天の仙人様

海沼偲

第154話

 最上階まで上がってきた。唯一の扉を蹴り開けるとそこには一人の男が立っている。その足元には手足を縛られ、目隠しをされているキーリャの姿があった。どうやら、それぐらいであり、暴行を受けたであろう痕跡は一切ないことが分かる。間に合ったのか、そもそも、最初からするつもりはなかったのか。どちらだとしても、今こうして、彼女が無事であると知ることが出来たのはいいことである。
 男の姿は異質とでも言えばいいのだろうか。顔は当然のように仮面で覆われているために、わからない。服装も体全部を隠すかのようにぶかぶかとしている。手足のわずかに肌が見えているところは紫色に変色している。道化師というにはいささか子供に恐怖を与えるではないかという印象だ。街中を堂々と歩くには相当な覚悟が必要な格好である。ここまで怪しい格好をしていては、誘拐をするという時にはデメリットしかないと思うのだが、どうなのだろう。なにかしらの、特異な能力が付けられた着物なのだろうか。

「貴様が、キーリャを誘拐した犯人だということでいいんだろうな。少なくとも、こうして彼女が傷つけられていないというだけで、俺たちの怒りはそこまで達していないが、それでも、誘拐したという事実は決して消えることはないからな。後悔しても許して流行らないと思え」

 彼はただじっと立ったままでふらふらと揺れている。まるで俺たちを小ばかにしているかのようであった。俺たちを怒らせるためだけにそれをしているようにしか思えないのである。一体何の意味があるのだろうか。
 いち早く動いたのはルーシィであった。瞬間で詰め寄り、そのまま一撃をくらわせる。だが、わずかに拳でずらされていたために、空を殴ることしか出来ていない。そのまま、足を回して、蹴りを入れようとするのだが、それも読まれていたようで、難なく回避されてしまう。距離が開いてしまい、どうやっても攻め立てるような気の抜き方をしているわけではないので、振出しへと戻ってしまう。
 ブクブクと手が泡立ってきている。あまりにも唐突に手から泡が現れる。沸騰をしているかのようである。激しい音を鳴らしながら、紫色の手から湯気も出ている。その手を横に振ると、何やら紫色の液体が俺たちの方へと飛び散っている。これに当たりたくはないために、すぐさま避ける。危険であると伝えているかのような気味の悪い現象なのだから。そして、地面に落ちてしまった液体は床を溶かしているようである。焼けるような音を出しながら、煙が出ている。石で出来ている地面なために、それはわずかに傷つけただけで終わっているが、石を溶かせる程度の液体を放出することが出来るというのは、なかなかに危険な相手であろう。であるならば、そう易々と攻めることが物理的に出来なくなってしまったと言われているようなものである。体から腐食性か酸性か、そのどれかの液体を吹き出すような相手にして、体が溶かされてはたまらない。
 どうやら、液体は腕から滴り落ちているようで、ぽたりぽたりと粒が指先から落ちてしまっている。そして、それがとまる様子は見られない。一度出し始めたら、止まらないのかもしれない。それは欠陥過ぎるが、少なくとも、俺たちと戦う間に止まってしまうということはないだろう。そんな簡単に攻略できるようなものではないはずだ。その全てが俺たちに不利であるという情報だけを落としている。
 ということは、体の一部でも掴まれてしまえば終わりということである。その瞬間に服どころか肉が溶けることは間違いない。絶対に触れられてはならないものである。慎重に攻撃しなくてはならなくなってしまったということだろう。
 俺たちは、ゆっくりと構えをとりながら彼の様子を見ている。もう一度腕を振り回してくれれば、その隙に飛び込んで一撃でも食らわせられるだろうが、今の状態では、不用意には飛び込めまい。俺の一撃を彼が耐えきってしまえば、その瞬間に俺の体が掴まれてしまうことは確実なのだろうから。そもそも、ルーシィの攻撃を避けれる程度の速度があるわけで、そのついでに液体をかけられてしまえば、受け止める必要すらないわけだが。それはあってはならない。だんだんと肉が溶けていく様を見せられたくはないのだから。そうならないためである。俺たちの精神的な安寧のための絶対条件である。仙人であろうとも、自分の体が溶ける様子を見たいとは思わない。

