本日は性転ナリ。

漆湯講義

20.女子故に

 ……バスがストップしてから三十分以上経とうとしている。先生達は外で集まって、深刻な顔で話をし続けていた。

 そしてそんな中、私は窮地に立たされていた。そう、それは女子故の窮地だ。

「ねぇ、莉結……、すごいトイレ行きたいんだけど」

「えっ、我慢出来ない?」

「できる訳ないよっ、ずっと我慢してるんだもん! 降りてどっかで……」

 私がそう言うと、莉結は顔色を変えて私の腕を掴んでこう言った。

「ダメっ! 絶対っダメ! そんなの女の子として死んだも同然っ!」

 死んだも同然って……。私からすればそんな事よりもこの場で粗相してしまう方が死んだも同然だと思う。恐らく一度開かれたバルブは閉まる事なく放水作業を終えてしまうと思うから……。

「えぇっ……、たぶん結構限界なんだけど」

    やはり男女での尿意の感覚が微妙に違うからか、どの程度まで我慢できるのかがよく分からないのだ。あの日、初めてこの身体でトイレに行った時だって色んな感覚の違いに驚かされたくらいなんだから。
 ……あぁ、男だったら何も考えずにバスを降りて森林の香りに包まれながら開放感に浸れるのに。女って不便。

    そんな私の気持ちを他所に男子どもは次々と"小便いってきまーす"なんてデリカシーの無い事を言ってバスを降りていく。

「くそっ……、ホースを虫に刺されろっ」

「えっ、何? 衣瑠なんか言った?」

「別に……、何でもないよ」

 ……次第に頭の中が"放水願望"で埋め尽くされていく。そして噛んでいた下唇に感覚が無くなってきた頃だった。突然ギアの入る音がしたかと思うと、バスがゆっくりと動き出したのだ。
    私が安堵に顔を上げると、大きなブザー音と共に逆向きに流れていく景色が目に映った。

「えっ、ちょっと……、なんで……なんでバックすんのっ!」

    私はもう諦めるしかないと悟った。そして震える手で鞄から取り出したのはペットボトル。暴発事故を起こしてしまうくらいなら、と私はスカートの影でゆっくりとキャップを緩めた。……その時。

「それじゃぁトイレに行きたい人は行ってこいよー」

    天使の囁きが聞こえたのだ。随分と野太い天使の声だったけど、そんな事は関係ない。暗雲立ち込める空に差し込む一筋の光とはこういうことなのだと理解した。

 そしてふと窓の外を見ると、こんな山奥だというのに公衆トイレがあるではないか。見るからに使われていない木組みの小さなトイレ。その三角屋根にはこれでもかというほどの落ち葉が積もっている。決して綺麗な外観じゃ無いけど、そんなのどうでもいい……、どうでもいいんだ!

「ありがとう」

 ふとそんな言葉が漏れた。誰に向けた言葉でもない、だけど不意にそう口にしたくなってしまったのだ。

「衣瑠……?」

「行ってきます」

    ……こうして私は窮地の脱出に成功した。
 ……もうトイレの無い所には行かないと思う。きっとそれが神様のお示しなのだから。

「たっだいまぁっ!」

「おかえりっ、良かったね」

「いやぁ、一時はどうなっちゃうのかと思ったよ。今は何だかすっごい清々しい気分っ!」

 私は用を終えた瞬間から高揚感に満たされ、なんだかもう林間学校とかどうでもいいや、なんて思っていた。しかしその高揚感も莉結の淡白な反応によって急速に冷めていく。
 そして想定外の事態に騒めいていた車内が落ち着きを取り戻し始めた頃、先生の説明の後バスは再び動き出し、予定よりも一時間以上の遅れをとりながらも私達の宿泊先である"わかな野外活動センター"へと到着したのだった。

「うわぁっ……、空気が綺麗な気がするーっ」

「気がする……って綺麗だと思うけど」

 大自然の中に佇む平屋方形屋根の建物は周りとうまく調和した造りになっていて、建物のすぐ裏は雑木林。さらさらと川のせせらぎのような枝葉の擦れる音に時折鳥の囀りが重なる。そんな環境のせいか、今朝から妙に清々しい気分ではあったけど、この自然が更に清々しさを増してくれている気がする。

    そして私達は、早速"本館"に移動すると、施設の職員の人達による開校式が執り行われた。ここに来る小学生から高校生まで、同じ原稿を使っているのか、"沢の水を飲まない"とか"草とか花を持ち帰らない"とかいう、ちょっと馬鹿にされている気分すらなる内容の話をされた。
 それからセンター長の話を聞いて、建物の配置や利用方法など説明を受けると、何故か校歌を斉唱し、開校式は終わった。
 そして、その後は、昼食のために食堂へと移動する事になり、開放感のある渡り廊下を列を組んで移動して行くと、風に乗ったお昼ご飯の良い匂いが私のお腹を刺激する。
 辿り着いた食堂は、木の質感がそのままに出された、ログハウスのみたいな天井の高い造りになっていって、"林間学校"という名に相応しい建物だった。
 配膳は、中学の頃を思い出す様な給食スタイルで、各自で列になって一品ずつよそってもらうようだった。
 席は自由。もちろん私は莉結との相席だ。
 そして、席に座ろうとした時、何処からか聞き覚えのある声が響いた。

