その数分で僕は生きれます~大切な物を代償に何でも手に入る異世界で虐めに勝つ~
トラウマ
 黒田将太 十四歳 中学二年生 男
 黒田さち 十二歳 小学六年生 女
 母は仕事と家事を一人でこなす。母以外、家には働き手が居ない為である。いや、詳しく言えばいるのだが、それを、父に言ったところで暴力を振るわれて終わりだろう。
 父は常に家にいる。酒は飲むだけのみ、食べ物は食うだけ食う、それなのに、家事や仕事は一切しない。ましてや酒が回れば子供に暴力をする始末だ。本当にどうしようもない父親なのだ。
 なのに母は、そんな父を愛している。どうしようもない欠点だらけの父を愛していた。元々そう言う人種がタイプだったのだろう。
 母の給料は、酒と光熱費に消えていく。母や僕達が娯楽にうつつを抜かす暇なんてないのだ。
いや、それだけならまだ良かった。だが、今は義務教育として教科書代等は全額支給されるからいいが、これから高校に行くことになれば、教科書代等々払う金額は、前とは比べ物にならない。そんな金、母一人の給料ではどうする事も出来なかった。
 故に僕は中卒で働く事は決まっていた。この次世代、中卒を取るような職場は早々見当たらない。
 僕は十四歳にして動物園の檻に閉じ込められた小動物である。
 自分のしたい事など到底出来るはずもなく、小さな檻の中で出来る事を、与えられた物を、こなすだけのただのペットである。ただの見世物である。
 さちだけにはそんな人生を送らせない。僕が何としてでもさちを大学まで行かせる──そう決めていた。
 
 「さち、酒を持ってこい」
 白いたるんだランニング・シャツに毛糸のところどころほつれた腹巻をした四十男。詰まるところの僕達の父親が、テレビをツマミに酒をさちに要求した。
 父の持っている硝子のジョッキには酒はすっかり無くなっており、その横に無残にも倒された酒瓶にも雀の涙ほども残っては居なかった。
 「さち、大丈夫だよ。僕が行く」
 「でも、それじゃあお兄ちゃんが……」
 「だから尚更だよ。そんなのさちにさせられ無いよ。僕は男だし、もう中学生だから。ちょっとはお兄ちゃんを信じて?」
 そう言って、さちを安心させる為にほのかに笑いを含んだ目尻に糸くずほどの皺を刻む。
 
 「さっさとしろよ!」
 「分かりました! 今行きます! さぁ、さちは宿題でもしてて」
 「分かった……でも、あまり無茶はしないでね……」
 さちは少し心配そうな顔を残して、自分たちの部屋がある二階に向かって行った。
 僕はそれを確認してから、黒ずみが目立つ水色の冷蔵庫から酒瓶を二つ取り出した。
 「どうぞ」
 そう言って、酒瓶を横に傾けると、コッコッコッと心地いい音とともに透き通った緑がかった薄黄色の液体をジョッキに注いぐ。
 本当なら全て、間抜け面の父の顔に一滴残らず掛けてやりたかったが、自分の僅かに残った良心がそれを止めた。
 「おい、さちはどうした!」
 父は少し酔いが回ったのだろう。皺だらけの父の頬は少し赤みがかっていた。こうなったら暴力を振るい出すのも時間の問題だ。
 ご要望とは違う人物が目の前にいて少々不愉快だったのだろう。父の声は少し荒々しく何処か挑発的だった────だからといって、こんなのさちにさせられる訳がない。
 「さちは今は宿題中だから僕が代わりに」
 「俺より勉強何かが大切かよっ!」
 父がそう言って出してきた右足を避けようとする事も無く、体で受け止める。
 鳩尾に上手く入ったが、横になった体勢で無理矢理打ったことや、酔っていたこともあり、さほど痛くは無かった。
 「お父さん、さちはお父さんの為に勉強しているんだ。ちょっとは大目に見てやってよ」
 「ふんっ!どうだかな」
 それから父が寝るまでずっと酌をし続ける。
 父が寝たのは十一時過ぎ。僕はそこから茶色く所々ほつれのあるモーフを父に掛けて二階に上がり、自室に篭った。
 本棚と、ベッド、勉強机等、全てが白で統一された清潔感のある部屋。僕は勉強机に腰をかけて、宿題、予習、復習等する。日課と言うのもあったが中卒から働くのだから、人一倍一般常識は身に付けておく必要があった。その成果もあり、学校では常にトップを維持している。今日は寝るのは大体三時くらいとなるだろう。
 僕が勉強を初めて五分も満たない頃、トントンと木をトンカチで叩いたような透き通った音と共に、妹のさちが顔を覗かせた。
 「お兄ちゃん、ありがとう! お陰で宿題終わったよ!」
 「そっか。それは良かった」
 「お兄ちゃん、それとごめんね」
 さちはすーと通った綺麗な眉を垂らし、心配そうな、申し訳なさそうな顔をした。
 「気にする事じゃないよ! 安心して! お兄ちゃんは慣れっ子だし、さちが傷付くのを見る方がお兄ちゃん辛いから」
 「うん……」
 「さちはもう遅いから寝な」
 「うん……お兄ちゃん無理しないでね?」
 「うん、分かったよ。無理はしない。さちも無理はしちゃ駄目だよ?」
 「うん! お兄ちゃんおやすみ!」
 「うん、おやすみ」
 さちはそう言って、奥の自室に戻って行った。
 ちゃんとこの時、約束すれば良かった。
 もっとちゃんと、言うならば約束と言うより契約を。約束と言うより儀式を────しておくべきだったんだ。そんな事を今更後悔した所で、過去は一切変わらないのだが、自分の愚かさを、醜さを、卑劣さを、少しでも抑える為には、そう言った妄想は、安らぎに近いものを与えてくれていた。
 
