天の仙人様

海沼偲

第185話

 目を開けば、そこには何も存在していないかのように白く染まり切っている世界が存在している。いいや、本当に存在していないのだ。全くといっていいほどに、物体らしきものが確認できないのだから。無の中に置いて、ただ白という概念が存在するばかりなのである。概念をものと呼べるのであれば、ものはあるだろうが、そうではない。気が狂いそうなほどの白であるのだ。今まさに、俺は寝ぼけてしまったのではないかとすら不安に思えてならない。とはいえ、俺の最後の記憶は、ベッドに入って眠りについたところであるため、これは夢なのだろうとは思う。というか、夢であってほしいが。
 全てが存在しないその世界で、俺のみが一人で立っており、周囲を見回しても、そもそも、周囲を見ているのかどうかすら怪しく感じるほどである。今俺が見ているものがそのままとして理解すればいいのだろうかという疑問がふと頭に浮かんでしまうわけなのだ。あるがままをあるがままに受け入れるということが相当に難しいことは確かなわけだが、おそらく夢であろう世界の見ているこの景色すらも否定しなくてはならないような、そんな感覚に陥っているのかもしれない。例えば、俺の周りを四角い白い箱がかぶさっていて、それを見ているだけなのかもしれないのではないかということもまた、あり得るほどなのだ。手足を動かしてみると、確かに動いている感触と、その姿が見られるので、俺という存在そのものは、今確かに、この場にいることは分かったが、それだけでしかない。
 からりと、何かが落ちてくる。それは石でできた羽根である。本物であるかのように生き生きとした姿のまま、活き活きとして石にされてしまったのだろうかと思えてならない。リアルがそこにある。リアリティではない。現実的ではない現実が今まさに目の前に落ちていて存在しているわけである。唯一存在するものが現実というのは俺に対する煽りなのだろうか、挑発だろうか。夢において現実を見せつけてくるというのは、相当に相手の心根が腐っている可能性を感じなくない。手に取って、見てみると、そうするほどに、引き込まれていってしまうようだ。
 そして、俺はこれを見たことがある。二度もだ。一度目は、今と同じような光景の中で、二度目は、クジラオオツバメを倒したとき。あれは、今も俺のベッドのそばの棚に置かれている。綺麗な装飾であるとして、飾ってあるのだ。そして、これが今もまた俺の目の前に現れる。もしかしたら、あの天使の石像が俺を呼んだからこそ、ここに来ることになったのだろうか。であれば、もっと早くにコンタクトを取りに来てもいいと思わないでもないが。どうして今さらなのだろうかという疑問が湧いてきて仕方がない。それは、これが妄執であり、妄言程度の類のものでしかないということを確信的に表しているという事実なわけであろう。
 発狂でもしてみたいものだ。この世界の中で狂ったように叫び嘆きたくて仕方がない。ここに閉じ込められるということの精神的苦痛を見せつけてやりたいものだ。俺は瘴気のままで狂えるのだから。騙すことは容易であろう。まるで狂人であるかのように振る舞うだけなのだから。これほど簡単なことはない。だが、この世界はそれを良しとしないのである。ただただ、追い詰めるだけで終えてしまう。最後の一押しがないのだ。それさえあれば、今すぐにでも狂ってやるというのに。
 とりあえず、誰かいないだろうかと探してみる。むしろ、それしかない。それだけが今の俺に出来ることである。ということで、一歩一歩を歩き出していく。静かな世界の中で、進んでいるのだろうかという不安に駆られつつも。今俺は進んでいるのだという自分の想像でしか歩くことが出来ていない。この感覚はたとえ、どれほどの回数を重ねたとしても決して慣れることはないだろう。そして、絶対に慣れてはならないような感覚なのだろうということも確かである。不気味なほどである。
 どれだけ歩いたかという時間の感覚すらも失ってしまうほどであった。景色も変わりなく、時間を計れるであろうものさしは存在せず。俺の精神のみをひたすらに削り続けているわけだ。ただ、立ち止まってしまうことは恐ろしい。それだけは出来ない。二度と歩くことが出来なくなってしまうのではないだろうかというそういった不安が駆け巡っており、足を止めるということは思い浮かべるということすらも頭の中から消し去らねばならないのである。いずれ消えてしまうのではないかという恐怖との戦いだろう。幻覚とか錯覚とかではない。ただ白いという世界の中で唯一存在する物体になってみればわかるという話だ。何もないのだ。そこで自分という存在を永遠に保ち続けていられる保証がどこにあるのかというわけである。それを知ってしまえば、もう恐ろしくて、自分が生きている、動いているという証明をしなくてはいけないように思えてならないのである。それこそが今自分が生きていると実感する方法なのだ。足が砕けようとも、俺は歩き続けることであろう。
