本日は性転ナリ。

漆湯講義

26.光と陰。

 片付けを終え、遠くにぼんやりと浮かび上がるいくつかの炊飯棟に目をやると、食事を終えて仲良く片付けをする班や、楽しげに談笑している班、メンバーが悪かったのか……今から食べ始める班など、色々な姿が見えた。

「私ちょっとトイレ行ってくるね」

    夜になって少し冷えたせいか、トイレに行きたくなった私は、莉結にそう言って席を立った。

「暗いけど一人で大丈夫っ?」

    真面目な顔でそう言った莉結に、「子供じゃないんだから」と苦笑いを浮かべて答えると、私は炊飯棟を離れて、昼間の記憶を頼りにトイレを目指した。
 歩道は一応整備されているし、街灯がチラホラとあるお陰で、ぼんやりとだけど足元も見える明るさだった。莉結が心配するのも分かるけど、野生の動物が出るような感じはしないし、こんな所に変質者とかも出るわけが無い。一つ言えるとしたら、森の中から時折聞こえる何かの鳴き声が薄気味悪いくらいだ。
 足元に気を付けながら少し歩いていくと、薄暗い光に照らし出された小さなログハウスみたいなトイレが見えてきた。
 "汚そうだな……"なんて思いつつ近寄ると、外には掃除用具が立て掛けてあり、それなりに掃除はしているみたいだった。
 中に入ると、天井の電灯に群がる凄い虫の量に、つい「うわっ……」という声が漏れる。
 男だった時とは違って、"小さい方"をする時でも個室に入らなきゃいけない女は不便だと思う。こういう環境なら尚更だ。
 そして私はトイレが洋式である事を願ってドアを開けた。

「だよねぇ……」

 想像通りの和式便器が見えた瞬間、私は溜息と共に小さく呟いた。
 あまり綺麗とは言えない見た目に、私はジャージが周りに触れないように慎重に用を足す。静かな室内に響く、電灯にコンコンとぶつかる虫の音が、妙な恐怖感を掻き立てていた。

 "早いとこ出よっ"

 なんだか心細くなってきた私は、そそくさとズボンを上げる。そして体操服の裾をしまっている時に、誰かがトイレに入ってくる足音が聞こえて、私は不覚にも安堵してしまったのだった。

 しかし、その安堵を裏切るかのように、突然私を襲ったのは、"バシャーン"という音と、右肩から腕先に広がる水の感触だった……
 私は訳が分からずに、ポタポタと雫を垂らすジャージを呆然と見つめる。
 何で……水が?
 上を見上げてみても、木組みの天井が見えるだけで水が出てくるような所は一つも無い。
 するとドアの向こうから、ぼそっとした低い女の声が聞こえた。

 "居なくなればいい"

 それを聞いた瞬間、私の心臓は鼓動を早め、ドアに視線を向けたまま身体が硬直してしまう。
 居なくなればいい?……何で?
 女の声が頭から離れない……これは嫌がらせ? でも、何で……
 私は身に覚えの無い嫌がらせの原因を頭の中で探した。でも、未だに冷静になれない頭では、その答えは探し出すことが出来なかった。
 暫くしてからゆっくりとドアを開けると、ふと目に映ったのは、建物の外にあったはずのバケツが一つ、床に置き去りにされていた。

「くだらない事しやがって……」

 強がってそう言ったものの、震える身体と収まらない心臓の鼓動が、私に"自分の弱さを認めろ"と言っていた。

 ……"いじめは、いじめられる側にも原因がある"

 いつの日かテレビのコメンテーターがそんな事を言っていた。
 だけど、その原因というものは、いじめる側の人間が、いじめられる人間をよく理解できないまま、勝手な思い込みを膨らませて創り上げた間違った解釈の事なんじゃないかって思う。全てがそういう訳では無いのだとしても、今、私に水を掛けて行った女は、少なからず私の事なんて理解しようとはしていない……
 私は濡れたジャージを脱ぐと、震える手で水を絞った。
 いじめられたらやり返せばいい。そんな低能な事しかできないような奴はほっとけばいい、そう思っていた自分が馬鹿らしく思えた。

 実際、自分の身に起きたら何もできないじゃんか……

 私は凍えそうに冷えた身体を抱きしめながらトイレを出て、辺りを見回して人の気配が無い事を確認すると、何事もなかったかのように炊飯棟へと戻ったのだった。

「衣瑠、それどうしたのっ?」

 炊飯棟に着くと、私の濡れたジャージを見て莉結が声を上げた。

「えっ、これ? 蛇口が逆さになってるの気付かないまんま勢いよく水出しちゃってさっ……」

 何隠してんだろ……私。

「なにやってんの? 風邪引いちゃうじゃん。どうしよう」

 莉結が辺りを見回していると、健太が立ち上がって、突然私の手を取った。

「さっき飯盒やったとこならたき火できると思うからさ……俺、火着けてあげるから来なよ」

 私は戸惑いながらも、健太に手を引かれ炊飯棟を離れた。

 健太は手慣れた様子で火を付けると、パチパチと燃えだした火の前に座り込んだ。

「こっち来なよ、もうあったかいよ」

「うん……ありがと」

 さっきまでとは少し感じの違う健太に、違和感を感じながらも、私は横に座った。
 オレンジ色に輝いた炭が私の顔を照らし出し、熱くさせる。
 ふと横目で見た健太は真剣な顔でジッと炭を見つめたまま、何かを考えているみたいだった。
 パチパチと音を立てながら燃え続ける炎に、両手を広げて当てていると、小さな深呼吸が聞こえ、健太が口を開く。

「ねぇ、衣瑠ちゃんは好きな人とかいるの?」

 私は、どっかで見た青春ドラマみたいだな、」るたからたはさはなぬそねにら思いつつも「別に……今は居ないかな」とだけ答える。すると健太は何故か微笑んでこう言った。

「そっか、いる訳じゃないんだ」

 暫く無言が続き、私はつい無意識に「好きになるってどんな感じなんだろ」と言っていた。

「それは……常にその子の事ばっか考えちゃって浮かれるいうか、なんか常にもどかしいみたいな……感じかな」

 そう言って真面目に答えてきた健太に、つい私は笑ってしまう。

「何で笑うのっ?」

「別にっ。いいなって思ってさ」

 ジッと私を見つめる健太の視線を頬に感じながらも、私の頭には莉結の姿が浮かんでいた。
 私もこんな事にならなかったら普通に誰かを好きになれてたのかな……この焚き木に嫌な事をぜんぶ放り込んでいっしょに燃えてしまったらいいのに。
 火の粉がふわりと舞い上がって空へと消えて行く……その先の空には私達を見下ろす大きな満月が輝いていた。






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