________________
 時は夏、蝉の甲高い鳴き声が何処へ行こうとまるで影のように付きまとう。
 傾斜のある坂道をまるで人を抱えているかのような重たい足取りで、一歩一歩、噛み締めるように歩く。
 こうして着いたのは、お墓が数百は下らないだろう大きな墓地。綺麗に塗装された石畳は規則的に並び、僕はその間を縫うように、奥へ奥へと進んでいく。
 それから五分程歩くと、もう辺りにはお墓は見受けられなくなり、あるのは小さな滝とそれを受け止めてい池と、悠々と僕達を見下ろす木々のみ。
 そんな場所の中央には、一本の木で出来た、お世辞でもよく出来たとは言えない質素でボロボロのお墓があった。
 お墓と言っても雨で腐った木に文字が綴られただけの、人っ子一人で出来そうな物であった。
その木の板には濁った字で『黒田さち』と書いてある。
 「さち、元気ですか? 僕は元気です。約束を守ってるよ。僕はさちに貰った数々の物を大切にして、生きていくよ……」
 初めは僕の目からゆっくりと頬を伝って水滴が落ちていたが、その水滴は容量を超えたようで、目から直接地面に落ちるようになっていた。
 黒田さちは死んだ。最後の最後まで勇敢な妹だった。きっと、僕はさちに数多くの物を貰った。たった十二歳の妹から──出来ればそんな物を要らなかった。子供なら子供らしく頼ってほしかった。
 馬鹿な兄だ。さちの為に僕がしてやれたことなど、たかが知れているのに。
 僕は一時間近くずっと、ずっと、その場で地面を濡らしていた。
________________
 梅雨入り前、まだ少し肌寒く、半袖と長袖を交互に着こなす様な不安定な時期。
 『行ってきます!』
 僕もさちは声を合わせて玄関を出た。さちと僕は一緒に登校している。
 家を出てから、右では車道では忙しなく車が通り、左は所狭しと白く塗装された家が続く歩道を二人で歩いていた──これが日課。
 さちの小学校は、僕の通う中学の丁度右に隣接されている。
 十五分ほど歩いた所で、右側に学校が見えてくる。後は歩道橋を渡って右側に移るだけである。すると、前方の歩道橋に、さちの友達の彩香ちゃんと美夢ちゃんがいた。
 さちは眉を垂らし上目遣いで懇願する様な顔をした。
 「さち、行ってきな」
 「……ありがとう!」
 少し沈黙が気になったがその時の僕は気に止めていなかった──この時に気付いても良かったのかもしれない。
 何度も言うがこれはもうどうしようも無い事だ。ただ、妄想していないとやってられないのだ。
そんな日常が何の代わり映えも無く続く。だが、この時、さちは虐められていた。
 それに気付いたのは、弁当が逆になっている事に気付き、小学校に足を赴けた時だった。
 職員室に許可を貰い、さちのいる六年生の教室に向ったものの、さちの姿が居なかった。
 同級生に聞いてみても『わからない』の一点張り、仕方なく学校中を探し回りやっとの事で見つけた場所は、プールの更衣室である。別に覗きに来た訳では無い。元々、来るつもりはなかったが、探している最中に大きな罵声と何かにぶつかる大きな音がしたからだ。
 ドアに耳を当てて聞いてみると、中に居るのは、さちと、彩香ちゃんと、美夢ちゃん、その他二名いる事が分かった。
 ──何してるのかな……。
 当時の僕は小学校で虐めがあるなんて思ってもいなかった。だから先生に隠れて何か見ているのだろうと思い、弁当をさちの机にでも置いておくかと戻ろうとした時だった。
 「お前いっつもボロボロの服で気持ち悪ぃんだよ!」
 彩香ちゃんの声と共にドカンッと何かがぶつかる音。
 「正義のヒーローでも気取ってんのかよっ!鬱陶しい!」
 
