天の仙人様

海沼偲

第205話

 次の日のことであった。俺が起き上がっていつものように食堂の方へと向かうと、その途中にある部屋にふと注意が向けられた。そこには、昨日倒れていたところを助けた女性が眠っているわけなのだが、今はまだ、寝ている頃合いだろうか。あり得なくはない。だが、少しだけ覗いて起きているかどうかを確かめるぐらいならばいいだろう。寝ていることが確認できていれば、すぐに閉めてあげればいい。なにせ、昨日は恐ろしいぐらいに衰弱していたのだから。今日は何が起きているかわからないだろう。それを回避するためなのである。
 ドアをノックするが、反応はない。これは起きていない可能性が高いだろう。少なくとも、意識が覚醒しているわけではなさそうだ。だがしかし、一応の確認として中を覗いてみる。地面に倒れている可能性だってないわけではないだろうから。そうなっていたら、すぐにでも対処しなければならないのだから。
 どうやら、ただ眠っているだけであるらしい。地面には彼女の姿は見えたりはしない。俺はほっと一息吐き出した。であれば、朝食を食べ終わったころにもう一度見に来ればいいだろう。その時にはさすがに起きているだろうから。そういうわけで、扉を閉めて、後ろを振り向くと、そこに彼女がいた。寝ているとばかり思い込んでいた彼女が立っていて、そして俺の目の前にいるのである。つまりは、今こうして彼女の部屋をのぞいていたということがバレてしまったわけである。すうと、血の気が引いていく。これでは、信用がどうのこうので何とかなるような話ではないだろう。今まさに、信用が崩れ落ちてしまったのである。女性の寝姿を覗き見ようとする男に心を開く可能性は何割あるかという話なのだから。
 今すぐにでも弁明の言葉をひねり出さなくてはならないはずだ。だが、それが生まれることなんて決してない。頭が固まってしまったかのように、白く塗り潰されていって、考えることなんて不可能だと突きつけられているかのようである。彼女の顔がしっかりと俺の視界に入ってしまうほどに、それを遮ってくるわけである。じじじと、揺さぶってくるような感覚であった。
 ただ、彼女は何も言わずにただニコニコと笑みを浮かべているだけである。何を考えているのかと奥底を読み取られないようにしているのだろうという笑みではあるが、そこまでは理解できても、そこから先がわからない時点で、彼女の思惑通りというわけなのだが。俺だけが一人勝手に踊っているのかもしれない。あまりにも滑稽でしかない。バカバカしい存在であり、哀れである。

「……あ、もう立ち上がっても大丈夫になったんですね。そ、それはよかった。……ですが、ちゃんと部屋の中にいてくださいよ。突然いなくなったものだから心配しちゃったじゃないですか。まだまだ完全に回復しきっていないというのに、いなくなるなんて心臓に悪いですからね。ところで、どこに行っていたんですか?」
「そうですね……少しお庭の方を散歩させていただきました。久しぶりに元気に起きることが出来ましたので、出歩きたくて仕方がなかったのです。今までは、歩くことすらも億劫でありましたから。久しぶりの元気な体を満喫したかったのです。それで心配をさせてしまったのだというのなら、謝ります。ごめんなさい。次からは、ちゃんと誰かに伝えてから出歩くことにします。……ところで、どうしてわたしが寝ている部屋をのぞき込んでいたのですが? もしかしたら、襲うつもりだったとか?」

