天の仙人様

海沼偲

第204話

 なんとなく、家の外へ視線を向けてみると、ふらふらと俺の家の前を歩いている女性がいた。あまりにもおぼつかない足取りであり、心配になってしまう。ただ、彼女が俺の家のまえで倒れてしまうことがあれば助けようということにする。今すぐに助けてしまえば、ハルたちになんて言われるかわかったものではない。彼女たちの嫉妬はどのような方向へと向かうのかがわからないのだ。であれば、慎重にならざるを得ないのである。もし、倒れてしまうということは、それほどの緊急事態だということだろう。であれば、それを盾に救助が出来るわけである。それに対して文句を言うほど彼女たちは狭い心を持っているわけがないのだから。とはいえ、そこまでしないと、動けないというのはじれったくはあるが、そもそも、彼女の不安定な足取りは素のものなのかどうかがわからないというのも一つあった。
 倒れた。ふらりと意識がなくなったかのように倒れてしまったのである。これならば、確実に助けに行く案件、行かなくてはならない案件であろう。俺はすぐさま、敷地を飛び出して彼女のもとに駆け寄る。まだかろうじて息はあるようだ。さすがに死んではいなかった。死んでいたとすれば、ほとんど俺が原因だと言っていい。妻に怒られることを恐れて、助けなかったということなのだから。だから、そうではなくてほっとする。
 俺はすぐさま抱き上げると、家に運んで適当な部屋で寝かせる。その途中ですれ違った使用人に、軽い食事と水を用意させる。それが来るまでは、俺が気を巡らせていき、かろうじて体力を回復させていく。そうしなければ、死ぬのではないかと思うほどに衰弱しているのだから。だが、その状態の人間に栄養価の高いものは食わせてはならない。少しずつ慣らしていかなくてはならない。最初は、粥とかその程度のものを少量ずつだろうか。知識としては知っていても、今までそんな人間を相手にしたことがないのだから。圧倒的なまでに経験が不足している。そして、そんな経験はこれから先増えていかないことを祈るのであった。あればもしもの時に役立つだろうが、そんな知識が披露することはこれから先の人生であってほしくはない。これほどまでに披露することが喜ばしいことではない知識はありはしない。

「こ……ここは……どこ? さっきまで……通りを歩いていると思って……いたのだけれども……。どうして……家の中にいるの……でしょうかね……?」

 一時間であろうか、二時間か。どれだけの時間が過ぎたかは分かりはしないが、ようやく、彼女が目を覚ました。かすれたような視線で俺のことを見ている。意識がもうろうとしているのか、ふらふらと視線までもがさ迷ってしまっているのだ。どれほど危険な状態なのかと思わずにはいられない。とりあえずとして、少量の水を飲ませる。これも少しずつ。決して、胃を驚かしてはならない。慎重に慎重に、さらに慎重を重ねたって罰は当たりはしないだろうさ。彼女を助けるために、空腹の人間を相手にして、食事を制限するという、所業をしなければならなかった。
 ようやく上体を上げることが出来るまでになる。一日での、それも数時間程度しかない出来事だが、大きな進歩であるかのように感じてしまう。それだけ、彼女が危険な状況だったということなわけであるが。今の彼女は真っすぐに俺のことを見つめられるようになっている。意識がはっきりとしていることは確かだろう。その状態で、ゆっくりと粥を食べている。とはいえ、ペースを間違えないように、俺が食べさせているのだが。空腹だからといって、目一杯食べてはならないのだから。そこを間違えてしまう可能性がある限り、俺が食べさせるしかない。
 匙を出してあげれば、ゆっくりと震えるような唇で咥える。まだまだしっかりと咀嚼出来ていないかもしれない。急いで腹に流し込むように見える。何度もしっかりと噛んで食べるように言っているのだが、やはり、腹を満たしたいという思いが強すぎてしまうのだろう。当然なのだが、それはダメなのだ。それをし続ける限り、自分の手で食べることは許可できないのだから。
 恐怖によって、生を脅かされている彼女の震えるままの手は、俺の服の裾を掴んだ。今まさに近づいている人のぬくもりを離したくはないという意思の表れなのかもしれない。なのだとしたら、俺は彼女のそばにいてあげなくてはならないだろう。彼女は病人なのだ。そんな人の願いは出来る限りかなえてあげたいと思うのは当然なわけなのだから。ゆっくりと、体を預けてくるように、倒れてくるのであった。
 しかし、それはなされることはない。扉が開いたからであった。その先にいる女性は、俺のよく知る女性であり、今まさに起きようとしているものを許す様な女性ではなかったのだから。