 まるで別人の様な美夢ちゃんの声──それでようやく僕は悟った。これは虐めだと。遅すぎた。実に遅すぎた。
 対象はだれ? さちは加害者? でも、そんな子じゃない。だとしたらさちは被害者? いやでも、さちは人気者だ────必死で頭を回転させる。
 「ご、ごめんなさい……」
 その声を聞いた時には勝手に足が動いていた──さちの声だった。この選択肢は、後に間違った最も悪い結末に繋がるとも知らずに、その当時の僕は怒りで頭がおかしくなっていた。
 ドアを勢いよく開けと四人でさちを取り囲み、まるで虫を踏み潰すような足使いで、さちを蹴っては、踏んでいた。
 一斉に例外なく僕の方をみる。その表情は今でも忘れない。あいつらは笑っていた。二タニタ、二タニタ、二タニタ、二タニタと笑っていやがった。
 さちは喫驚と羞恥をドロドロに混ぜたような顔を僕に向ける──喉が熱かった。はち切れんばかりの怒りと、憎悪が脳をグルグル回る。
 「…………な」
 「どうしたんですか? お兄さん?」
 
 「……ざんな」
 「私達さちちゃんと遊んでるんですけど、てか、ここ女子更衣室ですよ?」
 「ふざけるな」
 気付いた時には目の前にいた彩香ちゃんを殴る寸前だった。それをさちは横から止めた。
 「だ、大丈夫だよ! お兄ちゃん! 本当に本当に遊んでただけなの……」
 さちの顔を見ればそんなの嘘だとすぐに分かった。分かったのに引き下がってしまった。
 「さち…………」
 「大丈夫だから……ね?」
 「あーしけた!しけたー!帰ろー」
 
 彩香ちゃんは皆に促すように言う。
 「本当にマジ萎えた」
 続々と言葉だけを残し、僕の脇を通って更衣室を後にする。
 「お兄ちゃん……ごめんね……ごめんね……」
 そう言ってさちは泣いた。正義感が強くて、真面目で、優しくて、そんなさちの泣き顔を生まれて以来、初めて見たかも知れない。
 「ごめん……さち……気付けなかった……」
 そう言って、さちを胸に収めて座った。その時間は長く長く感じた。
 僕はさちに早退しようと提案したが、さちは断った。虐めに負けたくない。私が虐められなければ他の誰かがまたターゲットになる。そんな詭弁を理由に。
 「お兄ちゃん……私行くね?」
 「…………あぁ」
 さちはそう言って更衣室から出た。僕は酷い虚無感に襲われて、数分間そこから動けなくなっていた。
 そこからの事はよく覚えていない。いつの間にか僕は家に着いていた。授業を受けたのかすら危うかった。
 自室の戸を開けて、床につこうとした時、そこにはさちがいた。
 「さち……」
 「お兄ちゃん……ごめんなざい……」
 さちはまた泣いた。僕に縋るような体勢で泣いた。
 「大丈夫だよ……虐めなんかお兄ちゃんが全部蹴散らすから!」
 「うんん、大丈夫なの……お兄ちゃん……私が戦うの。だからねお兄ちゃん……安心して?」
 「何言ってるんだよ! 一人でどうこう出来るものじゃ無いよ……」
 「うん、でもね……私が耐えて耐えて耐え続けて虐めを無くせたらまるでヒーローみたいじゃない? 私はそう言う勇者のような人になりたいの……」
 
