本日は性転ナリ。

漆湯講義

6.現実と夢と

 店を出た莉結達の背中を追っていく。当たり前なのだけど、後ろから見る二人はどこにでもいる普通の女子高生だった。
 それを見た俺の脳裏にふっと小さな疑問が浮かんだ。

 "二人の後ろを歩く俺は、一体他人からはどう映っているんだろう……"

「イルっ、早くっ」

 振り返った莉結が俺を呼ぶ。……普通の女友達を呼ぶみたいに。
 頭に湧いた変な感情が離れない。その感情はジワジワと大きさを増していく。

 "本当にこの二人と一緒に歩いていていいのだろうか、見た目と中身の違う異質な存在である俺が……"

 そんな感情が俺の視界をぼかし始めた時、再び前方から俺に向かって声が響いた。

「イルちゃんも後ろなんて歩いてないで横来なよっ」

 麗美の屈託の無い笑みが眩しい。それはきっと今の俺にはつくれない笑顔。"ホンモノ"の笑顔。
 すると突然、俺の腕が握られて前へとグッと引き寄せられた。
 驚いて顔を上げると、そこには麗美の微笑んだ顔が俺へと向けられていた。

「ちょっとカフェでも寄って休憩するっ?」

 俺がキョトンと麗美を見つめていると、麗美は視線を逸らして何か呟いた。

「なんでもない、なんでもないからっ」

 麗美は先程の呟きをかき消すように早口にそう言うと、莉結を挟んだ反対側へと足を進めた。

 "なんだよ、変なの"

 不意に笑みが溢れる。ふと気付けば今の一瞬で先程までの濁った感情が少し薄まって、それが伝わったみたいに莉結が俺を見て口元を緩ませていた。

「さぁ、イルもなんか飲みたいでしょっ?」

 人見知りの子供みたいだった麗美に微笑ましさを覚えつつ、その莉結の言葉に頷こうとしたその時。ズボンのポケットの中で俺の携帯が震えた。
    小刻みで規則的なその振動は、それが着信である事を俺に気付かせる。
 "莉結以外の着信なんて来たこと無いのに……"
 俺は携帯を取り出すと画面を凝視した。するとそこには担当医である"先生"の文字。
 こちらを見つめる二人に手のひらを立てて謝ると、「ごめん、病院から電話」と言い残して俺は足早にその場から少し離れた。
 そして期待と不安の入り混じる感情を深呼吸で抑え、画面の応答ボタンに指を当てる。

「もしもし……」

 電話の向こう側から小さな吐息が聞こえた。

「瑠衣くん、大切な話があるんだけど今、大丈夫かな?」

 その神妙な口調に自然と背筋が伸びる。
 俺はあくまでも冷静を装って、ゆっくりと尋ねる。

「元に戻れる方法が見つかったんですか?」

    しかし先生の口から出た言葉は、期待外れで的外れなもっと現実的な事だった。

「すまないね、その連絡では無いんだ。"学校の事"だよ。せめて学校だけは通いたいだろうと思ってね」

 重い現実が俺にのし掛かる。敢えて考えなかった"学校の事"。それは遠回しに元通りの日常がすぐに手に入らない事を示唆していた。

「学校って……、そんなの行ける訳……」

「ないよね?    だけど行かなきゃしょうがない。君が勉学に励むチャンスまで奪う訳にはいかないからね。だからこちらから学校に直接交渉して、"転校生"という事で特別に今の学校へそのまま通えるように話を通しておいたよ。勿論、辻褄が合うように瑠衣くんも知らされていなかった血の繋がった"実の妹"としてね。君の事は極秘事項として学校側にも秘匿してある。だから安心しなさい。それと瑠衣くんの新しい個人情報についてだが……」

 俺は思わず言葉を失った。確かに勉強は大切かも知れないけど、学校に通うなんて事を俺の意思に関係無く話を進めていたなんて信じられなかった。確かに学校に通うのは大切なのは分かっている。それが俺たち子供の本分だって事も。だけどこんな状況で突然そんな事……。俺の気持ちなんて関係無いって事か。

「どうしてそんな勝手な事するんです……? まさかこんな身体でまたいつも通り学校に通えって? 俺には無理です。それにもし何かがあってバレたりしたらどうしてくれるんですか。俺の人生台無しじゃないですか……」

「確かに瑠衣くんの言う通りだ。でも安心して欲しい。瑠衣くんは"突然元の身体に戻ったら"という事を気にしているんだろうが、その心配も無い。それに万全は尽くしてある。瑠衣くんが世界規模の重犯罪でも起こさない限り、たとえ警察でも君の情報を疑わないだろう。それに私の知りうる情報では、難病を患う若年者、瑠衣くんと同年代の子どものうち、介助の有無に関わらず、学校へ通えるのに通わなかった子と通った子とでは、後者の方がその病気に対しての免疫が確実に上がっているんだ。これは統計上確かな事だよ。まぁ、"学校へ行きたいと思っている子の場合"だけどね」

 先生は顔色一つ変える事なく、俺に冷徹な"大人の意見"を押し付けた。

「俺は別に……」

    正直、学校なんて勉強をしに行くところとしか思っていない。好きも嫌いも関係無い。"行かなければならない所"なのだ。同じ歳の子供と同じ教室で誰もが習う同じ知識を学び、教室・学校という小さな社会で、将来大きな社会に出た時の予行練習をする為の場所……だろ。
    まぁその間、青春だの友情だの恋だの……、そういうイベントがあるんだろうけど。俺には、そういう事がよく分からない。……特に"恋愛"だ。
 あれは中学へ上がる前くらいだったか。周りではそういう類の話が増え始め、自ずとその未知の感情が気になりだした俺は、恋愛小説やドラマ、映画や漫画などでその感情を理解しようとした。でもやっぱりそんなものを見たところで自分の中には何も残らなくて、結局、恋愛感情というものがどんなものなのかは分からなかった。
 特定の一人に対する、特別で他者との差別的な感情。
 そうは言っても俺もまだその時は小学生。"そのうちするさ"なんて軽く考えていたけど、結局、高校生になった今でも俺はその感情をまだ知らない。だから俺は途中から"きっとそれが俺の病気なんだろうな"そう思って生きてきた。いや……、そう思う事で自分の病気への不安から逃げていたのかも知れない。