「……だれ、その女? ベタベタと引っ付いちゃってさあ。いつの間に新しい女を連れ込んでいるわけ? しかも、食べさせてあげているなんて……なんてことをしているのかしら。というか、そこのあんたはどんだけ偉い身分の人間なのかしらね。あきらかに、みすぼらしい姿をしていながら、アランから食べ物を食べさせてもらっているなんて。恥ずかしいと思わないのかしら? あんたみたいな、浮浪者一歩手前、いいえ、両足を踏み込んだような卑しい身分の人間が、アランから食事を与えられるような偉い身分にいつの間になったのかしらね?」
「ハル、彼女は家の前で倒れていたんだ。だから、俺が家に運び込んでこうして看病をしているんだ。一回助けたのならば、こうして回復するまで、世話をしなくちゃならないだろう。それが義務だと思うんだ。確かに、彼女に自分の力で食べてほしいが、そうさせることはとっても危険なことだって、知っているだろう? それが原因で死んでしまっては意味がないんだからさ。だから、わかってほしい」

 彼女は呆れたように息を吐き出した。申し訳ないことをしているみたいだ。実際しているのかもしれない。だが、そうしなくちゃならないというのもわかってくれている。だから、これ以上突っかかってくることはない。ただ、俺が見知らぬ女性に食べさせてあげているということは納得出来ない様で、俺から皿を取って、代わりにやってくれる。俺は、移動して、他の椅子に座った。一応、見ておかないと。ハルが、へまをしないと信頼をしているが、ここで代わったからと放置するのもどうかと思うのだから。
 食事が終わった後は、彼女はベッドに横になって眠りについた。これで暫く安静にしておけば、大丈夫だろう。あとは、どうしてあのような状態にまでなってしまったのかということを聞くくらいだろう。さすがに、回復したからさようならというにはあまりにも人間味がなさすぎる。出来ることならば、二度と彼女がそんな事態に陥らないようにと手助けをしてあげるべきだと思うわけであった。
 部屋を出ると、ハルが思い切り睨み付けるように扉を見ている。いや、その奥にいるであろう女性を見ているのだろう。ただ、助けて助けられたという関係性でしかないというのに、それだけの警戒をする必要はあるのだろうか。あるのだろうな。彼女的には、それをするだけの意味があってしかるのだろう。なのだとしたら、俺が何かを言おうとも意味はないに違いない。無駄でしかない。静かにするばかりであろう。俺はそれだけし尿されていないのだと突きつけられているようにもとらえることは出来るわけだが。遠回しに、俺にくぎを刺しているのである。
 彼女はそのあとすぐに俺に鼻を近づける。匂いを嗅いでいるのだろう。鼻がひくひくと動いているのだから。そして、露骨にしかめた顔をするのだ。彼女の臭いが残っているからという意味が込められた顔を。そのまま俺に抱きついて、自分の匂いで上書きしようとしているが、それは意味があるのか。無きゃしないか。さすがに、ハルもバカではないはずだ。だがしかし、少しばかりそれが、おかしい事のように見えてしまうというのも事実なわけである。それ以上の愛おしさでもって塗りつぶされてはいるのだが。俺は、微笑むように顔を作って、彼女の頭をなでるのであった。
 満足いくまで、彼女とべったりとくっついている。それを何人かの使用人が羨まし気に見ている。おそらくは、これほどまでに愛し合っている夫婦の仲になってみたい、なりたいなんていう願望があるのだろうが、ハルはそうは捉えなかったようで、使用人たちも俺とべったりとくっついていたいと思っているのだなんて、勘違いしているようであった。そのために、じろりと周囲の空気が凍り付くほどの、冷たい視線で彼女たちのことを睨んでいるのだ。俺は、誤解を解いてもらうように、ゆっくりと、抱きしめていくのである。
 当然、今この家に新たに居候がいるということを皆にも知ってもらわねばならないだろう。それを知らせないのはある意味での裏切りとも近いかもしれない。それだけ大事なことだという考えが俺の中にある。ということで、彼女について説明をする。ただ、今この場にはいないが。ちゃんと眠ってもらっている。詳しい話は明日にでも聞けばいい。そういうことで話が進むわけである。みんなして険しい顔をしているが、アオだけは少しばかり違った気色の顔をしているのであった。