 「そんなのただのさちが耐えるための詭弁でしかないよ!」
 「うん……私は私の為にやってるの……自分が傷付くのが嫌だから……私はすっごく自分勝手なんだよ?」
 「さち…………」
 「でもね、ちゃんと困ったら相談するし大丈夫だから……ね?」
 「約束だよ?絶対に困ったら相談するんだよ?」
 「うん……」
 そう言ってさちは儚げな笑顔を見せる。尊くて、儚くて、美しい、綺麗なさちの笑顔を。
 僕はまた約束で終わってしまった。もっとちゃんとすれば良かったんだ。同じ罪を繰り返して、何度も、何度も後悔した。
 この時の僕は強かった。故に、耐える事が出来た。さちが傷付くのを見ても耐える事が出来てしまったんだ。
 
 それからというもの、あまり変わらない日常を送っていた気がしていた──だが、それは僕だけの感覚。
 さちの虐めはエスカレートしていた──理由は、必然的に、運命的に、悲惨な事に、残酷な事に、僕だった。『さちは遂に兄を出してきた。卑怯者だ』と。
 気づかなかった。気づけなかった。それもそうだろう、さちはそんな素振りすら見せなかったのだから。
 僕は懺悔する。
 自分の自信と慢心と確信を。
 僕は後悔する。
 自分の無力さと愚かさと残酷さを。
 黒田さち 十二歳 小学六年生 女
 母は仕事と家事を一人でこなす。母以外、家には働き手が居ない為である。いや、詳しく言えばいるのだが、それを、父に言ったところで暴力を振るわれて終わりだろう。
 父は常に家にいる。酒は飲むだけのみ、食べ物は食うだけ食う、それなのに、家事や仕事は一切しない。ましてや酒が回れば子供に暴力をする始末だ。本当にどうしようもない父親なのだ。
 なのに母は、そんな父を愛している。どうしようもない欠点だらけの父を愛していた。元々そう言う人種がタイプだったのだろう。
 母の給料は、酒と光熱費に消えていく。母や僕達が娯楽にうつつを抜かす暇なんてないのだ。
いや、それだけならまだ良かった。だが、今は義務教育として教科書代等は全額支給されるからいいが、これから高校に行くことになれば、教科書代等々払う金額は、前とは比べ物にならない。そんな金、母一人の給料ではどうする事も出来なかった。
 故に僕は中卒で働く事は決まっていた。この次世代、中卒を取るような職場は早々見当たらない。
 僕は十四歳にして動物園の檻に閉じ込められた小動物である。
 自分のしたい事など到底出来るはずもなく、小さな檻の中で出来る事を、与えられた物を、こなすだけのただのペットである。ただの見世物である。
 さちだけにはそんな人生を送らせない。僕が何としてでもさちを大学まで行かせる──そう決めていた。
 
 「さち、酒を持ってこい」
 白いたるんだランニング・シャツに毛糸のところどころほつれた腹巻をした四十男。詰まるところの僕達の父親が、テレビをツマミに酒をさちに要求した。
 父の持っている硝子のジョッキには酒はすっかり無くなっており、その横に無残にも倒された酒瓶にも雀の涙ほども残っては居なかった。
 「さち、大丈夫だよ。僕が行く」
 「でも、それじゃあお兄ちゃんが……」
 「だから尚更だよ。そんなのさちにさせられ無いよ。僕は男だし、もう中学生だから。ちょっとはお兄ちゃんを信じて?」
 そう言って、さちを安心させる為にほのかに笑いを含んだ目尻に糸くずほどの皺を刻む。
 