 彼女は冗談めかして言う。俺は、笑うようにしてそれを否定する。真剣になってはならない。彼女が冗談であるならば、俺もそれに乗っているというように雰囲気を見せなくてはならない。本当にそのつもりがないならば、そうするべきだ。真ではないからこそ、より慎重に動くというものであるのだから。
 彼女の上からの視線があまりにも全てを見透かしていると言わんばかりだ。しかも、それは全く別の方向へ進んでいるという視線である。なにせ、俺はそのつもりが全くないのだから。ただ、彼女が倒れていないかという心配からのものだったのだから。とはいえ、自己弁護をしてはならない。今してしまえば、必死に取られてしまう。内々で処理する案件では、必死になればなるほどに、ドツボにハマるものなのだから。
 彼女は俺の手を掴むと、にんまりというように笑みを浮かべてそれだけであるのだ。すすと、持ち上げてきて、自分の頬に当てている。うっとりという表情がふさわしい程にである。彼女が何を考え、何を求めているのかがわからない。そのままに、するすると俺の手を掴んだままに、下へと降りる。首筋をなでるように。鎖骨に引っかかるように。そのまま胸にまで行こうとするところで、止める。全力で腕に力を入れる。そして抜き取る。もう少しで、彼女の胸を触るところであった。まだかろうじて触ってはいない。彼女の胸が、ないといってもいいぐらいの大きさだったというのも助けになることだろう。柔らかさに当たる前に避難することが出来たのだから。
 俺は、彼女がどういう理由でもって俺にそんなスキンシップをしてくるのかが理解できずにいるのである。当たり前であろう。それに、愛とはまた別に、肉体的な接触を求めてくると言うのも、俺はあまり好ましくはない。特に、俺が夫だからというのがあるだろう。妻がいるというのがあるだろう。それでありながら、他の女性の肉体に触れることを是としてはならないはずである。それは、俺の心の芯から決めていることなのだから。
 彼女は、何も言わずに部屋の中へと入っていった。俺はその後姿を見ているばかりでしかない。なんと声をかければいいのか。ただじーっと見ていることが精いっぱいであったのだ。ふっと意識が戻るようにして、食堂へと向かう。本来の目的は朝食をとることなのだから。今は、彼女とのあれこれは忘れることとしよう。それが最も精神衛生上よろしい事のように思えてくるのだ。
 俺たちの朝食が終われば、使用人の一人に、彼女にも食事を持っていくように伝える。確かに、歩けるようになっているのだから、ここで食べさせてもいいだろうが、体力が完全に回復したわけではないだろうから、それだけの運動でもとりあえずは避けていいだろう。そう思ったわけである。当然、俺が行くわけにはいかない。睨み付けるように、警戒するように、視線がこちらへと飛んできているのだから。この視線の中でも、なお出来るというのであれば、なかなかの猛者であるだろう。人の視線に対してあまりにも無関心であるともいえる。
 それも仕方のないこととして処理は出来る。むしろ、彼女の存在は俺の我儘の結果となるわけなのだ。彼女たちは、俺の妻は誰一人として、彼女の存在を許容していないのである。器が小さいというわけではない。極限まで高められた警戒心から生まれるものなのである。俺がだらしないというわけではないが、どの女性に対しても一定以上の好意をもって接するということもあるのだ。ふうと息を吐き出した。別に何かあるわけではない。気持ちが辛いとかそういうわけではない。憂鬱ではない。別のものに変わるための儀式であるというのがしっくりくるかもしれないのであった。
 そんな日が何日も続いている。あの女性はムウというらしい。彼女はこの家の中でルクトルと一番仲がいいと思う。どういうわけか、意気投合しているのである。なにやら、いろいろと相談に乗ってもらっているみたいだが、その相談は、役に立つのだろうかなどと思わないでもない。なにせ、性別が違うわけなのだから。性別の違いというのは思う以上に大きい。わずかな仕草に、明らかな違いが出る。ルクトルは、どれだけ頑張ろうとも女性よりも、女性らしい仕草なのだ。男性が想像する、理想となる女性像によって導き出された仕草というのをルクトルはしている。細かなレベルで。それがあるから、明らかに、自然体として女性なハルたちとは大きく違っているように見えるのである。だが、それを一々指摘することはないが。
 最近は、そのルクトルの動きがより一層艶っぽさを増しているような気がする。なんとアドバイスをされたのか気になるところだが、男である俺に対して、一番刺激を与えてくるのが同じ男であるルクトルというわけであった。一番女性的なのだから仕方がないということだろうか。ただ、それに対して女性陣もあまり面白い反応を見せるわけがない。だが、自然体が女性であればこそ、意識的な女性的仕草があまりにも滑稽に映ってしまうという面もある。だから、そうする前に、彼女たちには自然体でいてくれればいいと言っている。当然、ルクトルにも無理はしなくていいと伝えておく。おそらくは、無理をしているわけではないのだろうが、過激な道へと行かないようにという予防線もある。