「ふうむ……彼女を誘拐でもすれば、もしかしたら君に出会えるかもしれないとは思っていたが、本当に助けに来るとは思わなかった。幸運だったとでも言うべきだろうか。いいや、幸運だったのは彼女の方か。なにせ、助けに来てくれなかったら、明日か……いいや、明後日か。明後日には殺していただろう。だから、こうして、君が助けに来てくれたことを、私は非常にほっとしているのだよ。胸をなでおろしていると言ってもいいだろうね。君の行動が少しばかり予想しやすくて助かったよ」

 男は胸に手を当てて息を吐く。俺たちを小ばかにするようにであった。それにわずかな怒りを覚えてしまうが、今は冷静にならなくてはならない。それに、彼は今確かに聞き捨てならないことを言っていたのだ。俺は、そこに集中しなくてはならない。彼女の価値はあまりにも低すぎるのだという結論が今まさに彼の口から出されてしまったのだから。男の中でのキーリャの価値を落とす前に俺がここに到着できたことをとりあえずは安堵しておく。そうでなければ、取り返しのつかないことになっていたことは確実であるのだから。
 彼が俺を呼び出すために、彼女を誘拐したのだとしたら、またしても、彼女には俺のせいで危険な目にあわせてしまったということになる。なぜ、こうもひどい目にあわなくてはならないのだろうか。しかも、俺がおおもとの原因となっていることによってであるのだ。俺の心を弄ぶように痛みつけてきている。彼女と俺の二人が同時に苦しみをもたらされているのである。本当に申し訳なさを感じて仕方がない。とはいえ、俺が原因だとしても誘拐してしまったこの男を倒して、すぐにでも救出してあげよう。そうすれば、少しばかりは俺の心の奥底に鈍く光っている罪悪感も取り払われることだろう。むしろ、そうなってくれなくては困るというものである。

「君の怒りというものは見ていて面白い。自分にさせられた仕打ちか、それとも彼女にもたらされてしまった仕打ちか。そのどちらでもあり、どちらもが混ざり合っておかしなことになっていそうではある。心優しくあり、それ以上に激高しやすい短気ともいえそうだね」
「その全てが、貴様のせいで起きているところをよく考えてもらいたいものだな。貴様さえいなければ俺としての精神は全く大きな揺らぎを生み出さずに安定していたことは確かなのだからな。どうにかして、貴様をこの世の苦しみを全て味合わせたくして仕方がないところだ」
「それは面白そうだ。期待して待っているとしようかな」