 「さっさとしろよ!」
 「分かりました! 今行きます! さぁ、さちは宿題でもしてて」
 「分かった……でも、あまり無茶はしないでね……」
 さちは少し心配そうな顔を残して、自分たちの部屋がある二階に向かって行った。
 僕はそれを確認してから、黒ずみが目立つ水色の冷蔵庫から酒瓶を二つ取り出した。
 「どうぞ」
 そう言って、酒瓶を横に傾けると、コッコッコッと心地いい音とともに透き通った緑がかった薄黄色の液体をジョッキに注いぐ。
 本当なら全て、間抜け面の父の顔に一滴残らず掛けてやりたかったが、自分の僅かに残った良心がそれを止めた。
 「おい、さちはどうした!」
 父は少し酔いが回ったのだろう。皺だらけの父の頬は少し赤みがかっていた。こうなったら暴力を振るい出すのも時間の問題だ。
 ご要望とは違う人物が目の前にいて少々不愉快だったのだろう。父の声は少し荒々しく何処か挑発的だった────だからといって、こんなのさちにさせられる訳がない。
 「さちは今は宿題中だから僕が代わりに」
 「俺より勉強何かが大切かよっ!」
 父がそう言って出してきた右足を避けようとする事も無く、体で受け止める。
 鳩尾に上手く入ったが、横になった体勢で無理矢理打ったことや、酔っていたこともあり、さほど痛くは無かった。
 「お父さん、さちはお父さんの為に勉強しているんだ。ちょっとは大目に見てやってよ」
 「ふんっ!どうだかな」
 それから父が寝るまでずっと酌をし続ける。
 父が寝たのは十一時過ぎ。僕はそこから茶色く所々ほつれのあるモーフを父に掛けて二階に上がり、自室に篭った。
 本棚と、ベッド、勉強机等、全てが白で統一された清潔感のある部屋。僕は勉強机に腰をかけて、宿題、予習、復習等する。日課と言うのもあったが中卒から働くのだから、人一倍一般常識は身に付けておく必要があった。その成果もあり、学校では常にトップを維持している。今日は寝るのは大体三時くらいとなるだろう。
 僕が勉強を初めて五分も満たない頃、トントンと木をトンカチで叩いたような透き通った音と共に、妹のさちが顔を覗かせた。
 「お兄ちゃん、ありがとう! お陰で宿題終わったよ!」
 「そっか。それは良かった」
 「お兄ちゃん、それとごめんね」
 さちはすーと通った綺麗な眉を垂らし、心配そうな、申し訳なさそうな顔をした。
 「気にする事じゃないよ! 安心して! お兄ちゃんは慣れっ子だし、さちが傷付くのを見る方がお兄ちゃん辛いから」
 「うん……」
 「さちはもう遅いから寝な」
 「うん……お兄ちゃん無理しないでね?」
 「うん、分かったよ。無理はしない。さちも無理はしちゃ駄目だよ?」
 「うん! お兄ちゃんおやすみ!」
 「うん、おやすみ」
 さちはそう言って、奥の自室に戻って行った。
 ちゃんとこの時、約束すれば良かった。
 もっとちゃんと、言うならば約束と言うより契約を。約束と言うより儀式を────しておくべきだったんだ。そんな事を今更後悔した所で、過去は一切変わらないのだが、自分の愚かさを、醜さを、卑劣さを、少しでも抑える為には、そう言った妄想は、安らぎに近いものを与えてくれていた。
 
