手を握り返したのだった。そしてそれに呼応するようにまた彩ちゃんの手に僅かに力が入ると、急に恥ずかしさが増した。
 身体に付いた棒っきれみたいになった腕をゆっくりとゆらしながら入園チケットの販売機の列に並んだ私たちは、園から出てきた子供が持ったぬいぐるみが可愛いね、なんて話から童心に戻ったかのように色々な話で盛り上がった。そんな話に夢中になっていると、ゴホン、という後ろの人のわざとらしい咳払いで、私たちの前に連なった長い列がいつの間にか消えていることに気付く。私は後ろの人に苦笑いを浮かべつつ軽く頭を下げると、小走りに販売機の前へと移動して財布を取り出した。
 すると"さすがに入園料までは私に出させる訳にはいかないわ"と彩ちゃんが小さな名刺入れのようなものを取り出す。

「バスは衣瑠が払ってくれたから」

 彩ちゃんはそう言ってその小さなピンク色をしたものから一枚のカードを取り出した。

「これは……、何処に入れればいいのかしら」

 戸惑う彩ちゃんを見て私は思わず息を吹き出して笑ってしまった。だって彩ちゃんが持っているのはクレジットカードだったから。

「彩ちゃん、本気で言ってる?」

 笑いを堪えつつ私がそう言うと、彩ちゃんは困った顔をして首を傾げた。
 彩ちゃんに"初めて"が多いのも分かる気がする。それはきっと今までこういう"普通"の事をしてもらってこなかったから。私はなんだか彩ちゃんが本当に子供みたいに思えて、手に持ったカードをそっとケースに仕舞ってあげると、頭をぽんと撫でてあげた。

「今日は私に任せてよ」

 私がそう言うと、体裁の悪そうなぎこちない笑顔がフツウの笑顔へと変わった。

 無事入園ゲートを潜ると、彩ちゃんは私の手を引いて生真面目に園内マップの順番通りに回っていった。昆虫の標本や、うたた寝をしたまま動かない動物達。子供ならがっかりしてすぐに去って行ってしまいそうなそのひとつひとつを、彩ちゃんはじっくりと、目に焼き付けるように見つめていた。その瞳は生き生きと輝き一点の曇りも無く、彩ちゃんは私にその都度思った事を赤裸々に伝えてくれた。その度に私は"これって本当の彼女みたい"なんて思うのだった。
 そしてカピバラの展示へと向かっている時にベンチに座るカップルが目に映った。その時、何気ないはずのその風景に私の中で何かが引っかかった。

 "本当の彼女みたい"

 さっきまで繰り返し感じていたその想い。それが彩ちゃんの気持ちを真剣に受け止めていない自分の気持ちの投影だという事に気付いたのだ。

「これがカピバラ? たいした事ないわね」

 いつの間にか立っていたカピバラの柵の前で彩ちゃんが素っ気なく言った。てっきり"可愛いわね"とか女の子らしい事を言うと思っていたのに、想定外の淡白な発言につい笑みが溢れる。

「えっ、たいした事ない?」

「たいした事ないわ。だって学校でこの生き物が物凄く可愛いのだと聞いていたから。周りの意見に流されるつもりは無かったけれど、期待して損したわ」

 そう話す彩ちゃんの表情は少し拗ねているようにも見えた。まるでもらったプレゼントが想像していた物じゃなかった時の子供みたいに。
 
「感性は人それぞれだからねぇ……。私にもただの大きいネズミにしか見えないからさ」

 私がそう言うと、彩ちゃんはクスリと小さく笑った。

「良かった。言い終わってから衣瑠がこのネズミの事が好きだったらどうしようって思ったの」

 彩ちゃんはそんな事を気にするんだって思った。言いたい事は隠さずに言えばいいのに、とも。
 "それって私も……同じ?"
 そんな言葉が頭に浮かんだ。

「あのさぁ……」

 私は自分の道理を通したかっただけかもしれない。だけどなんだかこのままじゃいけない気がして、私は自分の気持ちを打ち明ける事にした。

「私、彩ちゃんの事"本当の彼女みたい"って思っちゃった。本当の彼女……なのにさ」

 もしかしたら罪悪感を払いたかっただけかも。そう思っても仕方ない。私は彩ちゃんにそのエゴをぶつけてしまったから。

「なによ、それ」

 彩ちゃんは俯いてそう答えた。呟くように吐き出されたその五文字が頭の中に反響する。
 そして私がまた"ごめん"を口にしようとした時、私の目に真っ赤に染め上げられた彩ちゃんの白い頬が映った。