「おとうさんに、新しいお嫁さんが出来るの? 新しく、おかあさんがもう一人出来るの?」
「は? そんなわけないでしょ。たとえ、息子だろうと、言っていいことと悪いことがあるのだから、それは覚えないとダメよ。そして、今のは言っちゃダメな言葉……許されるような言葉ではないのよ。わかった?」

 アオの純粋無垢な疑問を、殺気がわずかに込められた視線と共に、ハルが否定をする。絶対に容認できないことなのだから、それぐらいは当然なのかもしれないが、子供に対して、その視線を向けてしまうというのはどうなのだろうか。ただ、彼女はそれを考えられない程度には、それを許せないこととして置いているわけだ。
 しゅんとしてしまったアオの頭をなでてあげながら、これ以上何か言いたいことはないかというように見回すが、特になさそうである。これはありがたいことだろうか。いいや、そうではない。不満がたまっているであろうという状況で、それを吐き出さないことは、より危険であるから。だから、さっさとすべてを吐き出してもらいたいところである。
 そう言うと、彼女たちは先ほどまで重かったかのように閉じていた口からボロボロと零れ落ちてくるかのように、話し始める。途中から、俺に対する不満がボコボコに出てくる。なるほどやはり、俺はそれだけ愛されているということであろう。愛がなければ、不満というものはそもそも生まれはしないのだから。だがしかし、彼女たちの想いに対して、どうにか応えたくとも、今回ばかりは応えようがないのではないかと思う。なにせ、彼女たちはみんなして、捨ておいてよかったなどと言うわけなのだから。助けた俺が悪いというかのようであった。気持ちはわかるが、本当に思っていたとは。難しいところだ。それだけ、俺のことを愛しているのだろうか。誰にも渡したくないと思っているほどに。
 なにせ、いまだにバチバチと睨み合うが続いているほどなのだから。抜け駆けは許さないという意思が、常にこの家に漂っている。皆が監視しているわけである。盗人のように紛れ込んで、それで何とか、そして朝に見つかり、他のものに囲まれる。そのくせ、俺がいなければ仲のいい友人なのだそうだ。俺は見たことがない。使用人からの噂ではそういうことらしい。俺の目の前でも見せてほしい。
 今日のところは、これで終わりとしよう。逃げるというわけではない。彼女たちがすべてを言い終わって満足したところで切り上げたのだから。そうでなければならないだろう。愛はたとえどれだけ重かろうとも、受け止めなくちゃならないのが男というものである。そして、それと同じだけを返してあげなくてはならない。それが絶対条件でなくてはならないのである。
 ベッドの中には俺とアオのみ。アオがいることによって、彼女たちの精神は安定する。俺一人であれば、誰が抜け駆けするのかと常に意識を飛ばしていなくてはならないのだから。アオがいれば、子供の前で出来るのかという話になる。それは出来ないと、彼女たちは理性を残してくれている。そのおかげもあって、俺はいまだに、この世界では未経験なわけでもあるが。アオがいない時から、抜け駆け禁止だと言わんばかりに、常に監視体制があったそうだ。そのせいで、寝不足であることは当たり前で、体調を崩すこともたまにあったのだ。今では、アオのおかげでそんなことはない。彼がいるという抑止力が、彼女たちの健全な睡眠をもたらしている。愛が深すぎるだろうが、それがたまらなく俺には嬉しく思えてならないのである。

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