________________
 時は夏、蝉の甲高い鳴き声が何処へ行こうとまるで影のように付きまとう。
 傾斜のある坂道をまるで人を抱えているかのような重たい足取りで、一歩一歩、噛み締めるように歩く。
 こうして着いたのは、お墓が数百は下らないだろう大きな墓地。綺麗に塗装された石畳は規則的に並び、僕はその間を縫うように、奥へ奥へと進んでいく。
 それから五分程歩くと、もう辺りにはお墓は見受けられなくなり、あるのは小さな滝とそれを受け止めてい池と、悠々と僕達を見下ろす木々のみ。
 そんな場所の中央には、一本の木で出来た、お世辞でもよく出来たとは言えない質素でボロボロのお墓があった。
 お墓と言っても雨で腐った木に文字が綴られただけの、人っ子一人で出来そうな物であった。
その木の板には濁った字で『黒田さち』と書いてある。
 「さち、元気ですか? 僕は元気です。約束を守ってるよ。僕はさちに貰った数々の物を大切にして、生きていくよ……」
 初めは僕の目からゆっくりと頬を伝って水滴が落ちていたが、その水滴は容量を超えたようで、目から直接地面に落ちるようになっていた。
 黒田さちは死んだ。最後の最後まで勇敢な妹だった。きっと、僕はさちに数多くの物を貰った。たった十二歳の妹から──出来ればそんな物を要らなかった。子供なら子供らしく頼ってほしかった。
 馬鹿な兄だ。さちの為に僕がしてやれたことなど、たかが知れているのに。
 僕は一時間近くずっと、ずっと、その場で地面を濡らしていた。
________________
 梅雨入り前、まだ少し肌寒く、半袖と長袖を交互に着こなす様な不安定な時期。
 『行ってきます!』
 僕もさちは声を合わせて玄関を出た。さちと僕は一緒に登校している。
 家を出てから、右では車道では忙しなく車が通り、左は所狭しと白く塗装された家が続く歩道を二人で歩いていた──これが日課。
 さちの小学校は、僕の通う中学の丁度右に隣接されている。
 十五分ほど歩いた所で、右側に学校が見えてくる。後は歩道橋を渡って右側に移るだけである。すると、前方の歩道橋に、さちの友達の彩香ちゃんと美夢ちゃんがいた。
 さちは眉を垂らし上目遣いで懇願する様な顔をした。
 「さち、行ってきな」
 「……ありがとう!」
 少し沈黙が気になったがその時の僕は気に止めていなかった──この時に気付いても良かったのかもしれない。
 何度も言うがこれはもうどうしようも無い事だ。ただ、妄想していないとやってられないのだ。
そんな日常が何の代わり映えも無く続く。だが、この時、さちは虐められていた。
 それに気付いたのは、弁当が逆になっている事に気付き、小学校に足を赴けた時だった。
 職員室に許可を貰い、さちのいる六年生の教室に向ったものの、さちの姿が居なかった。
 同級生に聞いてみても『わからない』の一点張り、仕方なく学校中を探し回りやっとの事で見つけた場所は、プールの更衣室である。別に覗きに来た訳では無い。元々、来るつもりはなかったが、探している最中に大きな罵声と何かにぶつかる大きな音がしたからだ。
 ドアに耳を当てて聞いてみると、中に居るのは、さちと、彩香ちゃんと、美夢ちゃん、その他二名いる事が分かった。
 ──何してるのかな……。
 当時の僕は小学校で虐めがあるなんて思ってもいなかった。だから先生に隠れて何か見ているのだろうと思い、弁当をさちの机にでも置いておくかと戻ろうとした時だった。
 「お前いっつもボロボロの服で気持ち悪ぃんだよ!」
 彩香ちゃんの声と共にドカンッと何かがぶつかる音。
 「正義のヒーローでも気取ってんのかよっ!鬱陶しい!」
 
 まるで別人の様な美夢ちゃんの声──それでようやく僕は悟った。これは虐めだと。遅すぎた。実に遅すぎた。
 対象はだれ? さちは加害者? でも、そんな子じゃない。だとしたらさちは被害者? いやでも、さちは人気者だ────必死で頭を回転させる。
 「ご、ごめんなさい……」
 その声を聞いた時には勝手に足が動いていた──さちの声だった。この選択肢は、後に間違った最も悪い結末に繋がるとも知らずに、その当時の僕は怒りで頭がおかしくなっていた。
 ドアを勢いよく開けと四人でさちを取り囲み、まるで虫を踏み潰すような足使いで、さちを蹴っては、踏んでいた。
 一斉に例外なく僕の方をみる。その表情は今でも忘れない。あいつらは笑っていた。二タニタ、二タニタ、二タニタ、二タニタと笑っていやがった。
 さちは喫驚と羞恥をドロドロに混ぜたような顔を僕に向ける──喉が熱かった。はち切れんばかりの怒りと、憎悪が脳をグルグル回る。
 「…………な」
 「どうしたんですか? お兄さん?」
 