「どうですか。ルクトルさんはとっても魅力的に映るようになりましたでしょう。あの人の本来の美しさとはそういうものなのです。これは、女性には出すことの出来ない美しさ。おのこのみが許されるであろう真の美しさだと思うわけです。それを伝えることが出来てとてもうれしく思っています」
「……なんだ、ルクトルが男だって知っているのか。とはいえ、どういうわけで相談に乗っていたのかがわかりはしないが。彼がそう簡単に自分が男だなんて伝えるとは思っていなかったものだからな」
「いいえ、アランさん。彼女はおのこですよ。男だなんて性別は彼女には当てはまりはしませんから。それは、彼女に対する侮辱ととらえられてもおかしくはないですよ。人にはそれぞれ正しい性別があるのです。そして、その中として、彼女は男というにはあまりにもふさわしくはないのです」

 まっすぐに俺の目を見るようにして言っている。一つとして間違ったことは言っていないと言わんばかりである。俺が間違っているかもしれないと錯覚させるだけの力を持っているのである。瞬間的に俺が謝罪しそうになってしまう。だが、それを無理やりに食い止めるわけである。何とか最後の最後で保つことの出来た意思というものだろうか。
 俺は、何度だって彼が男だと言い切れる。なにせ、実物を見ているわけだし。その時には確実についていたのだから、男であることは確実であり、それは変わりようがない。ただ、それでも、彼女は違うという視線を向けているのだ。男ではないと。ただ、女でもなさそうだ。おのこ。彼女がいうにはルクトルはその性別であるらしい。全く聞いたことのない性別である。どこの世界の常識だろうか。
 がらりと、彼女が不気味なものであるかのように見えてきてしまう。先ほどまでの笑顔が素敵な女性はもういなくなっているのだ。ただ歪んだように頬がつり上がっているようにしか見えないのである。笑顔が笑顔として認識されなくなっているのだ。彼女の表情が全て、自分の狂気を演出するためのパーツであると訴えかけているのではないだろうかと、思ってしまうわけである。
 俺はそれを否定はしない。彼女の言葉を否定はしないのだ。それはより大きな争いの火種へと変貌しそうだから。触れないようにして、さらりと流しておくだけで十分ではないかと思っているのだから。それは正解だろう。間違いなわけがない。手を出していい領域と、そうではない領域。そのどちらかかを見分ける必要があるのだ。

「まあ、まだまだルクトルさんはおのことしてふさわしくはありませんが。まだまだ足りないことがいくつもあります。真のおのこというのは男性と愛し合い、そして子を産むことが出来るのですからね。わたしのように。その頂に到達することは出来るでしょうが、今できてはいない。それが非常に残念ではありますが、彼女はまだ向かうことを許されてはいませんのでね」

 なにやら、おかしなことを言いだしている。遠く、どこかを見つめてぼそりぼそりと呟いているのだ。頭は大丈夫かといいたくなるが、たぶんそれは意味がないのだろう。どこの次元に子を産めるようになる男がいるという話だ。それは、あまりにも科学が発展しすぎた世界でしか起こりえないはずである。しかも、先ほどの発言の中にはムウ自身も男……いや、おのこか。おのこであると言っているようである。気になるところだが、それを確認はしない。それがどれだけ危険なことかというのは俺自身が、身に染みて理解しているのだから。
 彼女のその視線の先には何が見えているというのだろうか。何も見えていないのかもしれない。あまりにも暗く黒く、塗りつぶされているのかもしれない。それだってあり得るし、それの方があり得る。そんな世界を目に見えていることは間違いではないのか。あまりにも、濁ったように、先ほどまでとは大違いであるかのように瞳の奥底までがくすんでしまっているのであった。

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