 ここは一体どこなのだろうかという疑問がなぜだか浮かんでくる。確かに夢なのだろうが、俺の見る夢の中で、これは最も理解が出来ないのだ。たいていの夢は支離滅裂ではあるが、それなりの、俺の心理を移すことは間違いない。深層心理に働きかけてなくては夢ではないだろう。また、夢とは愛す人、強い思いを持った人との出会いの場でもある。だが、これにはその心理がないのだ、想い人もいないのだ。俺は人間ではないのだと訴えかけているかのように。俺が今まで人間だと思い込んでいたとしても、俺の本性はあまりにも人間ではないのだろうといっているかのように。不気味なほどに、俺という個人を徹底的なまでに否定しているわけである。この世界という奴は。どうにかして、人間として生きてきた俺の人生全てを否定してやりたいという強欲さがまざまざと見せつけられているのであった。それは実際に成功しているだろう。何せ、ここまで俺自身を追い詰めているのだから。自分が人間ではないのではと、わずかにでも思ってしまったのだから。
 だが、そうではないと信じるためには、ここがどこなのだという問いを立て、それに対する回答を用意するわけなのだ。俺たちは、今までも何度か夢の中で対話をしてきたことがある。そのどれもが、お師匠様であったり、閻魔様であったりはしていたが。ハルたちはまだ出来ない。つまり、彼女たちと俺とではそれが出来るだけの、実力がないわけであるが。想いの力は圧倒的に満たされているのだから、そこからさらに、必要なものが足りていないとなるのは当然であった。
 ということは、今こうしてこの世界に俺を呼びだしている人は、俺よりも圧倒的に格が上であるということ。そして、このような何もない世界を生み出すような人間であるということ。それがわかるわけである。あまり、好ましい趣味をしているとは思えない。どうにかして文句を言いたくはあるが、その相手が見えないのであれば、どうすることもできないだろう。だから、俺は歩くしかないのである。歩くことによって、生きているということを自分自身に納得させていくことによって、彼女が望んでいる展開からだんだんとずれた位置に着地していくのである。
 そうしていると、目の前には天使の姿をしている石像が現れる。あまりにも突然にパッと出現する。これのおかげで、俺は今までしっかりと地面を歩いているのだとわかる。進んでいたのだとわかる。今までの行い全てが無駄ではないのだと証明されたようで、心が晴れやかに明るくなるわけであった。そうして近づいたら、ゆっくりと彼女の体に触れる。冷たいが、そのうちから熱を発しているかのようなほのかな温かさを感じ取れる。もしかしたら、彼女はこの地に封印されていて、その助けを求めるために、俺を呼んでいるのかもしれない。そんな自意識的な思いに駆られる。あえてである。そうすることで、彼女と俺とのつながりをより強固にするわけだ。なにせ、俺は彼女に心惹かれてしまっているところなのだから。彼女の美しさに目を奪われてしまっているのだ。その永遠のままに、瞬間の美を切り取ったということ。それがたまらなく愛おしい。
 ハルたちと同じ程度には、彼女のことを愛おしく思い、そして愛していると声高に叫ぶことが出来る。それほどである。ただ、それをしてしまえば、彼女たちを裏切ることになるだろうからと、しないだけでしかない。それに、今の彼女はただの石像なわけなのだから、それに愛を告げたとしても、それはただ頭がおかしい人にしか見えないだろう。たとえ、周囲には誰もいないとしても、今まさに彼女の視線を感じているではないか。ものであろうとも、愛おしい人の像の前にして、彼女のことをただ物として処理することは出来ようか。出来ないだろう。だからしないというのもあった。
 ただ、美しいものに触れていたいという思いだけは押さえることが出来ずに、彼女の体を抱きしめるようにする。彼女の華奢にして、すぐにでも壊れてしまいそうな儚い体を俺のうちに抱え込むことで、一つになれてしまうかのようで、それにただ満たされていく。もし、俺がこうして、彼女と愛し合うだけのための世界なのだとしたら、それはそれで、喜ばしいことである。たまに、彼女に会って、この世の全てを忘れ去って愛し合うだけなのだから。それはどれほどまでに素敵で美しい事であろうか。俺がもし、独り身であれば、この夢の中に囚われ続けることを望んでいたことは間違いない。ただ、そうではないのだから、それに羨ましさを持ちつつも、それを望んだりはしないわけである。それが、誠意というものであるのだから。
 そういえば、この世界では声を出すことが出来ないのだったな。であれば、彼女に対して愛を囁くことは出来ない。それは残念であり、ほっとしている。何かを間違ったように口走ることはないというわけなのだから。というわけで、試しにと、彼女に対して愛を告げてみることにした。誰にも聞こえることはなく、無として放たれるそれを。虚しさのみで形どられてしまえる、絶対となる法で処理されてしまう叫びを。