 「……ざんな」
 「私達さちちゃんと遊んでるんですけど、てか、ここ女子更衣室ですよ?」
 「ふざけるな」
 気付いた時には目の前にいた彩香ちゃんを殴る寸前だった。それをさちは横から止めた。
 「だ、大丈夫だよ! お兄ちゃん! 本当に本当に遊んでただけなの……」
 さちの顔を見ればそんなの嘘だとすぐに分かった。分かったのに引き下がってしまった。
 「さち…………」
 「大丈夫だから……ね?」
 「あーしけた!しけたー!帰ろー」
 
 彩香ちゃんは皆に促すように言う。
 「本当にマジ萎えた」
 続々と言葉だけを残し、僕の脇を通って更衣室を後にする。
 「お兄ちゃん……ごめんね……ごめんね……」
 そう言ってさちは泣いた。正義感が強くて、真面目で、優しくて、そんなさちの泣き顔を生まれて以来、初めて見たかも知れない。
 「ごめん……さち……気付けなかった……」
 そう言って、さちを胸に収めて座った。その時間は長く長く感じた。
 僕はさちに早退しようと提案したが、さちは断った。虐めに負けたくない。私が虐められなければ他の誰かがまたターゲットになる。そんな詭弁を理由に。
 「お兄ちゃん……私行くね?」
 「…………あぁ」
 さちはそう言って更衣室から出た。僕は酷い虚無感に襲われて、数分間そこから動けなくなっていた。
 そこからの事はよく覚えていない。いつの間にか僕は家に着いていた。授業を受けたのかすら危うかった。
 自室の戸を開けて、床につこうとした時、そこにはさちがいた。
 「さち……」
 「お兄ちゃん……ごめんなざい……」
 さちはまた泣いた。僕に縋るような体勢で泣いた。
 「大丈夫だよ……虐めなんかお兄ちゃんが全部蹴散らすから!」
 「うんん、大丈夫なの……お兄ちゃん……私が戦うの。だからねお兄ちゃん……安心して?」
 「何言ってるんだよ! 一人でどうこう出来るものじゃ無いよ……」
 「うん、でもね……私が耐えて耐えて耐え続けて虐めを無くせたらまるでヒーローみたいじゃない? 私はそう言う勇者のような人になりたいの……」
 
 「そんなのただのさちが耐えるための詭弁でしかないよ!」
 「うん……私は私の為にやってるの……自分が傷付くのが嫌だから……私はすっごく自分勝手なんだよ?」
 「さち…………」
 「でもね、ちゃんと困ったら相談するし大丈夫だから……ね?」
 「約束だよ?絶対に困ったら相談するんだよ?」
 「うん……」
 そう言ってさちは儚げな笑顔を見せる。尊くて、儚くて、美しい、綺麗なさちの笑顔を。
 僕はまた約束で終わってしまった。もっとちゃんとすれば良かったんだ。同じ罪を繰り返して、何度も、何度も後悔した。
 この時の僕は強かった。故に、耐える事が出来た。さちが傷付くのを見ても耐える事が出来てしまったんだ。
 
 それからというもの、あまり変わらない日常を送っていた気がしていた──だが、それは僕だけの感覚。
 さちの虐めはエスカレートしていた──理由は、必然的に、運命的に、悲惨な事に、残酷な事に、僕だった。『さちは遂に兄を出してきた。卑怯者だ』と。
 気づかなかった。気づけなかった。それもそうだろう、さちはそんな素振りすら見せなかったのだから。
 僕は懺悔する。
 自分の自信と慢心と確信を。
 僕は後悔する。
 自分の無力さと愚かさと残酷さを。
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