「瑠衣くん?    もしもし?    聞いているかい?」

 俺の耳に先生の声、そして周囲の音がすぅっと飛び込んできた。

「あ、すいません。えっと……、なんでしたっけ?」

「だから君にも学校へ通って欲しいんだよ。さっきも言ったように制服はもう届いている筈だ。君はまた同じ学校、そして同じクラスで今まで通りに勉学に励めるから、兎に角今は頑張るんだよ。私が必ず元に戻す方法を見つけるから」

「もういいです……。分かりましたから」

    それから先生は何か言っているようだったが、その声は次第に小さくなっていき、気が付くと携帯からは"ツー……ツー……"という電子音だけが鳴り響いていた。
 ぼうっと携帯のホーム画面を見つめる。"退屈だ"と眺めていたあの頃と同じ画面のはずなのに、それが他人のもののように思えてしまうのはなんでだろう。"何も考えず退屈を感じられた毎日が幸せな事だったのだ"という言葉が俺の頭にはっきりと浮かびあがる前に、俺は携帯の画面を黒へと変えた。
 気を取り直して莉結の元へと戻ると、俺が口を開く前に莉結が不安そうな表情で見つめながらこう言った。
 
「先生、何だって?」

「なんかさ、もう意味分かんないっていうか……。明日から、学校……通えってさ。今まで通り一緒のクラスで。今まで通りになんか行く訳ないのに……。笑っちゃうよな本当」

「え……、何それ。大丈夫なのかな」

「分かんないけど……、だけどさ、本心では先生が言ってた事は正しい気がしてる。ぶっちゃけすぐ元の俺に戻れるかなんて分かんないし、学生である俺が今すべきなのは、元に戻った時になるべく周りとの差が無いようにしておく事なんだよな。俺の気持ちなんてこれっぽっちも考えてないけど、俺の将来の事は考えてんだよ、きっと。だからさ……、俺、学校行こうと思う。なんか先生の思い通りになる気がして嫌だけど……。だからさ、俺が頼れるの莉結だけだからさ、その……、色々よろしくお願いします」

    俺がそう言うと、莉結は俺の前に向かい合うようにして、ピンと立てた人差し指を俺に向けてこう言った。

「当たり前じゃん。瑠衣は昔から私が居なきゃダメなんだからっ! なんて。そうだなぁ……、まずはその喋り方をなんとかしなきゃね」

「喋り方? 俺の?」

「そもそも女の子は"俺"なんて言わないし、なんかこう、もっとふんわりしてるでしょ?」

    "ふんわり"の意味はよく分からない。だけど確かに喋り方は大切だと思う。だって今の俺はあくまでも女なんだから。
 だけど自分の事って"私"でいいのか?    いや、そもそも女子って自分の事をどう呼んでたんだっけ……。
 すると雑貨屋に置かれたモニターから見慣れないキャラクターが自己紹介を始めるのが聞こえた。俺は態とらしくそれを真似して口を開く。

「私、如月衣瑠っていいます! よろしくねっ! ……こんな感じ?」

「うんっ、すっごくいい感じっ!」

    何だこの恥ずかしい感覚は……。というか言っている自分が気持ち悪い。たかだか何文字か変えただけなのに……。
 そこで俺は、ふとある事に気付く。

「そういえばアイツは?」

「瑠衣が電話出てすぐに帰ったよ。なんか瑠衣が深刻そうにしてたから気を遣ってくれたみたい」

    麗美は案外いいヤツなのかも知れない。
"人を見た目で決めるな"だなんて、そう見られる側の人間の言い訳でしか無いと思っていたけど、初めてその言葉の意味を理解できた気がした。
 俺たちがショッピングモールを出る頃にはすっかり陽も傾き、頬には冷たい風が流れていた。
 そして帰りのバスの中、莉結の提案で"女子力指導"なる講義が行われ、自称修正の徹底や、女の子らしい仕草など、莉結先生は一生懸命にその熱い指導を俺へと繰り広げた。
 俺の家に到着すると、無言で玄関のドアを開け、二人、オレンジ色に染まった階段を昇った。俺は自分の部屋の扉を開けると、部屋の奥に置かれたベットの上へと倒れ込むようにして横になる。

「あぁ……、本当に疲れた。このまま寝たい」

 枕に顔を埋めたまま小さく呟く。

「少し寝れば?    疲れたでしょ」

「あ……、もう無理、目が開かない。また二時間後くらいに……起こ……」

「はいはいっ」

    莉結の声を聞きながらも、俺は瞬く間に意識が遠のいていった。
 すると柔らかな感触で暗闇の底に眠っていた意識がふわりと浮かび上がる。
 そして目を薄く開いた俺の目の前に映ったのは、今にも触れてしまいそうな程の距離に見えた莉結の顔。
 "これは……夢? "
 そう思いつつも身体は重く、瞼すら完全に開く事が出来ない。でも俺の意識だけはだんだんとハッキリしたものになっていき、そこで気づく。
 この柔らかな感触は……。
    そしてその時、微かな吐息のような、小さな小さな囁きが耳に届いた。

「衣瑠……だったらいいよね……」と。


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