「懺悔のつもりかもしれないけど、私にとっては好都合よっ。だ、だって私は始めから本当の彼女になれただなんて思ってないんだから!」

 真っ直ぐに見つめられたその瞳が僅かに動いている。嬉しさと恥じらいが混じったような綺麗な瞳。
 私はその言葉の意味を数秒かかって理解した。そっか、彩ちゃんはそんな私でも受け入れてくれたんだっ、って。
 それから私の胸に安堵と一緒に鼓動を速める"何か"が湧き上がってきて、それが胸の奥から全身に伝わった瞬間、頬がどっと熱くなった。
 それからは穏やかな時間が過ぎていき、いつの間にか彩ちゃんとの間にあった微妙な隔たりは消えていて、私は素直にこの"デート"を楽しんでいた。
 そして"少し足が疲れたね"と言って座ったベンチで、私はふと周りの視線に違和感を抱いた。
 その違和感は些細なものだった。それが私の思い違いならいいけど、今までの私、俺が向けられてきた視線とはどこか違う気がしたのだ。それは男と女とでは視線の向けられ方も違うだろうけど、そういったものとはまた別な不思議な視線を私は感じていた。
 人は他の生物に比べて"感情"というものが突出している分、微妙な表情の変化に敏感なのだ。それは視線にも当てはまって、視線のその先にある目、その目の周りの筋肉の微妙な変化を私たちは無意識に読み取っている。それがこのベンチに座って周りに意識が向けられた今、私の視覚情報で違和感として取り入れられたのだ。
 そしてその原因を考えていた私は、その違和感が最初からあるわけじゃ無くって、"あるものを見た時"から感じる事に気付いた。……視線だ。
 通りすがる人達の中の一部、何気無く私たちに向けられた視線は、まずは顔にその視点を合わせ、寄せた肩へと下がっていく。そこまではたぶん景色の一部と何ら変わらないんだろう。でも私が違和感を感じたのはその後だった。
 ……きっとそれは人としてごく自然な事なんだと思う。視界に映るものを無意識に認識していき、自分を取り巻く情報を得る。そしてその中でも違和感のあるものには意識が重ねられてより濃い情報として脳に認識させる。そして私たちに視線を向けた人たちに違和感として意識させるもの、それが"指を絡ませて繋がれた私たちの手"だったのだ。
 その証拠にそれを見た瞬間、目元に僅かな変化が現れるのだ。疑問、喫驚、軽蔑、羞恥、憂苦……。私にはそんな感情が視線に込められた気がした。
 やっぱり私たちは"変"なのか……。そんな気持ちが私の視線を地面へと向けさせた。

「衣瑠はああいうの気になる?」

 彩ちゃんは私の微妙な変化に気付いたのか、前を向いたままそう言った。

「いや……、まあね。あんな風に見られると私たちが普通じゃないみたいに思えてさ」

「普通って何? 私たちは普通でしょ?」

 屈託の無い笑顔が私の横で輝いた。私がそれに答える事ができずにいると、彩ちゃんの身体が私にぴったりと寄せられる。

「ちょっ……、彩ちゃん?」

「普通よ? 日本人は表現に奥手なのよっ。ほら、あの人たちだって」

 彩ちゃんの指した方向には外国人のカップルが見えた。その二人はこれでもかと身体を寄せ合って、見ているこちらが恥ずかしいくらいにいちゃついていた。

「あの人たちは自分が普通じゃないと思ってやっていると思う?」

「思わないけど……」

「"普通"って、本来の自分を曝(さら)け出すって事じゃないかしら? それを出来ない人たちが世間の多数意見を"普通"って思い込んでいるだけ。違うかしら?」

 彩ちゃんはそう言って身体を戻すと、繋がれた私たちの手を目線まで上げた。

「普通って普段通りって事。つまりこれが私たちの普通、だと思わない?」

 その瞬間、私が感じていた違和感がただの視線に変わった。だって彩ちゃんの言う通り、普段通りの自分を見られる事は何も恥ずかしくないって思えたから。

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