 彼はなんてことないようにひょうひょうと言ってのける。俺は内において怒りを爆発させつつも、外においては少しのそれを漏らすことなくため込んでいるのである。静かに、怒り、それを力に変えていく。気の巡りはより早く。周りが自然であふれているというのも素晴らしい。俺のために力を貸してくれているようだ。
 俺は瞬間で彼の目の前に移動し、彼のわき腹へと拳をめり込ませる。その瞬間に耐えきったようで、腕が伸びてくる。だが、彼の体は唐突に動かなくなる。一瞬しかなかったが、その硬直の瞬間に俺は彼の間合いから大きく距離をとっているのである。一瞬しか金縛りにかけられないのは少し苦しいが、そのわずかな時間さえあれば何とかできるようである。だが、仙術としての俺の力が高まってなお、わずかだけの金縛りしか効かないとなれば、実力差が相当に離れていることを証明されているものだが。彼は殴られたところを手で触れているようだが、まるでなんてことないかのようにケロリとしているのである。少なくとも、拳一発程度では耐えきってしまうということか。ならば、もう少し数と質を上げなくてはならない。
 彼が、近づいてきた。あと少しで俺の腕に触れそうとなるときに、体の動きを止める。今度はハルが止める。その瞬間を見計らったように四人の拳、そして蹴りが男の体に叩き込まれる。仙人三人に、吸血鬼一人の攻撃をもらえば、さすがにどれだけ難かろうと、ダメージは入っているはずである。その最後とばかりにアオが口をすぼめるようにして、水を噴射する。さすがの威力に恐れたのか、彼は、大きく距離をとり、息を整えているように見える。残念なことに当たりはしなかったが、壁に水によって穴があけられている。これが彼の体に当たっていれば、体を貫通していたことは間違いない。その彼だが、今まさに大きく息を荒げて、苦しんでいるように見える。だが、今が好機だと、飛び出してはならない。あれはおそらく隙をわざと見せているのだろう。普通ならば、肩を上下に動かして息を整えたりはしない。自分で、動きのリズムを教える阿呆はいないのだ。だからこそ、俺たちは警戒するように、その場にとどまる。
 息が詰まるかのような時間だ。小さな秒が大きな時間に見えてきてしまう。ただ対峙しあっているというだけでも、少しの動きも見せられないかのように緊張感が高まっていくのである。ピリピリと震えている空気が、動物たちを逃がすだけの危険性を高めていく。遠くから、遠くへ逃げていく生き物たちの息遣いが感じ取れる。
 彼のことを警戒しつつしっかりと観察しているのだが、どうも仮面の形が変わっているような気がしてならないのである。先ほどまでは、真一文字に閉じていた口の端がわずかに吊り上がっているように思えてならないのである。笑顔を作ろうとでもしているのだろうか。戦闘中に笑うということなのだろう。それは、狂気を演じるには重要な手段だろう。狂った人間だと錯覚させられる。自分は暴力により笑みを浮かべてしまうイカレタ人物なのだと証明するため、そう錯覚させるための記号なのだ。戦闘中ではより狂った方が強い。相手に恐怖を与えたほうが強い。だからこそ、笑顔はより凶悪な武器として、顕在し続けるのである。
 ぎぎぎと仮面の口元が三日月を描くように、笑いだす。笑顔だけである。声はついてはいない。だが、それだけでも十分に狂気を演出するには十分だろう。むしろ、音があってしまってはそれにケチをつけてしまうことだってあり得る。無音の中に笑顔が一つ。それである方がよっぽど恐ろしい。だからこそ、ただ笑っているという姿のみが浮かび上がるわけなのだ。
 精神的な優位というものは決してバカには出来ない。だからこそ、俺たちはそれを拮抗する為に、笑う。笑顔を見せる。牙を見せつけるような笑顔で対抗するのである。お互いが同じ表情を見せつけ合うことで、俺たちは同じ優位性を獲得するのである。戦いの基本だろう。彼もそれはわかっていたらしい。肩が揺れているようである。もしかしたら、声を押し殺して笑っているのだろうか。なにせ、今この場には全員が笑顔を見せているのだから。これに笑わないでいろというほうが無理なのかもしれないのだ。
 男が倒れるようにして重心を移動させ、その勢いのままに駆け寄る。恐ろしく速い。足元を這うように来ているということもあり、攻撃を当てづらい。足元に振り下ろす必要があるためである。俺は、踏みつけるようにして、足を振り下ろすのだが、それをさらりとかわされてしまう。背後に回ると、手のひらが顔へと接近しているのだとわかるのだ。俺はすぐにしゃがみ込んで、タイミングを外す。その直後に、男はハルに殴られる。その衝撃でわずかによろけてしまったようで、その隙を逃すわけなどなく、ルーシィが下の階から持って来ていた剣を横に振るう。そこから赤黒い血液が噴き出してきて、それをルクトルが手ですくって舐めてみる。吸血鬼には、血の味を確かめることで、その者がどのような存在なのかを理解できるという力を持っている。この男のように正体が一切わからないような存在相手には有効であろう。もしかしたら、それも酸性で出来ているのかもしれないと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。ただ、少し舐めたルクトルはあまりにも不味そうな顔で吐き出すようにしている。口直しにとばかりに、俺の首筋に背後から噛みついている。ただ、その光景はハルの怒りを買っているということにも出来ることならば気づいては欲しかった。だが、今喧嘩をしている余裕はないので、それ以上には発展することはないのだが。そこだけが今の状況の救いともいえるところだろう。

「……アラン様。少なくとも、あのものはこの世にいるようなものではありません。怨霊とでも呼べばいいのでしょうか、それらの負の情念があふれ出ております。しかも血液にまで混ざり合ってしまっているというのは私にはわかりません。少なくとも、生き物で血液に感情を持たせている種族というものはおりませんので。もしかしたら、あの世からの使者なのかもしれないですね。そうしたら、なぜ、アラン様を狙っているのかがわかりませんけれども」
「そうか、ありがとう。出来るだけ警戒したままに俺から離れてほしい。動きにくい状態でいると、そこが隙になってしまうからね」

 ルクトルは、すぐさま俺の体から離れる。俺は一応は転生しているが、閻魔様に許可をもらって、記憶までくっついているはずだ。だから、そのことで目をつけられるようなことはないのだと思っている。だから、いま、少しばかり思い浮かんでしまったことは間違っているのだと思いたいのである。

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