「あなたのことを愛しております。いまこうして、俺とあなたは永遠に一緒であるかのような時間の中で、それすらも消えてしまうかのようなあいまいであります。俺はそれがたまらなくうれしく思っております。ただ、俺には現実においても愛する者がいるために、あなたのみを愛し続けることが出来ないということではありますが。ただ、あなたのことを好いており、その思いが永遠に変わることはないと、そう確信しております」

 それは、少しの違和感もなく起きた。そのために、俺は一瞬気づかなかった。まさかであったのだ。普段通り過ぎたために、先ほど意識していたその全てが完全に消え去ってしまって忘れてしまったのである。それが確認できてしまったので、俺は驚いたように息が止まるかと思った。それと同時に、もう一言何か言えないものかと適当に、話してみる。だが、それは全く口にすることは出来なかった。呪われたかのように口から出ることはない。俺は今すぐにでも発狂したい気持ちをこらえて、ただ、彼女を眺めることしかしなかった。
 消えることはない。何もないということはない。この世の全てが彼女に収束されているわけであり、それが、たまらなく美しさとしてこの世に顕在しているわけでもある。その中に置いてさらに、手に取って触れてみたいとさえ思い、それが大きな大罪となることも恐れないほどの無謀さをもたらしてしまえるわけであった。すうと、意識が消えてしまいそうになるほどの、感覚の中で、俺は何度も反芻していくのである。混沌の中に混ざり合わさってしまうかのような気持ち悪さと気持ちよさの中で溶けていっているのだった。

 茶色である。優しい木の色が広がっている。どうやら、現世に戻ってきたらしい。あのままあそこの世界に隔離されてしまっていたら、俺の精神は壊れていたことであろう。ギリギリでも見極めているかのようではあるが、そんなことはないと信じたい。現実の俺が起きようと思ったからこそ、こうして、目を覚ましているはずなのだ。ただ、それまでの間の時間を好きなように操れるのであれば、俺はあの世界に数十年でもいることになるのだろうが。そうしてしまえば、時間の感覚なんて消滅することは確かだ。ただでさえ、時間の存在しない世界を永遠とは、どうなるのだろうか。考えたくもない。
 隣には、ルクトルが眠っている。裸で。いつの間に脱げ捨てていたのだろうかと、疑問に思うが、俺は、少し寒気がする体を温めてもらうために、抱きついてみる。彼は裸であろうが、少しも気にしないだろうからいいだろう。と思っていたが、どうも密着したからだが、変な気がしてならない。布という壁が存在しないような感触だ。と思ってみてみれば、俺も裸であった。はて、いつ服を脱いだか。全く覚えがない。服はベッドの外に散乱している。めちゃくちゃに飛び散ってしまっている。あれでは、汚らしいことこの上ない。だが、それ以上にどうして裸になっているのかという疑問で脳内が侵されていることは確かであった。
 だが、答えが出る気はしないので、そのまま気にすることはなくルクトルの体に抱きついて、体温を高めていく。とても心地のいい抱き枕であった。このまま再び夢の世界へと旅立ってしまいそうなほどであるのだった。

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