「ねぇっ、私も一緒にいい?」

    その声に振り向くと、満面の笑みで私を見つめる麗美の姿があった。

「あっ、麗美ちゃん。来てたんだ」

「来てたんだ、って酷いなっ」

「いや、朝、麗美ちゃんの姿見えなかったからさっ」

    私がそう言うと、麗美は少し恥ずかしそうに自分の髪を触りながら「いやぁ……、な寝坊しちゃってさ」と答えた。

「えっ? じゃぁバスどうしたのっ?」

    莉結がそう尋ねると麗美はピースサインを頬の横に作って答える。

「いざというときのママですよっ!」

 私と莉結が苦笑いを浮かべていると、突然、麗美が何か思い出したように口を開く。

「そういえばさぁっ、見たっ?」

    麗美は興奮気味にそう言った。主語が無くても、言いたい事は大体分かる。

「車の事故のやつでしょ?    あのせいでバスが動かなくて"色々と"大変だったよ」

 私はてっきりそれだけの事だと思っていた。しかし、麗美の口から出た言葉は、私の予想を越えたものだった。

「そうそうっ、まぁ強盗犯が逃げちゃったんじゃぁしょうがないよねっ。あっ、とりあえず私ご飯取ってくるねぇ」

    さらっとそう言って席を立とうとした麗美の腕を咄嗟に掴んだ私は、「それ、どう言う事っ?」と聞き返した。

「えっ? ママが警察の人に聞いたらこっそり教えてくれたんだよねぇ。強盗犯が逃げてる最中に事故して、まだ捕まってないんだって。まぁ、たくさん警察居たし大丈夫じゃない?」

    確かに、この限られた範囲で逃げたって捕まるのも時間の問題かな……、そう思いつつも、少しの不安を胸に残して私達は昼食を準備をして席に戻った。

「いただきまーす」

 そこで、横に座った麗美が一度手に取った箸を置いたかと思うと、私の耳元でこう囁いた。

「そういえばさぁ、そろそろ……聞いても良いかな?」

    麗美はそう言うと、少し恥ずかしそうに下を向いた。
 そろそろって事は少し前から何かの答えを待ってたって事になるけど、何だろう。

「聞くって何を?」

    すると、麗美は更に小さな声で「あの返事……」と言って箸を取る。

    あの返事……。多分、いや、間違いなくあの日の告白の返事だと思った。そういえば、"今回は"はっきりとした返事をしていなかったっけ。

「付き合って欲しいっていう、返事……だよね?」

    私は分かっていながらもそう尋ねた。麗美にはちょっと意地悪な質問だったかも知れない。

「うん……。ごめんね」

    何故か謝った麗美は、きっと返ってくる答えを分かっているんだと思った。それでもはっきりさせておきたい、そういう事なんだと。

「あれからね、よく考えたんだけど、お互いまだ出会ったばっかりだし、麗美ちゃんはすごく良い子だと思うけど……」

 そう言っている途中で、何だか自分が凄く体裁の良い事ばかりを並べている事に気付いた。きっとそれは、麗美の求めている答えとは程遠くて、麗美の心に大きなモヤモヤを残したまま無理矢理に解決させてしまう言葉なんだって。

「いや……、ごめん、嘘。本当は恋愛として好きかどうかもはっきりしない人とは付き合えない。というか正直、付き合うとかよく分かんないし、付き合う事になってから関係が変わるような相手なんて私は他人のままでいいと思ってる」

 そう言い終わってから、私は慌てて麗美の顔を見た。本当の事を言っちゃったけど、それもそれで自分のエゴなんじゃないかって思ったからだ。やっぱり多少の嘘、思い遣りで体裁の良い言葉にした方が良かったのかな……。
    すると、麗美が急に笑い出し、目尻から小さな雫を頬に伝わらせた。

 「いやっ、ごめん。別に悲しい訳じゃ無いんだっ」

    涙を拭ってそう言う麗美を見つめていると、麗美は突然私の手を握ってこう言った。

「衣瑠ちゃんはそう言ってくれるんじゃないかって思ってた」

    私はその意味が分からずに、呆然と麗美を見つめた。すると、莉結が"ふふっ"と微笑んで、「衣瑠っぽいって事だよねっ」と麗美に言った。

「うん、変に気を遣われるよりずっとスッキリする答えだもんっ。ベストアンサー……かな。二番目だけどね」

 私はそれでもピンとこなかったけど、「そ、そう? なら良かった」と胸を撫で下ろした。

 それからは、その話題が出る事も無く、林間学校のプログラムについての話や、食べ物の好き嫌いなどの話で盛り上がった。莉結以外とそう言う話をするのは新鮮で、ここでもやっぱり"友達も悪くないかな"なんて思いが浮かび上がったのだった。


「えー、次は体験学習なので、食べ終わった者から本館横の工作室に移動するように」

 食事が終わって話をしていると、先生の声が食堂に響いた。その声で私達の話は一旦お預けとなり、「片付けて移動しちゃおっか」という莉結の一言で私達は席を立った。

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